はじめに
イエスは十字架の門口に立っておられます。ルカの福音書22章39〜71節で、あなたはイエスとともにゲツセマネに入り、その逮捕の場面に同行し、サンヘドリンでの裁判に立ち会います。これは単なる受難物語ではありません。神の国とその義を第一に求めるとはどういうことかを教える、生きたレッスンです。
マタイの福音書6章33節を思い出してください。「まず神の国と神の義を求めなさい」。イエスは、この御言葉をあなたの目の前で生きられます。祈りの中でそれを息づかせ、裏切りの中でそれを担い、平手打ちと侮辱の中にさえそれを現されます。そして、その模範を通して、あなた自身の人生が神の本当に望んでおられることへとどのように整えられ得るかを、あなたは発見していくのです。
記事の構成
1. ゲツセマネ:何ものも揺るがすことのできない、聖なる習慣
「イエスはいつものように、オリーブ山に出て行かれた」(39節)。二つの小さな言葉が目に飛び込んできます。いつものようにという言葉です。イエスには一つの習慣がありました。弟子たちとともに祈るために、この山に定期的に登っておられたのです。ヨハネの福音書18章2節もそれを裏づけています。ユダはこの場所を知っていました。イエスがしばしばここに弟子たちを集めておられたからです。
これは考えさせられることです。もしあなたが、自分が捕らえられようとしていることを知っていたら、その習慣を避けるでしょうか。予定を変えるでしょうか。イエスは、何も変えられませんでした。御父との間に築かれたものを、状況によっても恐れによっても変えることはなさらなかったのです。まず神の国を求めるとは、圧力が高まるときにこそ、自分の霊的な良い習慣を犠牲にすることを拒むことでもあるのです。
この信頼は、日曜日だけで築かれるものではありません。それは、他の六日間、毎日あなたが神に心を向けるために取る30秒や10分の中で培われるものです。人は遠くからでは誰かを知ることはできません。あなたも、うわさによって神の真実さを知ることはできません。それを実際に生きる必要があるのです。
2. 「誘惑に陥らないように、祈っていなさい」
イエスは弟子たちに二度、こう言われます。「誘惑に陥らないように、祈っていなさい」(40節、46節)。どんな誘惑でしょうか。それは眠気の誘惑ではありません。イエスが語っておられる誘惑とは、まもなく彼らを襲うことになる誘惑、すなわち自分自身を守るためにイエスを否むことです。御父の御心よりも自分の意志を優先させることです。
もしあなたが祈らないなら、あなたはこの誘惑に陥ります。それはあなたが道徳的に弱いからではなく、あなたの肉はいつも、安全、評判、快適さを選んでしまうからです。祈りは、あなたを聖霊に対して目覚めさせておくものです。祈りとは、まず願い事のリストではありません。それは、神ご自身があなたのために望んでおられることに耳を傾けることです。祈るとは、自分の願いを神に伝える前に、神の御心を見極めようとすることなのです。
3. ゲツセマネの祈り:「わたしの願いではなく、御心のままに」
「父よ。みこころでしたら、この杯をわたしから取り除いてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころがなりますように」(42節)。言葉の精密さに注目してください。イエスはもしできるならとは言われません。もし望まれるならと言われるのです。神は何でもおできになります。本当の問いは、決して神の力ではなく、神の御心なのです。
あなたの祈りがかなえられないとき、それはまず、あなたの祈り方が悪いから、言葉遣いが間違っているから、あるいは信仰が小さすぎるからではありません。それは、神がその知恵の中で、そのことを、少なくとも今は、望んでおられないからなのです。「御心のままに」と祈ることは、逃げ道の条項ではありません。それこそが信仰の中心なのです。
そして、この祈りは決して容易なものではありませんでした。この箇所はほとんど医学的な記述です。「イエスは苦しみもだえ、ますます切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(44節)。たとえ御使いが力づけてくれたとしても、自分自身の意志を手放すことは、汗を流すほどの戦いであり続けます。痛みのない霊性を売り込む者たちを信じてはいけません。
イエスが飲まなければならなかった杯とは、罪に対する神の怒りの杯です。詩篇75篇9節は、泡立ちなみなみと満ちたこの杯について語っています。パウロは後にこう述べます。「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました」(コリント第二5:21)。イエスは、ご自分が何を求めているのかを知っておられました。それでも、愛のゆえに、その杯を飲まれたのです。
4. 眠りこける弟子たち:悲しみが祈りを黙らせるとき
「祈り終えて立ち上がり、弟子たちのところに来ると、彼らが悲しみのために眠っているのをご覧になった」(45節)。ルカは繊細です。彼はその理由を教えてくれます。弟子たちは、イエスの叫びを聞いていました。十字架の現実が彼らを打ちのめしていたのです。彼らは悲しく、打ちひしがれ、うろたえていました。そこで、彼らは目を閉じてしまったのです。
それは、あなたの誘惑でもあるかもしれません。苦しみがあまりに重くなるとき、祈ることは不可能に思えます。あなたは叫びたいのに、眠り込んでしまうのです。しかし、その理由が何であれ、祈らないことには代償があります。それは、あなたが誘惑に陥ってしまうということです。弟子たちの眠りが予告していたのは、彼らの逃走であり、ペテロの三度の否認でした。
それでも、ここに良い知らせがあります。イエスは彼らを見捨てられません。「もうやめよう」と言って天に帰ってしまわれることはありません。あなたの弱さは、あなたを役立たずにするものではありません。それは無用な痛みをもたらしますが、あなたを神の愛から締め出すものではないのです。
5. 逮捕:ユダ、ペテロ、そしてイエスのあわれみ
ユダは口づけをするために近づきます。この文化において、口づけは深い愛情、主人への忠誠、時には礼拝すら表すものでした。イエスは彼にこう言われます。「ユダ。あなたは口づけで人の子を裏切るのですか」(48節)。これは怒りの叫びではありません。最後の呼びかけです。隠された懇願です。自分が何をしているか、気づいてほしい。まだ間に合う。
一方ペテロは、剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落とします。勇敢な行動ですが、まったく肉的な行為です。彼は祈っていませんでした。自分自身の力で反応し、肉の手段で自分の主を守ろうとしたのです。イエスはすべてを止められます。「やめなさい。もうそれでよい」(51節)。そして、敵の耳を癒やされます。
お分かりでしょうか。イエスは裁くために来られたのではありません。救うために来られたのです。ユダ、兵士、傷を負ったしもべ、それぞれが、イエスのあわれみのしるしを受け取ります。あなたはなぜ、一度失敗しただけで神があなたを見捨てると、そんなにも早く思い込んでしまうのでしょうか。あなたは、神の御心をよく分かっていないのです。
6. ペテロの三度の否認:回復をもたらすまなざし
「ペテロは遠く離れて、イエスについて行った」(54節)。これが転落の第一歩です。あなたは、遠くからイエスに従うことはできません。距離を置き始めると、あなたは人々の目を気にし始めます。やがてペテロは、自分の主の敵たちのただ中に座り込みます。そして、問いが投げかけられたとき(「あなたも、あの人と一緒にいた」)、彼は三度、否みます。「わたしはその人を知らない」。
鶏が鳴きます。すると、イエスは振り向いてペテロを見つめられます(61節)。ここで注目すべきは、鶏の鳴き声そのものではなく、イエスのまなざしが、主の御言葉をペテロに思い出させたということです。それは、憎しみに満ちたまなざしでも、押しつぶすようなまなざしでもありません。あわれみに満ちたまなざしです。思い出しなさい。あなたの信仰が絶えないように、わたしは祈った。わたしのあなたへの愛は変わっていない。
このまなざしこそが、ペテロを外に出し、激しく泣かせたのです(62節)。真の悔い改めは、裁きへの恐れからではなく、それでもなお愛されているという確信から生まれます。あなたが自分の罪に気づくとき、イエスはペテロに向けたのと同じまなざしをあなたに向けておられます。このまなざしがなければ、あなたは決して立ち返る勇気を持てないでしょう。
7. あざけりと裁判:辱めの中に現される御国
番兵たちはイエスを打ち、目隠しをして平手打ちを浴びせ、侮辱します(63〜65節)。ギリシャ語の原文は非常に強い動詞を用いています。打つ動作は肌を切り裂き、平手打ちは犠牲者が身を守ることもできないほどの激しさで加えられます。そして、この処刑人たちのためにも、イエスは杯を飲まれるのです。
サンヘドリンの前で、問いが飛びます。「あなたはキリストなのですか。あなたは神の子なのですか。」イザヤ書53章7節が予告していたように、イエスは黙っておられることもできたはずです。裁判は仕組まれ、判決はすでに決まっていました。それでも、イエスはこう答えられます。「あなたがたの言うとおりです」(70節)。
信じてもらえないと分かっていながら、なぜイエスは語られたのでしょうか。おそらく、この70人の議会の中に、別の仕方で聞いていた二人がいたからでしょう。ニコデモとアリマタヤのヨセフです。この二人こそ、後にイエスの遺体を引き取り、葬ることを願い出る人物です。イエスは、一度も奉仕することをやめられませんでした。ご自分の裁判さえも、心を開いている者たちへの説教となったのです。
覚えておきたいポイント
- まず神の国を求めるとは、状況の圧力に屈して、神との交わりの習慣を曲げることを拒むことです。
- 祈りとは、まず願い事のリストではありません。それは、御父の御心を見極め、それを受け入れることを学ぶ場です。
- 「御心のままに」と祈ることは決して容易ではありません。それは自分自身に死ぬことを求め、汗と涙を伴いますが、より大きな勝利への扉を開きます。
- 祈らなければ、たとえ最良の意図があっても、あなたは自分を守るためにイエスを否む誘惑に陥ってしまいます。
- ペテロの転落の後にイエスが向けたまなざし(あわれみに満ちたまなざし)は、あなたが自分の罪を認めるとき、あなたに向けられているのと同じまなざしです。
実践のための問いかけ
- 今日のあなたにとって、神との間の「いつもの習慣」とは何でしょうか。それは安定していますか、それとも圧力が高まるとすぐに崩れてしまいますか。
- あなたが祈るとき、神が望んでおられることを探ろうとしていますか、それとも自分が望むものを手に入れようとしていますか。
- 自分を守るために、言葉によって、あるいは沈黙によって、イエスを否みたいという誘惑に駆られている状況はありませんか。
- あなたは霊的にどこに座っていますか。イエスの近くに従っていますか、それとも「遠く離れて」、主の声をかき消す声のただ中にいますか。
- あなたが転落した後、あなたは神をどのようなまなざしで見ていますか。怒れる裁き主でしょうか、それとも振り向いてあなたを探してくださる救い主でしょうか。
引用聖句
- ルカの福音書22:39-71 · 説教の主要テキスト
- マタイの福音書6:33 · 「まず神の国と神の義を求めなさい」
- ヨハネの福音書18:2 · ユダはその場所を知っていた
- 詩篇75:9 · 神の怒りの杯
- コリント第二5:21 · 「神は私たちのために、この方を罪とされました」
- イザヤ書53:7 · 「彼は口を開かなかった」
よくある質問
まず神の国と神の義を求めるとは、どういう意味でしょうか。
それは、神の御心、神の支配、神の義のあり方を、あなた自身の願い、評判、安全よりも優先させることです。それは理論ではありません。イエスはゲツセマネで、「わたしの願いではなく、御心のままに」と祈ることによって、それを実際に生きられました。神の国を求めるとは、神があなたよりも遠く、広く、正しく見ておられることを認めることです。
なぜイエスは「もし御心でしたら、この杯を取り除いてください」と祈られたのでしょうか。
それは、完全に人となられたイエスが、十字架が何を意味するのか、すなわち罪に対する神の怒りを担うことを、少しも知らずにおられたわけではなかったからです。イエスは、神がそれを避けることができるかどうかを尋ねてはおられません。神がそれを望んでおられるかどうかを尋ねておられるのです。この祈りは、自分の最も深い願いを神に打ち明けながら、それでもすべてを神の主権的な御心に委ねることができることを示しています。
すべてがうまくいかないとき、どうすれば誘惑に陥らずにいられますか。
まさに、あなたが黙り込みたい、眠り込みたいと思うその場所で祈ることによってです。祈りは苦しみを取り除きはしませんが、あなたを聖霊の声に対して目覚めさせ、自分を自分で救おうとすることをやめる力を与え、たとえあなたが転んでもイエスはあなたを見捨てないということを思い起こさせてくれます。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。