はじめに
今週の日曜日、モメンタム教会ではヨハネ8章のシリーズがいよいよ頂点を迎えます。本文はヨハネ8:48-59。テーマはイエスご自身の人格そのものです。メッセージのタイトルがすべてを物語っています。主「わたしはある」。このわずかな節の中で、イエスはご自分が何者であるかを、ユダヤ人の聴衆にとって最も明確で、最も衝撃的な形で明らかにされます。非難され、侮辱され、やがて石を投げつけられようとする中でも、イエスは一歩も引きません。アブラハムより偉大であり、預言者たちより偉大であると宣言し、ついには燃える柴の中でモーセに語りかけた神ご自身の御名を、ご自分に当てはめられるのです。この説教は、あなたに避けて通れない問いを突きつけます。あなたはこのイエスをどうしますか。
メッセージの構成
1. 自分の死を望む者たちにいのちを差し出す救い主
- ヨハネ8:48で、ユダヤ人たちはイエスをサマリア人呼ばわりし、悪霊につかれていると言います。あからさまな侮辱です。それでもイエスは仕返しをせず、御父を敬い続けられます。
- 51節で、イエスはご自分を殺そうとしている者たちにこそ、驚くべき約束をされます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。もし人がわたしのことばを守るなら、その人は決して死を見ることがありません。」
- 「ことばを守る」とは、行いによって救いを勝ち取ることではありません。生きた信仰の実です。新しく生まれた者はキリストを愛し、その御ことばにとどまります。
- ここで言われている死は、肉体の死ではありません。ヘブル人への手紙9:27が思い起こさせるように、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」からです。ここで言われているのは永遠の死、すなわち神からの分離です。
2. アブラハムよりも預言者たちよりも偉大なキリスト
- ユダヤ人たちはイエスのことばを文字どおりに受け取り、正気ではないと非難します。「アブラハムは死にました。預言者たちも死にました……あなたは自分を何者だと言うのですか。」(52〜53節)
- イエスは、ご自分に栄光を与えてくださる方、御父へと目を向けさせます。イエスは御父を知り、その御ことばを守っておられます。そして、御父を知らない宗教家たちに、率直にそう告げられます。
- そして前代未聞の宣言をされます。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを楽しみにしていました。彼はそれを見て喜んだのです。」(56節)族長は信仰によって、メシアの到来をあらかじめ見ていたのです。
- イエスは単なる教師や預言者どころではなく、救いの歴史全体が収斂していくお方なのです。
3. 大いなる「わたしはある」:イエスが神の御名をご自分に当てはめる
- ユダヤ人たちはあざけります。「あなたはまだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのですか。」(57節)ユダヤ教において五十歳は(民数記4:3を参照)、レビ人が奉仕を終える年齢とされていました。つまり、あなたはまだ若造にすぎないと言っているのです。
- イエスの答えは厳粛です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(58節)「わたしはいた」ではなく「わたしはいる」、永遠の現在形です。
- これはまさに、神がモーセにご自分を示された御名そのものです。「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト記3:14)。主、すなわちヤハウェの御名です。
- ユダヤ人たちはその意味を完全に理解しました。冒涜者として石打ちにしようと石を手に取ったのです(59節)。イエスの敵たちでさえ、イエスがご自分を神だと言っていることを分かっていたのです。
覚えておきたいポイント
- イエスは大いなる「わたしはある」です。先在し、永遠であり、完全に神です。イエスは神になられたのではなく、神であることをやめることも決してありません。
- キリストの神性は、後の時代に教会が押しつけた教理ではありません。イエスご自身がそう宣言され、敵対者たちがそれを拒んだのです。
- 救いに至る信仰は、口先だけの告白ではありません。それは御ことばにとどまり続ける従順を生み出します。
- イエスの御ことばを守る者は永遠のいのちを受けます。それは肉体の死を免れるからではなく、何ものも彼を神から引き離すことができないからです。
- このキリストの前には、中立の立場はありません。石を手に取るか、ひれ伏すか、そのどちらかです。
個人への適用
- 「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」と読むとき、それは宗教的な一文にとどまりますか。それとも今週、あなたがイエスを礼拝する仕方を変えるでしょうか。
- あなたの生活の中に、ずっと前から聞いているのに、まだ守ろうとしないイエスのおことばはありませんか。
- キリストのゆえに誰かに侮辱されたり、見下されたりしたとき、あなたはどう反応しますか。イエスのように、自分を守ろうとする代わりに、御父を敬い続けることができますか。
- あなたの信仰は、日曜日だけの告白に近いですか。それとも週の他の日にも「ことばを守る」従順に近いですか。
- もしイエスが本当に永遠の「わたしはある」であるなら、イエスがすぐそばにいて、あなたに耳を傾けておられると本気で信じて生きるなら、あなたの次の一日はどう変わるでしょうか。
引用聖句
- ヨハネ8:48-59・主「わたしはある」
- 出エジプト記3:14・「わたしは、『わたしはある』という者である」
- ヨハネ5:24・死からいのちへ移る
- ヨハネ6:47-51・いのちのパン
- ヘブル人への手紙9:27・人には一度死ぬことが定められている
よくある質問
ヨハネ8:58の「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」とはどういう意味ですか。
イエスは、出エジプト記3:14で神が燃える柴の中でモーセに啓示された御名そのものを、ご自分に当てはめておられます。「わたしは、『わたしはある』という者である。」イエスはご自分の永遠の先在と完全な神性を宣言しているのです。ユダヤ人たちはそれをあまりにもよく理解したため、すぐさま石を手に取り、冒涜者として石打ちにしようとしました。
ヨハネ8:51の「決して死を見ない」とはどういう意味ですか。
イエスは肉体の死を免れると約束しておられるのではありません。聖書は「人間には、一度死ぬことが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)と告げています。イエスが語っているのは永遠の死、すなわち神からの分離です。イエスの御ことばを守る者は、今日からすでに、死によっても断ち切られることのない神との交わりに入るのです。
イエスは本当にご自分を神だと主張されたのですか。
そのとおりです。ヨハネ8:58で、イエスは神の御名である「わたしはある」を絶対的な意味で用いておられます。聴衆の即座の反応、すなわち石を投げてイエスを処刑しようとしたことが、それを裏づけています。彼らはイエスがご自分を神だと言っていることを理解したのです。ヨハネの福音書全体は、あなたがイエスはキリストであり、神の子であると信じるために書かれました(ヨハネ20:31)。
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