神の愛と恵みと力を知る中で成長する

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はじめに

民数記20章と21章は一つの転換点です。イスラエルの民はエジプトを出て、一年後に幕屋を建て、二年目にはカデシュ・バルネアから十二人の偵察者を送り、神の約束を信じることを拒み、その結果として荒野で四十年間さまよう定めを負いました。二十歳以上の大人たちである最初の世代は、神が告げられたとおり、少しずつ死んでいきました。民数記20章は、私たちをほとんど出発点、カデシュへと連れ戻します。今度は第二世代とともにです。最初の滞在から38年が経っていました。そして神は、まるでこう問いかけるかのように、民を再び出発点に立たせます。「あなたはこの38年間で何を学んだのか。」

この問いは、私たちにも関わりがあります。あなたがイエス・キリストを信じてから、どのように歩んできましたか。どれほど成長しましたか。神があなたのために備えておられる約束の地、安息に近づいていますか。それとも、主が手放すようにと求めておられるものを、いまだに先延ばしにし続けていますか。

構成

1. カデシュでの再びのチャンス(民数記20章1節)

「イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入り、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、そこに葬られた。」38年前、まさにこのカデシュ・バルネアで、偵察者たちは「良い地だが、不可能だ」と言って戻ってきました。彼らは神の約束を信じなかったのです。第二世代は、まさに自分たちの親が失敗した場所に戻ってきます。神は彼らを再び出発点に立たせます。彼らは前の世代と同じ選択を繰り返すのでしょうか、それとも神を信頼するのでしょうか。

この再びのチャンスは、恵みのしるしです。それはすべての人に保証されているわけでも、人生のあらゆる領域において保証されているわけでもありません。しかし、神がそれを与えてくださるとき、それをつかみ取ってください。あなたも時に、かつて手を放してしまった、裏切ってしまった、恐れて口をつぐんでしまった、その同じ状況に再び直面することがあるでしょう。そして神は、その恵みによって、あなたを再び同じ分かれ道の前に立たせてくださるのです。それを逃してはいけません。

2. メリバの水:モーセの過ち(民数記20章2〜13節)

民には水がありませんでした。彼らはつぶやき、モーセとアロンを責め、エジプトを懐かしみます。目新しいことは何もありません。親たちと同じことをしているだけです。神は、その恵みによって、彼らを渇きで死なせることをなさいません。神はモーセにこう言われます。「杖を取り、会衆を集め、彼らの目の前で岩に命じよ。岩は水を出す。」

しかしモーセは、失ったばかりの姉のことでまだ心が重く、38年の間何一つ学ばなかったこの民にいら立ち、こう言い放ちます。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがこの岩から、あなたがたのために水を出さなければならないのか。」彼は手を上げ、杖で岩を二度打ちました。水が豊かに湧き出し、民も家畜も飲みました。結果は現れましたが、その方法は誤っていました。神は「岩に命じよ」と言われたのです。モーセは打ちました。

詩篇106篇32〜33節はこう述べています。「彼らはメリバの水のところで主を怒らせた…彼らが御霊にそむいたので、モーセは軽率なことを口にした。」モーセは怒りと苦々しさと落胆、おそらくこの民への軽蔑の中で語ったのです。彼の心の中にあったものが、口から出てきたのです。そして神は、アロンとともにこう告げられます。「あなたがたは、イスラエルの子らの前でわたしを聖なる者としてあがめる信仰を持たなかったので、わたしがこの会衆に与える地に、彼らを導き入れることはない。」

その宣告は重いものでした。それは、他者の前で神を正しく代表することがいかに重大なことであるかを思い起こさせます。神があなたに責任を委ねられるほど、求められる基準は高くなります。これはみことばを教える者にとって特に当てはまりますが、イエスはすべての弟子たちにこう言われます。「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世界の光です。」私たち一人ひとりは、内に住む御霊とともに、日々の言葉、反応、行いを通して、神の真の姿を映し出すか、それとも歪めてしまうかのどちらかなのです。

3. 岩とはキリストである(コリント第一10章4節)

パウロは、コリント第一10章4節でこの場面に光を当てています。「彼らはみな、ついて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」モーセが打った岩は、無作為な岩ではありません。彼らについて来た岩、キリストを象徴する岩なのです。出エジプト記17章、最初の時には、神はモーセに岩を打つように命じられ、水が湧き出しました。それは、十字架で一度だけ打たれるキリストの象徴でした。ここメリバでは、神はもはや打つことを求めておられません。語ることを、求めることを求めておられます。なぜなら、キリストはすでに打たれたからです。

十字架の後、信者は打つことによってではなく、求めることによって御霊を受けます。イエスはヨハネ7章37〜39節でこう言われます。「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」これは御霊について言われたことです。そして黙示録はこう結んでいます。「渇いている者は来なさい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けなさい。」(黙示録22章17節)

これこそ、神が岩の場面を通して示したかったことでした。十字架、一度打たれたキリスト、そして求める者すべてに与えられる御霊。モーセは二度打つことによってこのしるしを損なってしまいました。しかし、新約聖書の光のもとで、パウロは神が語ろうとしていたことを私たちに見せてくれるのです。

4. アロンの死と祭司職の継承(民数記20章22〜29節)

民は、エサウの子孫であるエドムに、約束の地へ北に向かうための通行を求めます。エドムはこれを拒み、武装して出てきます。イスラエルは迂回しなければなりません。ホル山で、神はアロンに死ぬようにと告げられます。民全員の前で、モーセはアロンとその子エルアザルを山に登らせます。モーセは大祭司の衣をアロンから脱がせ、エルアザルに着せます。アロンはそこで死にます。共同体は30日間、彼のために喪に服します。

人が去っても、祭司の務めは続きます。神への奉仕が中断されることは決してありません。アロンはメリバでの過ちの代償を払いましたが、民には大祭司が残されました。神は不在に備えて、その前に後継者を用意しておられるのです。

5. アラデの王への勝利(民数記21章1〜3節)

カナン人のアラデの王が攻撃をしかけ、数人の捕虜を捕らえます。イスラエルは祈ります。「もしこの民を私の手に渡してくださるなら、私はその町々を聖絶いたします。」神は聞き入れ、カナン人を渡され、その場所はホルマと呼ばれます。約束の地における最初の勝利です。38年前は逃げながら祈っていた民が、今は前進しながら祈っているのです。

6. 燃える蛇と青銅の蛇(民数記21章4〜9節)

イスラエルはエドムを迂回します。旅は長く続きます。民は忍耐が尽き、つぶやきます。「なぜ私たちをエジプトから連れ上らせて、荒野で死なせるのか。パンもない、水もない。このみすぼらしい食べ物には、うんざりだ。」またしてもです。神は燃える蛇を送られます。多くの者が死にます。民は自分たちの罪を認め、モーセにとりなしを願います。

神はこう答えられます。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に掲げよ。かまれた者はみな、それを見上げれば生きる。」モーセは青銅の蛇を作り、旗ざおの上に掲げます。それを見上げた者は生きるのです。

イエスはヨハネ3章14〜15節でこのイメージを取り上げられます。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、彼にあって永遠のいのちを持つためです。」蛇は罪の象徴、旗ざおはのろいの象徴です。十字架に上げられたキリストは、あなたののろいを背負われました。ガラテヤ3章13節はこう述べます。「キリストは私たちのためにのろわれた者となり、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられる者はみな、のろわれる』と書かれているからです。」十字架につけられたキリストを見上げること、あなたのために上げられた御子を信じること、それだけが救われるために必要なことなのです。

7. なぜあなたは折れてしまうのか(民数記21章4節)

「その道すがら、民はしんぼうができなくなった。」なぜ人は、神に従うことに忍耐が尽きてしまうのでしょうか。それは、自分自身の力でそれをしようとするからです。義務感、恐れ、罪悪感、習慣、惰性、他者との比較、見栄。この原動力はいずれ必ず尽きてしまいます。教会に行くこと、聖書を読むこと、祈ること、奉仕すること。もしあなたがこれらを自分の力で行うなら、あなたは必ず折れてしまいます。「もう無理だ」と言う瞬間が必ず訪れます。

あなたはキリストを信じたとき、御霊を受けました。御霊によって生まれ、御霊によって完成へと導かれるのです。毎朝、聖書を開く前に、祈る前に、こう尋ねてください。「主よ、私が自分の力でこれを行わないよう助けてください。新しい心で、感謝をもって、喜びをもって、あなたのもとに来ることができるよう助けてください。」そうしなければ、あなたは折れてしまいます。肉は、それに手綱を委ねるならば、いつも最後には勝ってしまいます。しかし御霊とともに歩むとき、御霊は肉を打ち破り、もはや破綻することはないのです。

8. 主の戦いの書(民数記21章14節)

本文には、今日では失われている一冊の書、「主の戦いの書」が引用されています。それは「イスラエルの戦い」ではなく、「主の戦い」です。戦うのはイスラエル人たちですが、アモリ人の王シホンとオグを打ち負かすのは神であり、町々を渡すのも神であり、勝利を与えるのも神なのです。

あなたの人生には、あなた自身の「主の戦いの書」があるでしょうか。今日、あなたがあなたであるのは、神がその御霊によって、あなたの肉に対して、あなたの欲望に対して、敵の攻撃に対して戦ってくださったからです。今日、あなたが救われているのは、イエスが十字架でサタンと死に打ち勝たれたからです。それを忘れないでください。詩篇103篇はこう言います。「主の恵み、その一つでも忘れてはならない。」

9. シホン、オグ、そしてあらかじめ与えられた勝利(民数記21章21〜35節)

アモリ人の王シホンは通行を拒み、攻撃を仕掛けます。イスラエルは彼を打ち破り、ヘシュボンとその周辺のすべての町を占領します。バシャンの王オグも、今度は自ら出撃してきます。神はモーセにこう言われます。「彼を恐れるな。わたしは彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡す。」イスラエルは打ち、生き残った者を残さず、その地を占領します。

あなたの戦いは血肉に対するものではありませんが、あなたには一人の敵がいます。彼はあなたの耳元でこうささやきます。「あなたは愛されていない。あなたは赦されていない。あなたはそもそも救われてすらいない。」むしろローマ8章33〜39節に耳を傾けてください。「神に選ばれた者たちを訴えるのはだれですか。神は義と認めてくださる方です…死も、いのちも…ほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」あなたの戦いは、その愛の中にとどまり続けることです。そして、その戦いは神があなたのために戦ってくださる戦いなのです。

10. 神の愛の動機(申命記7章7〜9節)

「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたが他のどの民よりも数が多かったからではない…主があなたがたを愛されたから、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたからである。」神はアブラハム、イサク、ヤコブへの約束を守られました。イエスへの約束も守られました。ですから、キリストにあってあなたのためになされた約束も、必ず守られます。神はあなたの救いを完成させ、あなたの心を守り、あなたの過ちを赦し、それを二度と思い出されないのです。

覚えておきたいポイント

  • 神は時として、カデシュの第二世代にそうされたように、信じる者を再び出発点に立たせられます。その再びのチャンスが訪れたとき、それをつかみ取ってください。
  • あなたの言葉と生き方によって神を正しく代表することは、重大な責任です。心の中にあるものは、いつか必ず表に出てきます。
  • 打たれた岩は、十字架にかかられたキリストでした。語りかけられる岩は、今、御霊を求めるキリストです。あなたはただ求めるだけでよいのです。
  • 自分の力で神に従おうとするとき、あなたは必ず折れてしまいます。あなたを導くのは、日々あなたを導く御霊でなければなりません。
  • 勝ち取った戦いは、主の戦いです。神があなたの人生で行われたことの書を持ち続け、その恵みの一つも忘れないでください。

個人的な適用

  • 最近、神はあなたにどのような「再びのチャンス」を差し出されましたか。あなたはそれに対して何をしましたか。ずっと握りしめてきたものを、ついに手放しますか。
  • あなたの中に、ある兄弟姉妹、あるいは家族の一員に対する苦々しさ、怒り、落胆があり、それが彼らに応答するときの言葉を歪めてはいませんか。
  • 今日、あなたが御霊を渇望するとき、あなたはそれを単純にキリストに求めていますか、それとも神が無償で与えようとしておられるものを、自分の力で作り出そうとしていますか。
  • 今、あなたは何によって「折れて」いますか。それは、御霊によってではなく、義務感、習慣、恐れによって歩んでいたからではありませんか。
  • 五分間だけ時間を取り、この五年間で神があなたのために勝ち取ってくださった具体的な三つの戦いを書き出してみてください。名前を挙げて主に感謝しましょう。

引用された聖句

よくある質問

なぜモーセは岩を打っただけで、あれほど厳しく罰せられたのですか。

それは、神がこの行為を通してキリストを予告しようとされていたからです。出エジプト記17章で打たれた最初の岩は、十字架で一度だけ打たれるキリストを予表していました。メリバでは、神は岩に語りかけるようにと求められました。それは、御霊をキリストに求める新しい関係を象徴していました。二度打つことによって、モーセはこのしるしを損ない、神が恵みによって民を養おうとしておられたにもかかわらず、あたかも神が民に怒っているかのような印象を与えてしまいました。責任を持つ者にとって、神を正しく代表することは非常に重大な問題なのです。

青銅の蛇は、今日のクリスチャンにとって何を意味するのですか。

イエスご自身がヨハネ3章14〜15節で、それがご自分において成就したものであると語られます。蛇は罪の象徴、旗ざおはのろいの象徴です。十字架に上げられたキリストは、あなたののろいとあなたの罪を背負われました。彼を見上げること、彼を信じること、それだけで永遠のいのちを受けるのに十分です。救われるために大きな業を行う必要はだれにもありません。十字架につけられたキリストに目を上げること、それがすでに救う信仰なのです。

なぜ神は、ご自身の民が同じつぶやきを何度も繰り返すのを許されるのですか。

それは、神の愛が尽きることがないからです。民はつぶやき、反逆し、忘れます。神は懲らしめられますが、愛することを、ご自分の約束に真実であることを、決してやめられません。申命記7章はこう思い起こさせてくれます。神があなたを選ばれたのは、あなたが他の人よりも優れていたからではありません。愛と、約束されたことへの真実さのゆえに、あなたを選ばれたのです。変わるべきなのは、神の愛ではなく、あなたがその愛にどう応答するか、信仰と御霊によってどう応答するかなのです。

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