はじめに
断食と祈りの一週間を終えて、ジュネーブ復興福音教会(Église Évangélique de Réveil de Genève)の牧師サミュエル・サルメロン(Samuel Salmeron)は、メッセージに「ここにおります」という題をつけました。毎日集まっていた人たちは、この言葉をすっかり覚えはじめていました。
彼は、多くの人が知っている経験から話し始めます。走りたいのに体が固まったように動かない夢、叫んでいるのに声がまったく出ない夢です。神との歩みでも、同じようなことがときどき起こります。「アイデアも願いもたくさんあります。神と大きな計画を立てて、神に従いたいと思います。」けれども私たちの生活の中には、意識的であれ無意識であれ、従順への抵抗があります。なぜ前に進めないのか分からないこともあれば、どこで「いいえ」と言ったのかをはっきり知っていることもあります。
牧師は、私たちには皆「信仰の転換点」が必要だと信じています。聖書には、そうした場面がたくさん集められています。神に「はい」と答え、人生の進路がまったく変わった男女の姿です。牧師はそのうちの四人、アブラハム、モーセ、サムエル、イザヤを取り上げ、あなた自身の信仰のために五つの教えを引き出します。
メッセージの流れ
1. 四つの歩み、ひとつの答え
- アブラハム:「これらの事の後、神はアブラハムを試みて、彼に言われた、『アブラハムよ』。彼は答えた、『ここにおります』」(創世記22章1節)。神に耳を傾け、従おうとすることに慣れた族長です。
- 燃える柴の前のモーセ(出エジプト記3章4節)。エジプトの災いや紅海のモーセではありません。悪い決断のあとにエジプトから逃げ、殺人の罪で追われ、何年もさまよっていた人です。
- 夜に呼ばれたサムエルは、三度エリのもとへ走ってから答えます。「しもべは聞きます。お話しください」(サムエル記上3章4-10節)。聖書は彼を子どもだと記しています。アブラハムやモーセのような経験はありませんが、素直で、答える備えができていました。
- 神の聖さと栄光の啓示を受けたばかりのイザヤ:「わたしはここにおります。わたしをつかわしてください」(イザヤ書6章8節)。
- ヘブル語では、この言葉はごく日常的な表現です。アブラハムもイサクに「子よ、わたしはここにいます」と答えています(創世記22章7節)。けれども、教室で出席を取られて「はい」と答えるのとは違います。「それは、準備ができてここにいます、ということです。求められることに答える備えをしてここにいます。」従順と信頼の前にある、耳を傾ける段階です。
2. 呼ぶのは神である
- 「いちばん単純なことを、私たちは忘れてしまうことがあります。」物語を書くのは神であり、状況を整えるのも神であり、計画を持っておられるのも神です。
- この四つの物語は、人生を価値あるものにしようと決意した人たちの話ではありません。私たちの社会では、むしろ逆のことをよくします。自分の長所や選択や意志の力で人生を築き、「自分の人生を作り上げる」のです。
- アブラハムは経験を通してそれを学びました。神が語られたときはうまくいき、自分から先に語ろうとしたときはうまくいきませんでした。飢饉のときに身を守ろうとついた嘘、待ちきれずに自分の力で得ようとした子。どちらのときも、悪い結果が続きました。
- モーセも先に動こうとして、うまくいきませんでした。「そんなふうに民を救うことはできない。」燃え尽きない柴の前で、神が語られると、すべてが変わります。
- 「神が呼ばれます。だから耳を傾けなさい。だから待ちなさい。神があなたを呼ぶまで待ちなさい。」
3. 答えるのは私たちである
- 牧師は、これは女性にも当てはまると述べ、特に主をその身に宿した女性に触れます。同じ言葉ではありませんが、マリアも同じ心の姿勢を持っていました。「わたしは主のはしためです」(ルカ1章38節)。
- 神はこの答えを待っておられ、それが進路全体を決めます。答えがなければ、モーセは荒野の羊飼いのままです。答えがなければ、サムエルは、自分の神に似るのではなく、自分の師に似た子どものままです。
- 「私たちは、感嘆するようにではなく、彼らの模範を再現するように招かれています。」これらの箇所を読んで「なんてすばらしい話だろう」と言うだけでは足りません。
- それはしばしば、道のりの問題です。柴の前のモーセは、エジプト人を殺したモーセではありません。道を歩んだことで、いろいろなことが変わったのです。
- 牧師は、アルファコースの受付で出会った青年との会話を語ります。その青年は、「牧師」という言葉を初めて聞いたようでした。「今日信仰を知ったとしても、遅すぎることはありません。あなたは、神があなたのために定めた時刻にちょうど来たのです。隣にいる人との競走ではありません。あなたは自分自身との持久走をしているのです。神があなたに示されることに、人生の終わりまで忠実であり続けるための走りです。」
4. 備えられた心
- 創世記22章を読むと、ほとんど簡単だったかのような印象を受けます。けれどもアブラハムは、自分には決して子どもが生まれないと信じていました。家に子どもが一人もいないまま多くの民の父となるという約束を受け、神に向かって、自分の相続人はしもべしかいないと言うほどでした。
- それらすべてが彼の心を備えました。彼が朝早く起きて従うのは(創世記22章3節)、備えの道のりの果てにあることなのです。
- イザヤが力強く「わたしをつかわしてください」と答えるのは、自分が知っていると思っていた限界など存在しないと一瞬で悟ったからです。自分の力で戦うよりも、この大いなる神に従うほうがよいのです。
- サムエルは、まだ幼くても備えられていました。母によって献げられ、母の祈りへの答えとして与えられ、その教えに足りない点があっても、教えることのできる人のもとへ連れて行かれました。
- 「私たちは自分の心も見張らなければなりません。『ここにおります。あなたに従いたいです』と本当に答えるためには、そこがはっきりしていなければならないからです。」
5. 従順へ導く、しっかりと根づいた決意
- 「ここにおります」とは、あなたに仕え、従い、行動するためにここにいます、という意味です。アブラハムは翌朝すぐに、息子を山へ連れて行きます。新約聖書は、神は死者の中からでもよみがえらせることがおできになると彼が考えたと語ります(ヘブル人への手紙11章17-19節)。
- モーセの道は「宮殿の黄金から、羊の群れのにおいへ」と続きます。「五年後の自分はどうなっていたいか」と考えながらでは、だれもそんな道は描きません。けれどもこの道が彼の決意を固くしました。羊の群れの番は、荒野で民を導くことに比べればやさしいことでした。
- 四人とも従います。モーセは、あれこれ交渉しながらもエジプトへ戻ります。サムエルは、考えうる最悪の預言を受けます。父親のような存在であるエリに、もう終わりだと告げることです(サムエル記上3章11-18節)。イザヤは、主が来られるときまで、何世紀も先にしか実現しないメッセージを担います。
- 「従うことが、これから通る道を説明してもらえることを条件にしているなら、それはもう従順ではなく、単なる知識です。」
- 最初の一歩を踏み出す前に、神に物語の結末を語るよう求めるのをやめなければなりません。「ペテロは、三十秒後に疑い、溺れかけると知っていたら、舟から出たと思いますか。信仰とはそういうものです。」
6. あなたの前にある、さらに大きなもの
- アブラハムはポケットに聖書を入れてはいませんでした。自分の経験から得た知識を頼りに進んだのです。この人たちは、やがて成し遂げられることの先取りの姿でした。
- 牧師は、イエスがすべてを成し遂げられたから従うのは簡単だ、と言っているのではありません。「ここにおります」と答えたその瞬間から、あなたの前に、変えられ、癒やされ、赦され、和解し、他の人々の救いへと続く道が開かれる、と言っているのです。
- 障害は、もう障害ではありません。治めておられる神のほうが大きいからです。「十字架は空です。墓は空です。」イエス・キリストが死に勝利されたからです。
- それは、悲劇にもなりえます。毎週日曜日に椅子に座って「はい」と言うだけで満足してしまうなら、そうなります。「ここにおります」とは、行動し、従い、神が備えられた道を歩む用意があるということです。
- 「あなたの言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩篇119篇105節)。私たちはボタンを押せばすべてが明るくなることに慣れています。昔の、手に持つランプは、一歩一歩を照らしました。神とともに歩むとき、道のりのすべての通りを確かめようとGPSを見ることはしません。神が求めておられるのは「ここにおります」という答えであり、神が私たちの面倒を見てくださるという信頼です。
7. あなたの人生の「ここにおります」
- 三、四百人がいる会場で、目に見える奉仕に召される人は一人か二人かもしれません。「けれども、この場にいる百パーセントの人が、神に『ここにおります』と答えるように召されています。」
- 牧師は、二十五、六年前、反抗期のただ中にあった自分が、しぶしぶガップのスキーキャンプに出かけた話をします。イエスの話を聞きたくなかったし、自分のために祈ってほしくもありませんでした。
- 友人の夫婦が、休暇を取りおいて子どものキャンプのリーダーを務めると決めたことがありました。その朝、礼拝に着いたとき、彼はその夫婦に再会しました。キャンプのある晩に自分のために祈ってくれたのが、この夫でした。彼は今でも、その椅子の色も、窓の位置も覚えています。「あの日、私の心の中で働きが起こったと分かっています。」それでも彼の反抗は、さらに一年半ほど続きました。
- 牧師は、難しい年ごろの子を持つ親たちに語りかけます。親は粘り強く、申し込み、貯金し、お金を払います。そしてその向こうには、「ここにおります」と言った人たちがいるのです。
- あなたの「ここにおります」は、リーダーになることかもしれません。ある職業への召しに応えることかもしれません。家族や近所の人のための時間をつくり、証し人となるために、お金の使い方や暮らし方を変えることかもしれません。
- 「あなたの『ここにおります』を軽く見てはいけません。取るに足りないように、小さく見えるかもしれませんが、それは決定的です。あなたの人生を大きく変えるからです。」アブラハムの「ここにおります」は、彼の人生に告げられた預言と、ひとつの民の運命を確かなものにしました。サムエルの「ここにおります」は、士師の時代の長い終わりに、イスラエルに誠実な人を立ち上がらせました。
心に留めたいポイント
- 「ここにおります」は「出席しています」という意味ではありません。「準備ができてここにいます。行動し、従います」という意味です。
- 呼ばれるのは神であり、物語を書かれるのも神です。アブラハムやモーセのように自分から先に語ろうとすると、うまくいきません。
- 神はあなたの答えを待っておられます。あなたは、これらの模範に感嘆するのではなく、再現するように招かれています。歩みのどこにいても同じです。
- 先が分からないまま従うこと、それが信仰です。神のみことばは、一歩一歩を照らします。
- 小さく見える「ここにおります」が、ひとりの人生を、あなたの人生や、だれか他の人の人生を、大きく変えることがあります。
個人への適用
- あなたの人生の、どの場面で神に「いいえ」と言ったか、はっきり分かっていますか。
- 神が呼ばれるのを待つ代わりに、どの分野で「自分の人生を作り上げよう」としていますか。
- 最初の一歩を踏み出す前に、神に物語の結末を語ってほしいと求めていませんか。
- あなたの信仰は、日曜日に「はい」と言うことにとどまっていますか。それとも「ここにおります。行動する準備ができています」と言うことでしょうか。
- 今、神があなたの心に置いておられる具体的な「ここにおります」は何ですか。子どもたちへの奉仕、職業の選択、家族や近所の人のための時間でしょうか。
引用された聖書箇所
よくある質問
聖書の「ここにおります」とはどういう意味ですか。
ヘブル語の日常的な表現で、「私はここにいます」という意味です。アブラハムも、息子イサクに答えるときにこの言葉を使っています(創世記22章7節)。サミュエル・サルメロンによれば、これは単なる「出席しています」ではなく、「準備ができてここにいます。求められることに答える備えをしています」という意味です。呼んでおられるのが神であるとき、この答えは従順の道を開きます。
神がどこへ導かれるのかを知ってからでないと、「ここにおります」と言えないのですか。
いいえ。説教者は、サムエルがエリへのさばきを告げることになるとは知らず、イザヤも自分の務めの重さを知らなかったことを思い起こさせます。「従うことが、これから通る道を説明してもらえることを条件にしているなら、それはもう従順ではなく、単なる知識です。」神のみことばは、一歩一歩を照らすともしびです。
「ここにおります」は、奉仕の務めに召された人だけのものですか。
いいえ。サミュエル・サルメロンによれば、三、四百人のうち、目に見える奉仕に召されるのは一人か二人かもしれませんが、百パーセントの人が神に「ここにおります」と答えるよう召されています。それは、子どものキャンプのリーダーになること、職業を選ぶこと、お金の使い方を変えること、あるいは家族や近所の人のための時間をつくることかもしれません。