はじめに
2025年11月16日、マルク・リジリオ牧師は、シャドラック牧師の紹介を受けて会衆の前で語ります。元牧師であり神学の教師でもある彼は、間もなく引退を迎え、2026年にルアーブルで神学校を開講する準備を進めています。彼のメッセージは、あなたもよく知っているたとえ話、ルカ15章11節から32節の放蕩息子のたとえから始まります。マラキ書の二つの聖句を土台としながら、シンプルでありながら鋭い問いをあなたの前に置きます。あなたは本当に、天の父にとっての息子、娘なのでしょうか、それともただその家に住んでいるだけの者なのでしょうか。メッセージは、繰り返し語られる一つの点を強調します。あなたが言葉を変えるとき、子どもとしての言葉を取り戻すとき、神との関係のすべてが変わるのです。
メッセージの構成
1. 父を持つ恵み、そして天の父を持つ恵み
- 物語は、あなたがすぐに忘れてしまう一つの事実から始まります。「ある人に息子が二人あった。」不完全であっても父を持つことは恵みであり、天の父を持つこともまた恵みなのです。
- マルク・リジリオ牧師は、アメリカの刑務所で行われたある調査について語ります。収監者の肌の色に関わらず、繰り返し見られた要因は父の不在でした。「父がいないと、多くの問題への扉が開かれます。教会に父がいないと、あなたを神のことから遠く引き離す扉が開かれるのです。」
- マラキ書4章6節は、すでにこの緊急性を告げています。「彼は父たちの心をその子たちに向けさせ、子たちの心をその父たちに向けさせる。わたしが来て、この地を聖絶に定めて打つことのないようにするためである。」
- マラキ書1章6節は、この問いをさらに正面から突きつけます。「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。わたしが父であるなら、わたしへの敬いはどこにあるのか。……と万軍の主は言われる。」神の民の破綻は、まさにこの点にありました。彼らはもはや父に対する子としての関係を持っていなかったのです。
2. 息子が去ったのは、心の中で子どもでなかったから
- 放蕩息子は、どこか漠然とした場所から出て行ったのではありません。父の家から出て行ったのです。それでも問題は父にあったのではありません。父は善い父であり、息子は遠く離れていてもその父を思い出すことになります。旅立つという決断は、息子がまだ家の中にいたときから、内側で熟していったのです。
- マルク・リジリオ牧師は、あえてこう言い切ります。「あなたが神の家にいるからといって、そこに永遠にとどまるとは限りません。神の性質にかなった子どもでなければ、あなたは神の家にとどまり続けることはできないのです。」
- 奉仕があなたを子どもにするのではありません。説教をし、牧会をし、宣教の働きに携わりながらも、子どもとしての心をもって仕えることが決してない、ということもあり得ます。「あらゆる奉仕を分けるのは、子どもとしての心のあり方です。」
- あなたが従うように召されている本当のイエスは、御子です。イエスは父の栄光を求め、父に従い、父の承認なしには何もなさいません。もしあなたが聖書に記された歴史上のイエスに従うなら、あなたは息子となり娘となります。しかし、大金を稼ぐことやこの世での地位だけを約束する別のイエスに従うのであれば、そうはなりません。
3. 「与えてください」ではなく、子どもとしての祈り
- このたとえ話の中で心に突き刺さるのは、その要求です。「父よ、私に財産の分け前をください。」父はまだ死んでいないのに、息子はすでに自分の遺産を要求しています。父は、計算する機械、与えるだけの機械にされてしまうのです。
- 「今日、私が恐れているのは、神が与えて、与えて、与え続ける方としてしか見られていないのではないかということです。しかし、あなたは、まず自分が息子として、娘として生きることを願っておられる神を見ているでしょうか。」
- 私たちの祈りは時に、働いた後で給料を受け取りに来る従業員の祈りに似てしまいます。それは子どもとしての祈りではありません。マルク・リジリオ牧師は率直にこう言います。「私たちが多くの祝福を逃してしまうのは、私たちの心の中に息子や娘としての祈りがないからです。」
- 詩篇37篇4節はこの論理を逆転させます。「主を自分の喜びとせよ。そうすれば、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」まず神をあなたの喜びとすること、そうすれば、あなたの祈りは正しい土台を見出し、あなたはその答えを見ることになるのです。
4. 神の父性、あなたの人生に受け入れられた権威
- 主の祈りの中で心を打つのは、そこに現れている父の権威です。「御名が聖なるものとされますように、御心が行われますように……」神を父として認めるということは、あなたの人生に対する神の権威を受け入れるということです。
- ソロモンは、この父性のもとで人生を歩み始めました(サムエル記第二7章12節から14節、「わたしは彼の父となる」)。しかしやがてそこから離れ、民を疲弊させるほどの建築事業を重ね、誰の助言にも耳を貸さなくなっていきました。彼の転落は、自分の人生に対する神の父性を拒んだときに始まったのです。
- 神を恐れること(今日ではあまり好まれなくなった言葉ですが)は、依然として「知恵の初め」です(箴言9章10節)。この言葉の角を丸くして、より柔らかいものにしようとすることは、聖書が本当に語っていることを見失うことなのです。
- 私たちは、自分の人生に権威を握るものによって形づくられます。それが神の父性であるなら、あなたはそれによって形づくられます。もしそれが別のものであるなら、たとえば祭司エホヤダに育てられている間は神に仕えていたのに、その死後に道を外れてしまったヨアシュのように(歴代誌第二24章)、あなたは実際にあなたを支配しているものの色に染まってしまうのです。
5. 帰って来る子どもの言葉
- このたとえ話の中ですべてを変えるのは、息子が「我に返り」、一つの言葉を用意する瞬間です。「お父さん、私は天に対して、またあなたに対して罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人として扱ってください。」
- 「この息子が家に帰って来るとき、彼は子どもの言葉を持っています。神が私たちの内に見たいと願っておられるのは、子どもの言葉なのです。」
- 「今朝、あなたの人生に変化を望みますか。それなら言葉を変えなさい。」それは恵みの言葉であり、神に喜ばれる言葉であり、祝福への扉を開く言葉です。
- マルク・リジリオ牧師は、会衆に対して抱いている確信をもって締めくくります。「神に献げることのできる最も美しいものは、私たちの内にある子どもとしての性質です。すばらしい奉仕をすることもできます。すぐれた説教者になることもできます。神学の学位を持つこともできます。世界で最も美しい教会を持つこともできます。しかし、あなたが本当に息子でなければ、本当に娘でなければ、それらはまったく何の価値もないのです。」
覚えておきたいポイント
- 神の家にいることがあなたを子どもにするのではなく、あなたの心の姿勢がそうするのです。
- 奉仕、説教、神学の学位は、神があなたの内に求めておられる子どもとしての性質の代わりにはなりません。
- 子どもとしての祈りは「与えてください」だけに留まりません。まず主を自分の喜びとするのです。
- 神を父として認めることは、あなたの人生に対する神の権威と父性を受け入れることです。ソロモンもヨアシュも、それを拒んだ瞬間から道を見失いました。
- あなたの父のもとへの帰還は、言葉の変化から始まります。それは恵みの言葉、自分がふさわしくないと知りながらも愛されていると知る子どもの言葉です。
自分への適用
- あなたが教会に来るとき、それはただの建物として来ているのでしょうか、それとも父の家として来ているのでしょうか。もし息子として、娘としてそこに入るなら、具体的に何が変わるでしょうか。
- 今のあなたの祈りの根底には何があるでしょうか。与える者への要求でしょうか、それともまず父の御顔を求める子どもの心でしょうか。
- あなたの人生の中に、ソロモンが治世の後半で拒んだように、神の父性、すなわちその権威を拒んでいる領域はないでしょうか。
- 今日あなたの人生を形づくっているのはどんな影響でしょうか。あなたの父の言葉でしょうか、それともレハブアム、ヨアシュ、アハブを道から外させたような声でしょうか。
- もし今日、帰って来る子どもとしての言葉を書くとしたら、「父よ、私は天に対して、またあなたに対して罪を犯しました……」に続けて、どんな言葉を綴るでしょうか。今日が終わる前に、それを父の前で口にすることができるでしょうか。
引用された聖句
- 詩篇100篇
- 使徒の働き2:29-33
- ルカ15:11-32
- マラキ書4:4-6
- マラキ書1:6
- 出エジプト記20:12(第五戒)
- サムエル記第二7:12-14
- 詩篇37:4
- 箴言9:10
- マタイ6:9-13(主の祈り)
- 歴代誌第二24章(ヨアシュとエホヤダ)
よくある質問
「子どもの言葉を持つ」とは具体的にどういうことでしょうか。
それは単なる祈りの決まり文句ではありません。あなたの父が誰であるか、そして御前にいる自分が何者であるかに気づいたときに、心から出てくるものです。放蕩息子は、帰って来るとき、もはや何も要求しません。自分の過ちを認め、もはやふさわしいとは思わず、すべてを父に委ねます。それが恵みの言葉であり、神に喜ばれ、祝福への扉を開く言葉なのです。
なぜマルク・リジリオ牧師は、これほどまでに神の父性を強調するのでしょうか。
それは、旧約聖書の最後の節(マラキ書4章6節)に至るまで、聖書全体を貫く一本の糸だからです。ソロモンは、この父性を拒んだときに転落しました。ヨアシュは、自分を息子のように育てていたエホヤダが死んだ途端に道を外れました。神の父性、すなわちその権威が、あなたの人生に受け入れられていない限り、あなたの奉仕、説教、神学の学位は、その目的を果たすことはないのです。
教会での奉仕は、私を子どもにするのに十分でしょうか。
いいえ、十分ではありません。マルク・リジリオ牧師ははっきりと言います。「奉仕しているからといって、子どもであるとは限りません。あらゆる奉仕を分けるのは、子どもとしての心のあり方です。」あなたは、たとえ話の兄息子のように父の家にいながら、子どもとして生きていないこともあり得ます。問題は「神のために何をしたか」ではなく、「どんな心で行ったか」なのです。
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