永遠の喜び:神ご自身があなたの喜びとなるとき

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はじめに

一晩しか続かない喜びというものがあります。試験の合格発表で自分の名前を見つけたとき、新聞に自分の名前が載ったとき、SNSで評価されたとき。あなたはその喜びを味わいます、でもすぐに過ぎ去ってしまいます。翌日には別の誰かが注目され、あなたの名前は忘れられてしまいます。こうした喜びが消えていく一方で、あなたにはもっと大きく、もっと安定した、そして何より永遠に続く喜びが与えられています。

SOSリヨン教会でのメッセージの中で、マット・ルカ10章20節というたった一つの御言葉から出発し、あなたの喜びの源を変えるように招きます。この喜びは、あなたが何をするか、何を経験するか、いいえ、神があなたのために何をしてくださるかにさえ左右されません。それは神があなたにとって何であられるかに基づいています。それは天に書き記されていて、誰にも消すことができません。

記事の構成

1. あなたの名前は天に書き記されている

このメッセージは、イエスが七十人の弟子たちに語られた言葉から始まります。「しかし、霊があなたがたに服従するというので喜んではいけません。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)。ここにクリスチャンの喜びの第一の理由があります。あなたの名前は天に書き記されているのです。

マット・マーヴェンは、この喜びをあなたがすでに知っている喜びと比較します。試験の合格者リストに自分の名前を見つける、新聞記事に載る、公式な書類に載る、SNSに載る。こうした喜びは実在しますし、確かに嬉しいものです。しかし、それらは一時的なものです。今日は注目されても、明日には忘れられてしまいます。「今日は脚光を浴びても、明日には踏みつけられることもあります」。福音の喜びはそれとは全く別の種類のものです。決して消えることがありません。

2. 誰にも消すことのできない喜び

あなたの名前は地上に刻まれているのではありません。天に書き記されているのです。そしてそこでは、誰もそれを消したり、書き換えたり、塗りつぶしたりすることはできません。「もし神が書かれたなら、誰もそれを消すことはできません。誰一人として、絶対に誰もです」。

説教者は10月19日のルーヴル美術館の窃盗事件に触れます。難攻不落と思われていたものを盗み出すのに、わずか七分しかかかりませんでした。霊的な世界にいる敵は、ただ「盗み、殺し、滅ぼす」ためにやって来るのです(ヨハネ10:10)。しかし、あなたの名前は敵の手が届かないところにあります。盗まれることも、奪われることも、消されることもありません。この確信こそが、あなたの状況ではなく、安定した喜びを生み出すのです。

3. 喜びはあなたの行いからではなく、神がなさったことから来る

「今日の私たちの喜びの源、真の理由は、私たちが何をするかとは何の関係もありません。むしろ、神ご自身が私たちのために何をしてくださったかにあるのです」。私たちは何者かになろうとしているのではありません。ただ、キリストがすべてを成し遂げてくださったことに感謝しているのです。そのゆえに、あなたの名前は天に書き記されています。

この喜びは、あなたの地上の状況、家や車、仕事や健康にも左右されません。それは別の場所、あなたが属している御国から来るのです。あなたは「キリスト・イエスにあって、共に天の所に座らせて」いただいています(エペソ2:6)。だからこそ、信じる者の喜びは涙と共存することができるのです。あなたの魂が苦しむこともあれば、感情が沈むこともあるでしょう。しかし、福音につながっているあなたの霊は、その希望を失うことはありません。

4. どんな状況をも貫く喜び

マット・マーヴェンは、聖書の命令がはっきりしていることを思い起こさせます。「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5:16)。人間的には不可能に思えます。確かに、喜びが状況次第であるなら、それは不可能でしょう。しかし、あなたの人生がキリストの御霊に導かれるとき、別の論理が働き始めます。あなたはあらゆる状況の中で感謝することを学ぶのです(第一テサロニケ5:18)。

詩篇30篇はこの箇所をよく表しています。「あなたは私の嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解いて、喜びをまとわせてくださいました。私の心があなたをほめ歌い、黙っていることのないためです」(詩篇30:12-13)。説教者はこう問いかけます。あなたは黙ったまま教会に来たことがありますか。多くの場合、沈黙は状況があなたの人生を支配している印です。口を開いて賛美することは、主導権を取り戻すことなのです。

5. 神が何をなさるかではなく、神が何であられるか

このメッセージの転換点はここにあります。ダビデ王にとって、神は一時的な助け以上の存在でした。詩篇43篇4節はこう語ります。「私は神の祭壇に、私の最も喜びとする神のもとに行きます」。ダビデは、神ご自身が自分の喜びとなり得ることを発見したのです。

「神があなたの喜びとなりますように。神が何をなさるかではありません、神が何であられるかです」。そこでマット・マーヴェンは、心に突き刺さる問いを投げかけます。「もし神が今この瞬間から祝福の蛇口を止めたとしても、あなたは主をほめたたえ続けるでしょうか」。もしあなたの賛美が神のなさることだけに支えられているなら、それはまだ状況に囚われたままです。しかし、それが神ご自身の存在に支えられているなら、もう何もそれを消すことはできません。

6. あなたの顔に注がれる喜びの油

聖書はイエスについてこう記しています。「あなたは義を愛し、不法を憎まれました。だからこそ神は、あなたの神は、あなたに喜びの油を注ぎ、あなたの仲間たちにまさる者としてくださいました」(ヘブル1:9)。説教者はここから一つの単純なイメージを引き出します。絵画の中で、イエスが微笑んでいる姿はめったに描かれません。しかし、あらゆる証拠は、イエスがこの地上を歩んだ中で最も幸せな人であったことを示しているのです。

この同じ喜びの油があなたにも与えられています。それは頭に注がれた油のようなものです。拭い去るのが難しく、すべてに染み渡ります。マット・マーヴェンはユーモアを込めて、その正反対のイメージを指摘します。緊張してこわばった顔、まるでクリスチャン生活がレモンを噛んでいるかのような表情です。いいえ、そうではありません。弟子とは、キリストご自身の喜びの油が注がれた男性、女性のことなのです。

7. 天は喜んでいます、あなたはどうですか

メッセージの最後の段階は、ルカ15章に導かれます。一匹の羊を見失った羊飼いは、それを探しに出かけます。そして見つけたとき、「喜んでその羊を自分の肩に載せ」ます(ルカ15:5)。文句を言いながらではありません。ため息をつきながらでもありません。喜びながらです。説教者はこれを個人的な記念として語ります。イエスがあなたを肩に担いでくださったとき、主は最も幸せであられたのです。

そしてイエスはこう付け加えます。「悔い改める一人の罪人については、天に大きな喜びがあります」(ルカ15:7)。だからこそ、とマット・マーヴェンは語ります。一つの心がキリストに献げられる日曜日ごとに、教会全体が喜ぶのです。それは天の喜びに交わることなのです。ベツレヘムの羊飼いたちに、御使いはすでにこう告げていました。「見よ、すべての民に及ぶ大きな喜びを、あなたがたに知らせる」(ルカ2:10)。

覚えておきたいポイント

  • クリスチャンの喜びは、すでに成し遂げられた事実から来ます。あなたの名前は天に書き記されています(ルカ10:20)。誰もそれを消すことはできません。
  • この喜びは、あなたの状況に左右されません。それは内側にある、霊的な喜びであり、あなたの内におられるキリストの御霊によって支えられています。涙と共に存在することができます。
  • それは、あなたの行いからではなく、神がなさったことから来ます。神が成し遂げてくださったことに気づくにつれて、賛美は自然に湧き上がってきます。
  • 神ご自身があなたの喜びとなります。祝福そのものではなく、神ご自身です。それがダビデの歩んだ一歩であり、あなたも招かれている一歩です。
  • 一人の魂が立ち返るたびに、天は喜びます。その喜びに加わってください。それはあなたの全存在に注がれる油です(ヘブル1:9)。

あなたへの適用

少し静かな時間を取り、これらの問いをあなた自身に向けてみてください。

  1. 今日、あなたの喜びの主な源は何でしょうか。ある出来事、人からの評価、祝福、それとも神に属しているという確信でしょうか。
  2. あなたは「黙ったまま」礼拝に来たことがありますか。状況があなたを沈黙させていたのです。今週、何があなたの口を閉ざさせましたか。
  3. もし神が「祝福の蛇口」をしばらく止めたとしたら、あなたは主をほめたたえ続けるでしょうか。あなたの賛美は、神が何をなさるかに左右されていますか、それとも神が何であられるかに支えられていますか。
  4. 状況が変わるのを待たずに、今日この瞬間から感謝の口を開くことができる、具体的な試練はありますか。
  5. あなたの顔には、キリストの喜びの油が注がれていますか(ヘブル1:9)、それとも「レモンのような」重苦しいクリスチャン生活の重荷を負っていますか。この喜びを人々の前で生きるために、具体的に何を変えますか。

引用された聖句

よくある質問

SOSリヨン教会でのマット・マーヴェンのこのメッセージは何について語られていますか。

ルカ10章20節、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」から出発し、状況に左右される一時的な喜びと、信じる者の永遠の喜びとを区別します。そして、神が何をなさるかに喜びの土台を置くことをやめ、神が何であられるかに土台を置くという決定的な転換へと導きます。

人生が辛いとき、どうすればいつも喜んでいることができますか。

説教者は苦しみを否定しません。クリスチャンは、魂においては悲しみながらも、霊においては喜んでいることができると語ります。なぜなら、その希望は状況ではなくキリストに基づいているからです。苦しみの中にあっても口を開いて賛美すること、それが最初の具体的な一歩です。そのとき、主の喜びはあなたを支える力となります(ネヘミヤ8:10)。

「神ご自身が私の喜びとなる」とはどういう意味ですか。

それは、すべてがうまくいかないときにだけ神を求める打算的な関係から、神ご自身の存在だけで満ち足りる、絶え間ない交わりへと移ることです。マット・マーヴェンはこう表現します。「神が何をなさるかではなく、神が何であられるかが、あなたの喜びとなりますように」。この喜びはもはや受けた祝福に左右されず、あなたの名前を天に書き記してくださった方の真実さに支えられているのです。

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