はじめに
モメンタムで新しいシリーズが始まります。ヨハネの福音書に記されたイエスの七つの「わたしは〜である」という宣言をたどるシリーズです。メラニー・エリスマンが、その最初の宣言「わたしは命のパンである」(ヨハネ6:35)から語り始めます。このシンプルなイメージの奥には、あなた自身に深く関わる問いがあります。あなたは本当は何によって生きていますか。毎日、あなたの人生を支え、深いところで養っているものは何でしょうか。ヨハネ6章の群衆は、パンの奇跡のあとお腹はいっぱいになりましたが、心の渇きはそのまま残っていました。イエスは彼らを、そしてあなたを、「与える方」から「贈り物そのもの」へと目を向けるよう招いておられます。
メッセージの構成
1. イエスが誰であるかを語る七つの「わたしは〜である」
- 旧約聖書で、モーセが神にどう呼べばよいかと尋ねたとき、神はこう答えられました。「わたしは、有って有る者」(出エジプト記3:14)。神はご自身を唯一の方として現されたのです。
- ヨハネの福音書で、イエスはこの同じ言い回しを七回用いられます。命のパン、世の光、門、良い羊飼い、よみがえりであり命であること、道であり真理であり命であること、まことのぶどうの木です。
- これらの「わたしは〜である」は単なる神学的な宣言ではありません。イエスが誰であるか、その使命を語ると同時に、あなたの欠けや飢え渇きに具体的に触れてきます。
2. 何を食べても満たされない飢えた群衆
- この章はパンの奇跡から始まります。五つのパンと二匹の魚から、イエスは女性や子どもを除いて五千人もの男性を満腹にされ、しかもパン切れが余りました。
- 感動した群衆はイエスを王にしようとしますが、イエスはそこを離れられます。翌日、群衆はイエスを見つけ出し、さらなるしるしを求めます。「モーセのように、マナを降らせてください」と。
- お腹はいっぱいでも、心の空虚さは相変わらずです。彼らは見ていながら信じません。まるで底なしの井戸のようです。
- これは何かを思い起こさせないでしょうか。私たちの世界も、蓄え、備蓄し、保険をかけながら、それでもなお飢えています。富める者はどこまでも満足せず、力ある者はどこまでも力を求めます。ごちそうのあとにも、次の日にはまた空腹になるのです。
- この飢えは人間の状態そのものを物語っています。絶えず埋めようとしても埋まらない内なる不満と、「今、本当に生きたい」という渇望です。
3. イエスは与える方であるだけでなく、贈り物そのものである
- 「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。
- イエスはマナの物語をさらに深めます。マナは朽ちるものでした。「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった」(ヨハネ6:48-49)。しかしイエスご自身は、天から下って来た生けるパンであり、これを食べる者は永遠に生きるのです。
- マナは一日一日をしのぐためのものでした。イエスは、あなたを死から命へと渡らせるパンです。
- 群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と叫ぶとき、彼らはなお、満たしてくださる方と結びつくことなく、ただ満たされることを求めています。彼らはイエスの中に「与える方」だけを見ています。しかしイエスは与える方であるだけでなく、贈り物そのものなのです。
- 永遠の命は、手に入れるべき何かにも、あなたの行いにもよりません。それはひとりの人格との出会いによるのです。毎朝受け取るパンではなく、一度で全部を受け取るべきひとりの人格なのです。
4. どうすれば信じられるのか。すべきことではなく、神がなさっていることを見る
- 群衆はイエスを見ていながら信じません。人が信じる、あるいは信じないという能力には、どこか不思議なところがあります。
- イエスは「どうすれば信じられるか」という問いに、方法論を教えることでは答えられません。むしろあなたの目を、父なる神がなさっていることへと向けさせられます。
- 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来る」。神が先んじておられるのです。あなたを引き寄せ、あなたを恵みの受け手として選ばれるのは神ご自身です。信仰は賜物であり、私たちの神は惜しみなく与えてくださる方です。
- 「わたしのところに来る者を、わたしは決して拒みません」。父の招きに応える者は、決して退けられないという確信を持つことができます。キリストはその人を受け入れ、さらにはその人を守ってくださいます。
- イエスは父のみこころを行うために天から来られました。父が委ねてくださった者を一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせるためです。イエスがあなたのところまで来てくださったのなら、あなたのために最後まで歩み通してくださらないはずがあるでしょうか。
5. 最後まで支えられる人生
- 「わたしが与えるパンは、世の命のためのわたしの肉である」。イエスが命のパンとしてご自身をささげられたのは、十字架の上でのことでした。あなたが命を受け取るのは、イエスの死によってです。
- これらの言葉は群衆を大いに戸惑わせました。あなたも同じように戸惑うかもしれません。あなたもまず、神が何を与えてくれるかを見てから、この最上の贈り物を受け入れたいと思っているかもしれません。
- イエスは、たやすい人生を約束してはおられません。あなたの経済的、人間関係的、身体的な必要が消えることも約束してはおられません。イエスが約束されるのは、どんな季節にあっても、あなたの人生が完全に支えられ、完全に保たれるということです。
- あなたは年を重ね、認知能力も身体の力も失っていくかもしれません。それでもイエスはあなたのうちにとどまり、あなたはイエスのうちにとどまります。そこにこそ命があります。
- パウロがピリピ人への手紙で語るとおりです。「わたしを強くしてくださる方によって、わたしはどんなことでもできる」。パウロは何でも「できる」と言っているのではなく、豊かなときも乏しいときも、喜びのときも悲しみのときも、キリストが強めてくださるゆえに、そのすべてを「生き抜くことができる」と言っているのです。
覚えておきたいポイント
- イエスの七つの「わたしは〜である」という宣言は、モーセに啓示された神ご自身の御名と響き合っています。それはイエスが誰であるかを語ると同時に、あなたの具体的な欠けに触れてきます。
- ヨハネ6章の群衆は、パンの奇跡のあとお腹はいっぱいになりましたが、心は空っぽのままでした。あなたの周りの世界も、蓄えながらなお飢えています。
- 本当に問うべきなのは「イエスは私に何をくださるのか」ではなく、「私はイエスご自身を、私の命のパンとして受け取っているか」です。イエスは与える方であるだけでなく、贈り物そのものです。
- 信じることは賜物です。あなたを資格ある者とするのはあなたの頑張りではなく、あなたを引き寄せてくださる父と、終わりの日まであなたを守ってくださる御子です。
- イエスは必要のない人生を約束してはおられません。イエスが約束されるのは、最後まで支えられ、保たれる人生、死そのものをも通り抜けることのできる人生です。
あなた自身への適用
- 今、あなたは本当は何によって生きていますか。日々の生活の中で、イエスが「命のパン」として占めたいと願っておられる場所を、今、何が占めていますか。
- あなたはイエスが与えてくれるものばかりを求めていますか。それとも、イエスご自身を求めていますか。
- もっと欲しがり続けるあの群衆のように、あなたが埋めようとしても決して埋まらない飢えとは何でしょうか。今週、それをどうキリストのもとに持っていくことができますか。
- 神が先んじておられ、あなたを引き寄せてくださるのだとしたら、「主よ、もっと信仰をください」と祈るあなたの祈り方は、どう変わるでしょうか。
- あなたは今、どんな季節にいますか。豊かさ、乏しさ、喜び、悲しみ。パウロのように、「あなたを強めてくださる方によって」その季節を生きることを、どう学んでいくことができるでしょうか。
引用された聖句
- ヨハネ 6:30-40 · 中心となる箇所「わたしが命のパンである」
- ヨハネ 6:48-51 · マナ、生けるパン、世のために与えられる肉
- 出エジプト記 3:14 · モーセに啓示された「わたしは、有って有る者」
- ピリピ人への手紙 4:13 · 「わたしを強くしてくださる方によって、わたしはどんなことでもできる」
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よくある質問
「わたしは命のパンである」とは具体的にどういう意味ですか。
これは比喩です。イエスが文字どおりパンだということではありません。パンの持つ性質、すなわち「それなしには人が死んでしまうほど不可欠な食物」という性質をご自身に重ね合わせることで、イエスがあなたの命を深いところで支え、保つ方であることを語っておられます。それはマナのように一日一日をしのぐためのものではなく、永遠の命にまで及ぶものです。
なぜ群衆はイエスを見ていながら信じないのですか。
彼らはイエスご自身を求めるのではなく、イエスが与えてくれるものを求めているからです。彼らが望んでいるのは、マナを降らせてくれる新しいモーセであって、受け取るべき救い主ではありません。信仰とは何よりもまず、自分で作り出すべき実績ではありません。イエスは問いかけてくる人々の目を、神がなさっていることへと向けさせます。すなわち、引き寄せてくださる父と、受け入れて守ってくださる御子です。
イエスに従えば、私の必要や困難はすべてなくなるのでしょうか。
いいえ。イエスは、経済的、感情的、身体的な必要のない人生を約束してはおられませんし、困難のない季節を約束してもおられません。イエスが約束されるのは、どんな季節にあっても、あなたの人生がイエスによって完全に支えられ、保たれるということです。それは、強めてくださる方によってすべてを生きることを学んだパウロのようにです。
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