ルカ8章:あなたの信仰はどこにあるのか 力ある、いつくしみ深い救い主

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はじめに

嵐の中では、「恐れないで、信頼しなさい」と言われるだけで信頼が新しくなるとは限りません。ブリュッセル・ウォリュウェ福音プロテスタント教会(Église Protestante Évangélique Bruxelles-Woluwe)の説教者ピエール・ド・カイロンは、そのことをよく知っています。妹が運転免許を取ったばかりのころ、彼女はときどきカーブで路肩に寄りすぎることがありました。彼はこっそりと身をこわばらせて座席にしがみつき、その横で妹は言うのです。「心配しないで、大丈夫、任せて。」彼の結論はこうです。信頼は自動的には生まれません。ちなみに、事故は一度も起こしていない、と妹をかばうように付け加えています。

ルカの福音書の連続講解の続きとして、前の週には、イエスが私たちを招いておられることが語られました。みことばを聞き、守り、実行するようにという招きです。けれども、私たちはイエスを信頼しきれないことがあります。最初からイエスのもとに来ようとしない人もいれば、イエスに従うことに代価が伴うと知って心が折れる人もいます。

ルカ8章22-39節には、二つの出来事が記されています。嵐に向き合うイエス、そして悪霊に取りつかれた人に向き合うイエスです。説教者はここから二つの教えを引き出します。私たちが過小評価しているイエスの力と、私たちが忘れているイエスのいつくしみです。私たちがイエスについて抱いているイメージが、イエスに寄せる信頼を左右し、その信頼が、試練の中で踏みとどまれるかどうかを決めるからです。

メッセージの流れ

1. 壊れそうだと思う椅子には座らない

  • 椅子が丈夫でないと思えば、その椅子には座りません。特に、懸かっているものが大きく、後ろに受け止めてくれるものが何もないときはそうです。
  • 同じように、イエスはそれほど力がない、あるいはそれほど善い方ではないと思っているなら、事が深刻になったとき、つまり代価を払うことになったとき、イエスとそのみことばを疑ってしまうかもしれません。
  • だからこそ、イエスがどなたであるかを正しく捉えることが大切です。

2. 嵐に向き合うイエス(ルカ8章22-25節)

  • イエスは弟子たちと舟に乗り、湖の向こう岸へ渡ります。渡っている間、イエスは眠ってしまわれます。突風が湖に吹きおろし、舟は水でいっぱいになり、彼らは危険にさらされます。
  • 弟子たちはパニックに陥ります。「先生、先生。私たちは死んでしまいます。」
  • イエスは目を覚まし、風と荒波をしかりつけると、凪になります。戦いも努力もありません。「それは、ヒーローが全エネルギーを振りしぼって何かの力を操るファンタジー映画とは違います。」イエスが語られると、被造物は従います。
  • それからイエスは弟子たちに向かって言われます。「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」イエスは、彼らが恐れたことを当然とはお考えになりません。
  • 意外な点があります。聖書は、嵐が静まったあとで、弟子たちが恐れに包まれたと記しています。「風も水も命じれば従うとは、いったいこの方はどなたなのだろう。」彼らは、イエスが自分たちの思っていたよりはるかに力ある方だと知るのです。
  • 説教者は子どものころ、たいていの先生は怖くありませんでしたが、校長先生だけはみんなが恐れていたといいます。親に電話もでき、退学にも処罰にもできたからです。校長先生が他の生徒を罰しに来たときでさえ、みな静かにしていました。イエスの圧倒的な権威を前に、弟子たちは畏れに打たれます。
  • それでも、彼らはイエスを知っており、すでに数々の奇跡を見ていました。それなのに、イエスの力をまだ大きく見くびっていたのです。まるでイエスはこう言っておられるようです。「ここで死ぬとでも思ったのか。向こう岸へ渡ると言っておいたではないか。」
  • ティースプーンのたとえ話です。スポーツの競技で、ティースプーンを持ち上げるよう求められ、友だちがみな感嘆したとしましょう。あなたはきっとこう答えるでしょう。「私をアリだと思っているの?」イエスも、弟子たちの不信仰に同じように驚かれたのです。弟子たちはイエスを先生と呼びながら、イエスが全被造物の主でもあることを理解していませんでした。
  • この箇所は、イエスの神性を指し示しています。完全な人として、イエスは眠られます。完全な神として、イエスは被造物を治める権威をお持ちです。

3. レギオンに向き合うイエス(ルカ8章26-33節)

  • 湖の向こう岸で、イエスは手に負えない人に出会います。服を着ず、墓場に住み、長い間たくさんの悪霊に取りつかれていた人です。「個人的には、私なら怖かったと思います。」
  • 聖書は、悪霊を実在する霊的な存在として描いています。ある種の精神的な病気を説明するために古代人が作り上げた素朴な発想ではありません。
  • ところが、この場面で恐れているのはだれでしょうか。悪霊につかれた人です。その人はイエスの足もとにひれ伏し、叫びます。「いと高き神の子イエスよ、あなたは私と何の関わりがあるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」
  • 悪霊たちの名はレギオンです。レギオンとは数千人の兵士からなる部隊のことで、悪霊の勢力は巨大でした。それでも抵抗はまったくありません。イエスが語られると、悪霊は従います。
  • 説教者は注意を促します。この記事は悪霊と戦うためのマニュアルではありません。イエスについて語る物語の箇所であって、私たちの行動を規定する箇所ではないのです。「まず第一に、私たちはイエスではありません。」強調されているのは、イエスの力です。
  • 時に描かれるような、互角に近い戦いではありません。イエスは力をもって治めておられます。
  • 悪霊たちは、イエスがどなたかについて多くの人々ほど無知ではなく、イエスを軽んじるにはあまりにイエスを恐れています。イエスを本当に知れば知るほど、イエスを畏れ敬うようになります。

4. イエスの力を見くびらない

  • 多くの人は、いまだにキリストがどなたかを知りません。イエスをただの人としか見ていません。イエスの強さは外見には表れませんでしたが、比べるもののない力と権威をお持ちでした。
  • クリスチャンは、しばしば弟子たちに似ています。イエスを先生、主と呼びながら、その力を見くびっています。物事が思いどおりに進まないとき、神は本当に十分強いのだろうかと考えてしまいます。
  • 運転席の妹の話に戻ります。「それは、神が人生のハンドルを私たちの妹に任せたかのように、イエスを妹のように扱うことです。」カーブを少し間違えただけで、私たちは不安になります。「でも、そう考えるのはばかげています。イエスは私たちの妹ではありません。イエスは王の王、宇宙の主です。」
  • 私たちの不安は、しばしば、何かをキリストご自身より強いものと見なしていることから来ます。「それは偽りです。」
  • 自然も、悪魔も、悪霊も、私たちに害を及ぼしうるあらゆる力も、イエスの力に服しています。それらは、イエスが許されること以外は何もできず、許される範囲でしか働けません。
  • 私たちには、すべてが分かるわけではありません。なぜイエスは、悪霊たちを底なしの所に送らず、豚に入ることをお許しになったのでしょうか。そのほうが町の人々には楽だったのではないでしょうか。聖書はただこう強調します。「イエスは彼らに許された。」イエスは、私たちに理解できない試練を許されることがあります。しかし、それでイエスの力を疑ってはなりません。
  • 悪霊の働きは悪いままであり、私たちの人生の多くのことと同じです。しかしイエスは、その原因ではないのに、私たちの状況の主であり続けておられます。
  • 悪魔に対しては、避けるべき両極端が二つあります。悪霊などいないと信じること、そして、あらゆるところに悪霊を見て、自分の肉、自分の罪、世の影響、病気の存在まで忘れてしまうことです。
  • 悪霊の影響下にある人にどう向き合うかについては、クリスチャンの間にも立場の違いがあります。すべてのクリスチャンにはイエスの名によって悪霊を追い出す権威があると考える人もいれば、むしろ祈りの中で神に向かい、神に解放していただくべきだと考える人もいます。しかし、次の点では皆が一致できます。勝利と解放は、イエスのうちにのみあるということです。
  • 次に、ある状況があなたを不安にさせたら、この問いを聞いてください。「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」そして、こう答えてください。「私の信頼は自分自身にはありません。私の信頼は、私が想像するよりはるかに力ある救い主イエスにあります。」

5. 私たちが忘れているイエスのいつくしみ(ルカ8章34-39節)

  • 溺れた豚の番人たちが、町に知らせに行きます。住民たちがやって来て、癒やされた人と溺れた群れを見て、彼らもまた恐れに包まれます。
  • その反応は意外です。ゲラサ人の地の住民はこぞって、自分たちのところから出て行ってくださいとイエスに願います。おそらく、イエスが自分たちに破滅をもたらすのではないかと恐れたのでしょう。イエスの力は見えたのに、そこに危険を見て、キリストを退けたのです。
  • 「イエスの力を見ることは必要です。けれども、どうやらそれだけでは、イエスへの信頼を生み出すには足りなかったようです。」
  • 解放された人は、反対の反応を示します。イエスと一緒にいたいと願います。同じ出来事でも、反応は二つです。群衆は脅威を見ますが、この人は救い主を見ます。この人はイエスが自分のために何をしてくださったかを知っており、イエスの善良さを確信しています。
  • 心を閉ざしたこの群衆への愛のゆえに、イエスはこの人を遣わし、イエスがご自分のためになさったことを証しさせます。イエスがこの人のためになさったことは、豚の群れを失ったことをはるかに上回っていました。
  • 悪霊に取りつかれていたこの人は、死んだ人のようでした。墓場に住み、のけ者にされ、裸で、辱められ、自分を傷つけていました。今や彼はイエスの足もとに座り、服を着て、正気に返っています。家族のもとに帰れるようになるだろうと想像できます。それは根本的な人生の変化です。
  • この描写は、私たちひとりひとりがイエスに立ち返るときに起こることを表しています。だれもが悪霊に取りつかれているわけではない、と説教者は断りますが、これは並行関係です。罪の中で死んでいた私たちは、欺く欲望によって自分を滅ぼしていましたが、イエスが私たちを救ってくださいます。私たちはイエスの足もとに身を置いてみことばに耳を傾け、正気に返り、イエスが与えてくださる尊厳を身にまといます。
  • 「イエスは悪霊を苦しめるために来られたのではありません。多くの人を救うために来られたのです。」イエスは、私たちの不幸のために来られたのではありません。
  • イエスの力を認めていても、その計画が私たちにとって良いものかどうかは疑ってしまうことがあります。「この状況でイエスに従ったら、どこへ連れて行かれるのだろう。」行きたくない場所へ導かれるのを見て、「ちょっと、イエス様、これはほとんど誘拐ですよ」と思ってしまいます。そして、イエスの善良さを疑うがゆえに、ハンドルを取り戻したくなるのです。
  • 世、悪魔、そして私たちの肉の声が、イエスに従えば何かを失うのだと思い込ませようとします。しかしこの箇所では、イエスは弟子たちを嵐から救い、この人を憐れみ、その惨めさから引き出して、尊厳を取り戻してくださいます。「イエスは善い方です。イエスはいつくしみ深い方です。」
  • キリストに従う人は、それを証しできます。私たちは、義務や脅しからイエスに従うのではありません。イエスを愛し、その善良さを味わったから従うのです。
  • 疑いのときに、この問いが再び戻ってきます。「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」答えは、私自身ではなく、善良さに満ち、愛に満ちて、私の面倒を見てくださる救い主イエスにある、ということです。

6. 十字架に現れたイエスの力と善良さ

  • 結びとして、説教者はイエスの生涯のさらに先を見るよう招きます。宗教指導者たちに無実の罪を着せられ、十字架の上で殺されたイエスは、三日後によみがえり、弟子たちに現れます。
  • 力について。その死と復活によって、イエスは死に勝利されました。死は最悪の脅威であり、神に対する私たちの罪が受けて当然の罰です。イエスは、ご自分のもとに来るすべての人に、いのちと神の赦しを与えてくださいます。私たちは神の前に義と宣言され、復活と永遠のいのちの確信を持つことができます。
  • 善良さについて。イエスは私たちを救うために死に至るまで行かれました。痛みと辱めと拒絶に耐え、私たちが受けるべき結果をご自分の身に負われました。イエスは、あの十字架の上で死なねばならなかったわけではありません。愛のゆえにそうされたのです。
  • イエスの力を疑うとき、またイエスの善良さを疑うときは、十字架を見てください。
  • 最後の問いです。「私たちの信仰はどこにあるのか。私たちの信頼は自分自身にはありません。それは救い主イエスにあります。イエスは、私たちが想像するよりも力があり、私たちが想像するよりもはるかに善い方です。」

心に留めたいポイント

  • あなたがイエスについて抱いているイメージが、イエスに寄せる信頼を決め、その信頼が、試練の中で踏みとどまれるかどうかを決めます。
  • イエスは、風と荒波と、レギオンという多くの悪霊に、少しの苦労もなく命じられます。イエスに逆らえるものは何もありません。
  • イエスはあなたに理解できない試練を許されることがありますが、イエスの権威から逃れるものは何もありません。
  • イエスの力を見るだけでは足りません。ゲラサ人はそれを見ながら、イエスを退けました。イエスの善良さも確信する必要があります。
  • 十字架は、その両方を同時に示しています。イエスの死に対する勝利と、あなたへの愛の大きさです。

個人への適用

  1. 今のどんな状況で、イエスにはハンドルを握る力がないかのように、しがみついていますか。
  2. 今、キリストよりも強く思えるものは何ですか。病気、恐れ、状況、それとも人でしょうか。
  3. あなたは霊的な戦いを無視しがちですか。それとも逆に、自分の肉と罪を見つめる代わりに、あらゆるところに悪霊を見てしまいがちですか。
  4. どんな分野で、イエスに従えば何か良いものを失うのではないかと疑っていますか。
  5. 解放された人のように、イエスがあなたのためになさったことを、今週だれに語れるでしょうか。

引用された聖書箇所

よくある質問

イエスはなぜ弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と尋ねるのですか。

イエスは、弟子たちが嵐の中で死ぬことを恐れたのを当然とはお考えになりません。向こう岸へ渡ろうと、すでに告げておられたからです。ピエール・ド・カイロンによれば、イエスはこう言っておられるようなものです。少しの水と風で、メシアであり神の御子であるわたしが沈められるとでも思ったのか、と。弟子たちはイエスを先生と呼んでいましたが、イエスが全被造物の主でもあることを理解していませんでした。

ゲラサ人の地の人々は、なぜイエスに立ち去ってほしいと願ったのですか。

人々は、解放された人と、溺れた豚の群れを見て、大きな恐れに包まれました。イエスの力は認めましたが、それを自分たちへの脅威と見て、イエスが破滅をもたらすのではないかと恐れたのです。イエスの力を見ることは必要だが、それだけではイエスを信頼するには足りず、その善良さも確信する必要がある、と説教者は説明します。

イエスはなぜ悪霊たちが豚に入ることを許されたのですか。

聖書はその理由を説明しておらず、ピエール・ド・カイロンも多くの疑問が浮かぶことを認めています。ルカが強調しているのは、イエスの権威です。「イエスは彼らに許された。」悪霊たちの働きは、イエスの許可にかかっています。同じように、イエスは私たちに理解できない試練を許されることがあります。しかしイエスがその原因なのではなく、イエスは私たちの状況の主であり続けておられます。

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