はじめに
この一年をあなたはどのように過ごしただろうか。東京キリスト教会の語り手にとって、2025年は忘れられない一年となりました。双子の娘たちが生まれ、すくすくと育っているのです。しかし、この一年を本当に特別なものにしたのはそれだけではありません。何よりも大きかったのは、彼がこれまでにないほど深く、神とともに歩むとはどういうことかを学んだことでした。
聖書は、あなたの人生、とりわけあなたの信仰の歩みを、一つの旅にたとえます。それはイエスに従い、神とともに歩む旅です。この旅は、ときにわくわくするような冒険のように感じられます。しかし聖書はまた、この旅を競走にもたとえます。しばしば過酷で、ときに疲れ果ててしまい、あきらめたくなるような、長い忍耐の競走です。
この分かち合いを導く聖句は、ヘブル人への手紙12:1-2です。「私たちも、このような大勢の証人たちに雲のように囲まれているので、あらゆる重荷と、まといつく罪を捨てて、自分の前に置かれた競走を忍耐をもって走り抜こうではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」神はあなたのために、あなた自身の競走を備えてくださいました。それは他の人と競い合う競争ではありません。ただ一つのことだけをすればよい競走です。あなたの前を走っておられる方に目を据え続けることです。
そこで、2026年を迎えるにあたって、この信仰の競走を走り抜くための二つの原動力をお伝えします。信仰の模範たちから学ぶこと、そしてイエスに意識を集中し続けることです。
メッセージの構成
1. あなたはひとりではない:雲のような証人たちがあなたを取り囲んでいる
ヘブル12:1はこう言います。「私たちも、このような大勢の証人たちに雲のように囲まれているので、あらゆる重荷と、まといつく罪を捨てて、自分の前に置かれた競走を忍耐をもって走り抜こうではありませんか。」
この証人たちとは誰のことでしょうか。それは前の章、ヘブル11章に登場する男女、旧約聖書における信仰の英雄たちです。この語り手は長い間、この証人たちをスタジアムの観客席から「頑張れ、持ちこたえろ」と叫ぶ応援者たちのイメージで思い描いていました。しかし、もともとのイメージはむしろ法廷のものです。この証人たちは応援団ではありません。証言台に立つ証人なのです。彼らはその生涯全体をもって、同じ一つの証言を立てています。「私は信じた。私は苦しんだ。しかし神は真実であられることを示された。神の約束は本物だった。」
大阪の商店街に、たこ焼き屋が二軒並んでいると想像してみてください。一方は誰もおらず、もう一方には長い行列ができています。あなたはどちらに行くでしょうか。もちろん、行列のできているほうです。お客の数そのものが一つのしるしになるのです。信仰の証人たちの雲も、これと同じ役割を果たします。彼らの数の多さが、神のみことばが確かであることを、イエスが信頼するに値する方であることをあかししているのです。
クリスチャンとして、あなたはこれまで何度、孤独を感じてきたでしょうか。教会では励まされます。しかし学校や職場、家庭では、信仰を生きているのはあなただけかもしれません。あなたはひとりで戦っているのでしょうか。いいえ、違います。聖書は言います。あなたはひとりではない。おびただしい数の証人があなたを取り囲み、こう語りかけています。「神は真実である。信じる価値がある。あきらめてはいけない。あなたにもできる。」
2. あなたのアイデンティティ:あなたは信じる者たちに属している
ヘブル10:39。「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」このことばは、何よりもまず「もっと強く信じよ」という命令ではありません。これはアイデンティティの確認です。英語ではこうはっきりと表現されます。「私たちは信仰を持つ者たちに属している。」あなたは、信じる者たちの家族に属しているのです。
信仰は、確かにあなたが神に応答することです。しかし同時に、それはあなたに与えられた神からの賜物でもあります。あなたがすでにクリスチャンであるなら、そのことを覚えておいてください。まだクリスチャンでない方、あるいは求めておられる方は、こう心に留めてください。神は、ご自分を信じるというこの賜物を、あなたに与えたいと願っておられます。たとえ今、自分を弱いと感じていても、こうしてここにいて、みことばに耳を傾けていること自体が、すでに神のわざであり、贈り物なのです。あきらめまいとするあなたの戦いも、悔い改めようとするあなたの葛藤も、すでに神があなたの内で働いておられるしるしです。
3. 信仰とは何か:神に根ざした保証と確信
ヘブル11:1-3。「さて、信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばによって創造され、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを理解するのです。」
この箇所は、信仰の定義そのものというよりも、信仰が何をなすかについての描写です。信仰を持つ人の人生の中に、それが何を生み出すのかということです。
「保証する」と訳されたこの言葉は、もともと不動産の権利証を思い起こさせる言葉です。家を買うとき、あなたには権利証が渡されます。まだ引っ越していなくても、その証書はその家がすでにあなたのものであることを保証します。信仰もこれと同じ保証をあなたに与えます。神があなたの将来のために約束してくださったことは、すでにあなたのものなのです。
「確信させる」(あるいは「実証」)ということばは、法廷において真実を確定させる決定的な証拠を思い起こさせます。信仰は、現実ではあるがまだ目に見えないものについての確信を、あなたに与えてくれるのです。
そしてこの確信は、あなたの想像から生まれるものではありません。それは神のみことばに根ざしています。「この世界が神のことばによって創造された」からこそ、あなたの信仰は確かなものとなるのです。神があなたに与えたいと願っておられる信仰とは、神が語られたことに基づく保証であり確信です。
4. ヤエのあかし:今日を生きる信仰の生きた模範
語り手は、昨年四月に大阪でバプテスマを受けた姉妹、平石ヤエさんの物語を分かち合います。彼女の人生は決して平坦ではありませんでした。中学生のとき、両親が理由も分からないまま突然離婚してしまいました。彼女は大好きだった父親とのつながりを失いました。心の奥に深い怒りと深い悲しみを抱えたまま育ち、「人は変わらない」と思うようになっていきました。
その後、彼女は大阪でクリスチャンたちと出会います。イエスによって人生が変えられた人々のあかしを耳にします。彼女はこう思うようになりました。「もしかしたら、自分も変われるかもしれない。」彼女はこれらの信仰の模範に倣い、目には見えない神とそのみことばを信じ始めました。
その後、一年あまり故郷の鹿児島に戻ることになり、周りにキリストにある兄弟姉妹がいない状況になっても、彼女はオンラインの礼拝に参加し、聖書を学び続けました。目には見えない神に信頼を寄せ続けたのです。そしてついに、イエスの十字架を見出し、自分自身を赦しを必要とする罪人として認め、他の何をもってしても癒やされなかった痛みと悲しみを、イエスが癒やしてくださると信じるに至りました。
バプテスマの後、悔い改めの実として、彼女は家族一人ひとりに、自分が与えてしまった傷について赦しを乞う手紙を書きました。家族との接し方も変わりました。怒りで応じる代わりに、感謝を言い表すことを学んだのです。昨年の夏、家族旅行の際、彼女はこう言いました。「家族がいるっていいなと思ったのは、人生で初めてです。」
今日、ヤエ自身が一人の証人となりました。生きた模範であり、神が真実であられることの証拠です。あなたはひとりではありません。彼女のような模範は、あなたの周りにもいます。彼らから学んでください。そして今年、彼らの後に続いて走ってください。
5. 不信仰に陥る二つの道
語り手は、ここで厳しい指摘をします。不信仰という罪は、二つの仕方で犯し得るということです。
- みことばが語っていることを信じないこと。神が差し出してくださる保証と確信を持たないこと。
- みことばが語っていないことを信じること。神が約束していない偽りの保証、偽りの確信にしがみつくこと。
そこで、今日、あなたへの問いかけです。神はみことばの中で、どんな望みをあなたに保証しておられるでしょうか。どんな目に見えない真理を、確かなものとしてあなたに示しておられるでしょうか。それらの約束の上にとどまってください。あなたの確信を、神が実際に語られたことの上に築いてください。それ以上でも、それ以下でもなく。
6. 究極の模範:信仰の創始者であり完成者であるイエス
ヘブル12:2。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥をものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
最終的に、本当の模範は信仰の英雄たちではありません。彼ら自身が見つめていた方、イエスです。あなたが目をそらしてはならないのは、この方からなのです。
語り手は会衆とともに、ちょっとした実験をしました。自分のiPhoneを掲げ、それを会場の中で動かしながら、皆にその画面から目を離さないよう頼んだのです。ばかばかしい演習に思えるかもしれません。しかし気づきを与えてくれるものでした。あなたの視線は、一日に何度、イエスから離れて他のところに向かっているでしょうか。イエスに目を留めるとは、ちらりと見ることではありません。視線を保ち続け、思いをイエスに据え続けることです。ヘブル3:1は「イエスを見つめなさい」と言います。英語では fix your thoughts on Jesus、あなたの思いをイエスに据えなさい、という表現です。
イエスに目を据えるとは、表面的なことで満足しないということです。イエスがどのような方であるか、何をなさったか、今日もどのようにあなたとともにいてくださるか、今あなたに何を語っておられるかを、深く思い巡らすことです。
7. イエスは「あなたの」信仰の創始者であり完成者である
この箇所は、イエスについて二つの力強いことを語っています。第一に、イエスはすべての人のために信仰の道を開き、その道のりを最初にゴールまで走り抜かれました。イエスは先駆者です。第二に(これはもっと個人的なことですが)、イエスはあなたの信仰を生み出し、それを成熟させ、完成にまで導いてくださる方です。
あなたはただイエスを信じる信仰によって生きているだけではありません。バプテスマを受けたときから、あなたはキリストと結び合わされ、キリストがあなたの内に生きておられます。それは、イエスご自身の信仰を、あなたも生きるように召されているということを意味します。
8. 十字架に至るまでイエスを支えた喜び
「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を忍ばれた。」もっとも苦しく、もっとも屈辱的な瞬間においてさえ、イエスはある喜びを見つめておられました。それはどんな喜びだったのでしょうか。
第一に、父の御心を成し遂げ、父のもとに帰り、神とともにいることです。神ご自身が、イエスの喜びです。しかしそれだけではありません。あなたもまた、イエスの喜びなのです。あなたと私が罪と孤独から救われ、神とともに生きるために、イエスは十字架へと向かわれました。その十字架の上で、父の御前にすべての喜びを持っておられた方が、あなたの代わりに父から見捨てられることを受け入れられたのです。イエスはあなたに、いつまでもご自分とともにいてほしいと願っておられるからです。
あなたがイエスとともに歩むなら、あなたも十字架の道を通ることになるでしょう。しかしあなたは、イエスの信仰とイエスの喜びをもって、その道を通ることができます。あなたの信仰を始められた方が、それを最後まで導いてくださるからこそ、あなたも恥をものともせず、忍耐することができるのです。
9. 何度でも捨て去る:あなたの競走を重くするもの
ヘブル12:1はこう言います。「あらゆる重荷と、まといつく罪を捨てて」。別の訳では、さらに強い表現になっています。「取り除け」「遠くに投げ捨てよ」。罪はただ認めるだけでは十分ではありません。捨て去らなければならないのです。そしてそれは、また戻ってきてあなたにまといつくでしょう。ですから、もう一度、捨て去る必要があります。何度でもです。
しかし、あなたを重くするのは罪だけではありません。良いものであっても、それが妨げとなってしまうことがあります。誰も罪という重い荷物を背負って走りたくはありません。しかし、あなたの人生の中で、際限なく広がってしまい、イエスから目をそらさせてしまっている良いものはないでしょうか。あなたを遅らせ、さらに悪いことに、あなたとともに走っている人たちまで遅らせてしまっているものはないでしょうか。
なぜなら(ここが重要なのですが)、ヘブル人への手紙は、孤独な走者について語っているのではないからです。私たちはチームなのです。あなたをつまずかせるものは、他の人をもつまずかせます。今日、神があなたに捨てるよう求めておられるものを、捨て去ってください。何度でも、繰り返し。
10. 走り続ける:繰り返すことの忠実さ
走るとは、始めたことを最後まで続けることです。新しいことに気を散らされるのではなく、本質的なことにおいて忍耐し続けることです。イエスに従うとは、ある意味で、同じ動作を繰り返すことです。朝、思いをイエスに向けて起きること、毎日聖書を開くこと、祈ること、御霊に導かれること、イエスを愛すること、イエスの愛をもって家族を愛すること、教会を愛すること、福音を宣べ伝えること、弟子を育てることです。
もちろん、あなた自身は深いところで変わっていきます。語り手は、今日の自分は十年前とは違う仕方で聖書を読み、祈り、説教し、教えていると語ります。昔の説教原稿を見ると、思わず微笑んでしまう、ときには恥ずかしくなることさえあると言います。人生の段階も、担う責任も変わってきました。しかし、イエスへの日々の忠実さそのものは変わりません。それが「走る」ということです。あなたのバプテスマの日から、天に召される日まで、続いていくのです。
今、あなたの信仰の歩みの中で、あなたが続けていることは何でしょうか。続けるべきなのに、やめてしまったことはないでしょうか。それなら、もう一度始めてください。必要な回数だけ、何度でも。
覚えておきたいこと
- あなたはひとりではない。おびただしい数の証人の雲があなたを取り囲み、神が真実であられることをあかししている。あなたの周りにいる信仰の生きた模範を探し、そこから学びなさい。
- 信仰は神からの賜物である。たとえ弱くても、今日こうしてみことばに耳を傾けているなら、それはすでに神の御手があなたの上にある証拠である。自分自身を失格だと決めつけてはいけない。
- 信仰はみことばに基づいている。保証も確信も、個人的な想像からではなく、神が実際に語られたことから生まれる。
- 模範たちだけでなく、イエスに目を据えなさい。あなたの信仰の創始者であり完成者は、イエスである。イエスがそれを始め、その完成にまで導いてくださる。
- ひとりではなく、チームとして走りなさい。罪や不要な重荷を捨てることは、あなただけの問題ではない。あなたが背負っているものは、あなたのそばを走る人たちをも遅らせてしまう。
個人への適用
神の御前に少し時間を取り、今週、これらの問いにあなたの心を働きかけさせてください。
- 神のみことばの中にある、どの約束を、2026年のためのあなた自身の保証として受け取りたいだろうか。それを書き留め、何度も読み返してほしい。
- あなたの周りで、信仰の生きた模範となっている人は誰だろうか。その人に感謝を伝えたり、助言を求めたりする時間を取っただろうか。
- ここ数か月、何があなたの目をイエスからそらせてしまっただろうか。明日の朝から、具体的にどのようにして、あなたの視線をイエスの上に戻すだろうか。
- あなたが重荷として背負っている罪(あるいは「良いもの」であっても)で、今日捨て去るべきものはないだろうか。それを神の前で、そして信頼できる兄弟姉妹の前で、はっきりと言い表す備えはあるだろうか。
- あなたの信仰生活の中で、以前始めたものの、やめてしまったこと(祈り、聖書通読、奉仕、伝道)は何だろうか。罪悪感を抱く必要はない。今週から、ただイエスとともに、もう一度始めてほしい。
引用された聖句
- ヘブル12:1-2・鍵となる聖句:イエスに目を留めながら、忍耐をもって走り抜くこと。
- ヘブル11章・旧約聖書における信仰の英雄たち、証人の雲。
- ヘブル11:1-3・信仰とは:確かな保証と実証。
- ヘブル10:39・私たちは信仰を持つ者たちに属している。
- ヘブル3:1・イエスを見つめなさい、思いをイエスに据えなさい。
FAQ
ヘブル12:1に出てくる「証人」とは誰のことですか。
それは11章に登場する信仰の男女たちです。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、モーセ、ラハブ、その他大勢の人々です。ここでの「証人」という言葉は法廷的な意味を持ちます。彼らはその生涯全体をもって、神が真実であり、その約束が確かであることをあかししているのです。彼らは観客席の応援団ではありません。証言台に立つ証人であり、その生き方そのものによって、神に信頼するに値することをあなたに告げているのです。
「イエスに目を据え続ける」とは、どういう意味ですか。
ときどきちらりと見ることではありません。原語のギリシア語動詞は、保たれた視線、据えられた注意力を意味します。具体的には、一日の始まりに思いをイエスへと向けること、みことばを黙想すること、祈ること、イエスがどのような方か、何をなさったか、今日あなたに何を語っておられるかを深く考えることです。ヘブル3:1はそれを一言で要約しています。「イエスを見つめなさい」、深く思いをイエスに据えなさい、ということです。
信仰の競走の中で燃え尽きないためには、どうすればよいでしょうか。
このメッセージから、三つの道筋が示されています。第一に、あなたはひとりではないことを思い出してください。過去と現在の証人の雲があなたを取り囲んでいます。第二に、あなたを重くするものを定期的に捨て去ってください。罪だけでなく、際限なく広がってイエスから目をそらさせてしまう良いものもです。第三に、信仰の本質的な営み(聖書、祈り、従順、愛、宣教)を、日々ただ淡々と続けてください。すぐに消えてしまう激しさよりも、持続する着実さのほうが勝るのです。
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