はじめに
あなたの日々の行動の源はどこにありますか。言い換えれば、あなたの一日一日、選択、取り組みを動かしている「原動力」は何でしょうか。説教者はこの問いから、パウロがテトスに宛てた手紙の中心に置かれた美しい箇所、テトス 2:11-15の黙想を始めます。
なぜなら、誠実であることは、エンジンそのものが狂っていれば、真心を込めてやっているだけでは意味がないからです。自分の感情や人生哲学、モットー、あるいは周りのグループが期待することに合わせようとして、神があなたを造られた本来の目的を完全に見失うことがあります。大切な問いは「あなたにエンジンがあるかどうか」ではありません。あなたには必ずエンジンがあります。大切なのは、あなたの人生と行動を形づくる、正しい影響の源は何かということです。
前週、教会はテトス 2:1-10を見ました。キリストのからだの中で、年長者にも若者にも、家庭にも職場にも、それぞれの居場所があるという内容です。すばらしいビジョンですが、業績主義的な宗教として受け取ってしまえば、押しつぶされるようなものにもなりかねません。そこで11節に、決定的な小さな言葉、「なぜなら」が登場します。「なぜなら、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたからです。」
私たちは恵みによって形づくられているのです。これこそ、神の民の誠実さの秘密です。恵みの福音によって形づくられた心の内側からの変化です。この箇所は三つの流れで展開されます。神の恵みは現れた(11節)、神の恵みは私たちを教える(12節)、神の恵みとはイエスご自身、その人格、そのみわざ、その目的です(13-14節)。
説教の構成
1. 神の恵みが現れた(11節)
この節は過去形で始まります。「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたからです。」神は過去において、そのもっとも力強い形でご自分の恵みを示されました。どこでですか。出エジプト記 33章で、モーセが主に「あなたの栄光を見せてください」と願ったことを思い出してください。神はモーセを岩の裂け目に隠しながら、ご自分が誰であるかを、その心の奥の奥で宣言されました。恵みとあわれみに満ち、怒るに遅く、慈しみと真実に富み、咎を赦す神である、と。
そして、この恵みが究極的に示されたのはどこでしょうか。イエス・キリストの十字架です。説教のみことばは、神の御子イエスが、赦されるに値しない罪人のために死なれたと告げます。それは、赦された者たちが永遠に主のものとなるためです。無償です。値するものは何もありません。「神の偉大さと美しさを見たいですか。十字架を見てください。」
しかし勘違いしてはいけません。十字架はキリスト信仰の入り口だけではありません。あなたが最初に信じた瞬間だけのものでもありません。現れた神の恵みは、クリスチャンの生き方そのものとなります。それは救いの源であり、この源は回心の後に枯れることはありません。日々流れ続けます。神はあなたのために御自身を約束されたゆえに、日々あなたを罪から救ってくださいます。主があなたを赦してくださったことを疑うとき、あなたはただ十字架に目を向け直すだけでよいのです。そうすれば、確かに赦されていると思い出せます。
2. 神の恵みが私たちを教える(12節)
12節は心に刺さります。「この恵みは、不敬虔と世の欲を捨てて、今のこの世で、思慮深く、正しく、敬虔に生きるように、私たちを教えています。」二つの動きが、共に保たれています。捨てることと生きることです。
ここにクリスチャンの自由のパラドックスがあります。人は、神とともに、神の良い権威のもとで生きるように造られたのに、悪魔の嘘を信じてしまいました。「神から自由になれば、あなたは本当に自由になれる」と。その結果、人はその時々の欲望、その時々の情熱、腹が求めるもの、時には性的な欲望にさえ支配される奴隷となりました。パラドックスは、恵みがその奴隷状態からあなたを解放し、ある生き方には自ら進んでノーと言い、別の生き方には自ら進んでイエスと言う、責任ある男女へと造り変えるということです。
不敬虔を捨てる。不敬虔とは、単に、神を喜ばせる美しく良い人生、神があなたを造られた目的である人生の反対のことです。ここで注意すべき点があります。これは「しなければならない、してはいけない、すべきだ、すべきでない」という律法主義的な論理ではありません。むしろ、こう言う人のことです。「私はこの態度、この言葉、以前ときどき人に向けていたあの死んだような眼差しを捨てます。なぜなら、それはもう私ではないからです。それはもう私のアイデンティティではありません。」
思慮深く、正しく、敬虔に生きる。つまり、神があなたに与えてくださった恵みについて絶えず思いを巡らせ、その恵みによって生き、主があなたに恵みを与えてくださったように、あなたも周りの人に恵みを与えていくということです。これこそがクリスチャン生活の変貌です。「私によってではなく、私のうちにあるキリストによって。」
あなたが自分のアイデンティティ、すなわち神の民としてのアイデンティティにそぐわないものを捨てる力を求めるなら、自分自身、自分の能力、自分の立てた決心に目を向けてはいけません。イエス・キリストの十字架に、主が無条件にあなたに示してくださる愛に目を向けてください。そこにこそ、善を選び悪を退けたいという思いをあなたに与える原動力があります。それをすればするほど、闇のわざが、自然に、内側から、あなたのうちで枯れていくのが見えるでしょう。
二つの注意点があります。第一に、恵みとは「漠然とした、その場限りの良い気分」ではありません。恵みは、あなたの日々の生活に対する神の意志が絶えず働くこと、あなたを思慮深い生き方へと造り変える神のみわざです。第二に、これはディートリヒ・ボンヘッファーが批判した「安価な恵み」ではありません。「神は無条件に私を愛してくださるのだから、気楽に罪を犯して、後で赦しを求めればいい」という考え方です。違います。神が差し出す恵みは、主の聖さと栄光の高さにまであなたを形づくっていくのです。
3. 神の恵みとはイエスご自身のこと(13-14節)
13節はこう続きます。「祝福された望み、すなわち偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望みながら。」恵みは、私たちを栄光の主との出会いへと備えてくれます。説教者はこれを「太字イタリックでマーカーを引いたパウロの一節」と呼びます。一言一言に意味があります。
一つのたとえです。友達を試合観戦に招くとき、パンツ一枚とビールでも迎えられます。恋人や婚約者を迎えるときは、片づけをして、身なりを整え、いい匂いをさせます。そして地区の市長が建物を視察に来るときは、もっと本腰を入れて準備するでしょう。おわかりでしょうか。王の王、あなたのためにご自身を捧げてくださったお方の帰還を待ち望むとき、あなたの人生の備え方はまったく変わってくるのです。
だからこそ、あなたはある事柄にはノーと言い、別の事柄にはイエスと言うのです。それはもうあなたではないからというだけでなく、あなたの偉大で栄光に満ちた王の来臨に備えているからです。この祝福された望みは絶望に終止符を打ちます。あなたの頭を上げ、あなたの愛情を高め、あなたの視点を引き上げてくれます。
そして14節はその姿をさらに描き出します。「キリストは私たちのためにご自分をお与えになりました。それは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な、ご自分の民、きよめられた民とするためです。」ためにという小さな言葉に注目してください。それはあなたを自己中心から、自分本位から、引き離すものです。もし主がご自身を捧げられたのなら、それはあなたの個人的な小さな霊的快適さのためだけではありません。それは次のためです。
- あなたをあらゆる不法から贖い出すため。一部からではなく、あらゆる不法からです。
- ご自分に属する民とするため。あなたは受け取ったアイデンティティを持ち、永遠に主のものです。
- あなたをきよめるため。
- あなたを良い行いに熱心な者とするため。神を喜ばせる美しく良い人生、教会と周りの人々に益をもたらす人生に献げられた歩みです。
説教者はこの論理をさらに押し進めます。もしあなたが恵みによって形づくられることを拒むなら、あなたは「反14節」を生み出してしまいます。まるで主が本当にはご自身を捧げていないかのように。まるで「あらゆる」不法からではなく、自分に見える罪だけから贖われたかのように。まるで自分は本当には主のものではなく、少し自分自身にも属しているかのように。まるできよめは任意で、良い行いへの熱心さは後回しでいいかのように。恵みに深く根ざし、恵みに形づくられていないとき、こうした反応は必然的に生まれてくるものです。
4. 恵みによって生きることは自然にはできない : 15節の問い
15節は力強く締めくくります。「これらのことを語り、勧め、また十分な権威をもって戒めなさい。だれにもあなたを軽んじさせてはいけません。」なぜパウロは、これほど美しい真理の後に、これほど強く念を押すのでしょうか。それは単純に、私たちの心が直感的には恵みによって生きることを苦手としているからです。私たちの内なる原動力は、自然には恵みではありません。それは律法かもしれませんし、怠惰、業績主義、失敗への恐れかもしれません。恵みを私たちの人生の第一の源として生きることは、人間の自然な性質にはまったく反することです。私たちには神の性質が必要なのです。
説教者の友人が使う、覚えておきたいたとえがあります。バターを作ることとヨーグルトを作ることの違いです。バターを作るには、生クリームを取り、ひたすら泡立てて、泡立てて、泡立てて、泡立てて(何度も、何度も、何度も)、ようやく叩き続けた末にバターができます。ヨーグルトを作るには、牛乳を取り、菌を加えて、待つだけです。それは自然に起こります。ひとりでに。
これが、「しなければならない、しなければならない、しなければならない」という宗教(その中で私たちは互いに対して厳しく、互いを裁き合うようになります)と、恵みという成分の違いです。恵みは内側から、牛乳がヨーグルトに変わるように、あなたを自然に変えていきます。「恵みに信頼することです。焦って動き回っても、何にもなりません。」
覚えておきたいポイント
- あなたの内なる原動力を動かしているのは、律法でも、あなたの立てた決心でも、あなたが属するグループでもなく、神の恵みです。
- この恵みは十字架において一度限り現れましたが、今もあなたの人生の中で救いの源として日々流れ続けています。
- 恵みはあなたを教えます。不敬虔に対して「それはもう私ではない」と言わせ、思慮深く正しく敬虔な人生に対して「ここにいます」と言わせます。律法主義的な義務からではなく、受け取ったアイデンティティからです。
- 恵みは、漠然とした良い気分でも、安価な恵みでもありません。それはあなたを神の聖さの高さにまで形づくり、王の来臨に備えさせてくれます。
- 恵みによって生きることは自然にはできません。それはバターではなく、ヨーグルトです。あなたの焦りではなく、御霊の内なるみわざに信頼するのです。
個人的な適用
今週、テトス 2:11-15をゆっくり読みながら、神の前に携えていきたい問いをいくつか挙げます。
- 今、あなたの人生を実際に動かしている原動力は何ですか。義務という冷たい論理でしょうか、失敗への恐れでしょうか、あなたの功績でしょうか、それとも値しない恵みでしょうか。
- 神の赦しを疑うとき、あなたの目はどこに向いていますか。自分の実績でしょうか、それとも十字架でしょうか。
- 今週、あなたが「それはもう私ではない」と言うべきものは何ですか。キリストにあるあなたのアイデンティティが捨てさせてくれる態度、言葉、眼差しを一つ挙げてください。
- あなたの生き方は「私は王の来臨に備えている」というしるしを帯びていますか。それとも「今この瞬間の快適さを守っている」というしるしでしょうか。
- あなたは今、バターを作っていますか、それともヨーグルトを作っていますか。言い換えれば、主があなたを内側から恵みによって変えようと招いておられるのに、あなたはどこで焦って動き回っていますか。
引用された聖句
- テトス 2:11-15 ・ 説教の中心テキスト
- テトス 2:1-10 ・ キリストのからだの中でそれぞれが持つ居場所
- テトス 1:8 ・ 長老は思慮深くあるべきこと
- テトス 2:5 ・ 若い女性たちも思慮深くあるよう勧められていること
- 出エジプト記 33:18-19 ・ 「あなたの栄光を見せてください」
- 出エジプト記 34:6-7 ・ 恵みとあわれみに満ち、怒るに遅い神
- ルカ 15:11-32 ・ 放蕩息子のたとえと、父の惜しみない愛
- エレミヤ 31:33 ・ 新しい契約の約束 : 「わたしの律法を彼らのうちに置く」
よくある質問
恵みが無償で私を救ってくれるのなら、なぜ12節はなおも何かを捨てるよう求めているのですか。
それは、恵みが単にあなたを赦すだけでは終わらないからです。恵みはあなたを教え、あなたを形づくります。これは、ボンヘッファーが批判した「安価な恵み」の正反対です。テトス 2:12における「捨てる」ことは、律法主義の「しなければならない、してはいけない」とはまったく別物です。それはアイデンティティの動きです。「それはもう私ではない。」あなたが不敬虔にノーと言うのは、何かを得るためではなく、キリストがあなたのために得てくださったものが、あなたという存在そのものを変えたからです。
「恵みによって生きる」ことと「神が動いてくださるのをただ何もせず待つ」ことは、どう違うのですか。
説教にあったバターとヨーグルトのたとえがそれです。恵みによって生きることは受け身ではありません。信頼です。あなたは十字架から目を離さず、教えを受け入れ、みことばに従ってイエスとノーを言います。しかし、自分自身を決心の力で変えようとはしません。あなたは「発酵種」(恵みの福音、御霊のみわざ)を加え、あとは神が実を結ばせてくださるのに委ねます。「私によってではなく、私のうちにあるキリストによって。」
赦されているか疑うとき、具体的にどうやって「十字架に目を向ける」のですか。
二つのことを思い出してください。まず、イエスがなさったこと。イエスはあなたのためにご自分を捧げてくださいました(14節)。それは、あなたをあらゆる不法から贖い出すためです。一部からではありません。小さな罪だけからでもありません。あらゆる不法からです。次に、神が約束してくださったこと。説教のみことばは、キリストにあってあなたが赦され、きよめられ、主に属する民の一員として迎え入れられていると告げます。このみことばに目を向け、必要なら声に出して自分に語り、御霊があなたの心を確信させてくださるのを待ってください。
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