はじめに
2026年9月20日の日曜日、台風が東京に近づいています。田無にある東京グレイス福音教会(Tokyo Grace Gospel Church)で、説教者は、パウロがエペソの長老たちに語った別れの言葉を開きます。「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」(使徒行伝20:32)
説教者は、この御言を礼マタイによる福音書11章12節と結びつけます。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」厳しく響く言葉です。これは何を意味するのでしょうか。そして、この御国を具体的にどのように受け継ぐのでしょうか。
メッセージの題が方向を示しています。「失われた神の子どもたちを取り戻そう」。説教者は、神がこの世から御自分の民を取り戻されること、しかもそれは剣一本使わずになされることを語ります。神の唯一の武器は、十字架で示された愛です。
メッセージの流れ
1. 御国を受け継ぐ:「奪い取る」とはどういうことか
- 「御国をつがせる」。使徒行伝20章32節の御国とは、神が治めておられる国のことです。私たちが信仰によってそれを受け継ぐことは、あなたもすでにご存じでしょう。けれども、それは具体的に何を意味するのでしょうか。
- マタイ11章12節がヒントを与えてくれます。ここで語られているのは、大人も子どもも含めた神の子どもたちのことで、弟子たちはその人々をこの世から取り戻し、天の御国へ連れ帰るのです。
- そこで問いはこうなります。弟子たちは町々をどのように「攻めた」のか。イエスご自身は、どのように激しく攻めて、御自分の民を取り戻されたのか。
- この言葉には荒々しい印象があります。説教者もそれを認めています。「本当の愛は、しばしば激しく迫ってくるものです。」説教者は、よく似た題の本を書いた作家の有島武郎に触れつつ、イエスはそれより二千年も前にこの愛について教えておられた、と語ります。
- 人の心は、愛のことになると最も敏感になります。だからこそ神は、愛によって私たちをこの世から取り戻そうとされます。「神の愛は、伝道の第一の武器です。」
2. 悪魔は先に愛を使った
- 愛は、何としても失いたくないものです。同時に、人間にとって最も敏感な部分でもあり、その奴隷になってしまうほどです。
- 神の愛に引かれて十字架へ向かうなら、私たちは罪の赦しを受け、肉の欲からも解放されます。私たちは自由になるのです。
- しかし悪魔は、人がこの点で弱いこと、そして人は心の奥底では孤独であることを知っています。そこで、身近な人の愛、説教者ははっきりと、肉的で性的な愛と言っていますが、それを使って、神の愛から目をそらさせます。「あなたがたも、人生で何度もそういう経験をしてきたのではありませんか。」
- どんなに頑固な人も、厳しい人も、気まぐれな人も、愛にはとても敏感です。だれもが愛されたいのです。
- 神の愛には顔がなく、声も聞こえません。人間の愛、あるいはそれに似たものは、目に見え、触れることができ、ときにはやさしいまなざしもあります。そこで悪魔は、先にあなたの心をつかみ、占領し、満たしてしまいます。イエスの話を聞いても、「私の心にはもう場所がありません」と答えてしまうのです。
- マタイ11章12節が描いているのはこのことです。失われた神の子どもたちは人間の愛にとらえられていました。そこへ神の愛が来て、とらえられていた心を激しく取り戻されるのです。「それが伝道です。」
- この箇所は、人によっては痛みを伴います。神の愛が本物だと分かっても、人間の愛で満たされた心を離れることには代価がかかります。しかし後になって分かります。神の愛を知らなければ、本当の人間の愛も知ることはできないのだと。悪魔は順序を逆さまにしていたのです。
3. イエスは武器を一つも使わずに攻められた。教会は愛によって治められる
- 多くの人は、人間の愛がすべてだと思っています。「この愛を失ったら、生きる望みはありません。」そのように占領された心を、神は無条件の愛で取り戻されます。説教者は、私たちはまさにその時代を生きていると語ります。
- だれが御国を取り戻すのでしょうか。私たちです。私たちは神の兵士であり、愛によって激しく攻める者です。
- イエスは武器を一つも使われませんでした。それでも激しく攻め、ご自身が十字架につけられるまでに至りました。攻められましたが、それは自己犠牲によるものでした。十字架につけられたのは敵ではなく、イエスご自身でした。
- 使徒行伝20章32節は、受け継ぐのは「聖別されたすべての人々と共に」だと述べています。神のみわざのために取り分けられた人々、すなわち教会のことです。御国を受け継ぎ、この世の失われた人々を取り戻すことが、教会の営みです。
- 御国とは神の支配のことで、その支配は愛の支配です。教会は、神の愛が治めている場所です。人間的な過ちや、ときには罪もあるでしょう。けれども最後には神の愛がそこを治めていて、ここが自分にとって一番幸せな場所だと感じるようになります。
- 「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(ヨハネの第一の手紙4:8)説教者は、五十年ほど前にこの御言を初めて読んだときの自分の反応を語ります。「なんて失礼な!」。それを教えてくれた人に、「私には愛がないと言うのですか」と食ってかかったほどでした。
- 今では、その通りだったと認めています。人が心の中に持っている愛は、神が人に与えてくださった、神を知るための通路です。最初の、もしかすると唯一の通路かもしれません。神は愛であり、愛は愛によってしか理解できないからです。
- 私たちはイエスを信じたとき、権威をいただきました。その権威によって悪魔に立ち向かいます。病人をいやし、悪を追い出すのです。
- 「しかし、愛がなければ、この権威は役に立ちません。」それは神の愛から来るもので、その源は十字架です。
- ローマ人への手紙5章8節はこう断言します。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」説教者は、ここで使われている言葉は法律用語で、法廷で通用する証拠を意味すると強調します。十字架は、神の愛の明確で揺るぎないしるしです。
- この権威を十字架によって受けたのなら、私たちはあちこちで悪魔の攻撃を打ち破ることができます。
4. サマリヤの女:剣を使わずに取り戻された町
- 「私たちは、礼儀正しすぎることがよくあります。それは正しいのでしょうか、それとも間違いでしょうか。」サマリヤ人のところへ行くために、イエスは普通ならしないことをなさいました。井戸のそばで女の人と二人きりになり、水を飲ませてほしいと頼まれたのです(ヨハネによる福音書4:7)。
- イエスは礼儀正しく近づかれました。ところが女のほうは、何度かぶっきらぼうに答えました。「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」(ヨハネによる福音書4:9)。イエスは怒られませんでした。もしあなたに話しかけているのがだれかを知っていたなら、あなたのほうから飲ませてほしいと頼んだことだろう、と答えられました(ヨハネによる福音書4:10)。
- 次に女はうそをつきました。「わたしには夫はありません」。イエスは「うそをついている」とは言われませんでした。むしろ穏やかにお答えになりました。その通りだ、今いっしょにいる男はあなたの夫ではなく、あなたには五人の夫がいた、と(ヨハネによる福音書4:17-18)。
- 剣は一本も使われませんでした。イエスはやさしく語りかけ、彼女の心のもつれた糸を一本ずつほどいていかれました。「責めたのではなく、ほどかれたのです。」ついに彼女は、この方がキリストだと確信するようになりました。
- ユダヤ人とは関わりたくなかったサマリヤの人々が、町から出て来ました。女の証しを聞き、そのあと自分でイエスに出会って信じたのです(ヨハネによる福音書4:39-42)。武器も厳しい言葉もなく、町全体が取り戻されました。
- 人のところへ行くとき、武器はいりません。必要なのは、礼儀と、知恵に満ちた言葉です。この知恵は、神に愛されているという確信から来ます。神の愛があなたの内に治めているなら、その愛が何を語るべきかを教えてくれます。相手の弱点を突くのではなく、それを避けて、まっすぐ神の愛へと導くのです。
- もしイエスが、「ほら、うそをついたね」とか「ずいぶん失礼な人だね」と言っておられたら、会話はそこで終わっていたでしょう。イエスは愛の忍耐をもって、話を前に進められました。私たちは腹を立て、会話が止まってしまい、そんなつもりではなかったのにと思います。「家族の間で、よくあることではありませんか。まさにそこで、この知恵が一番必要なのです。」
5. ナポレオン、ペテロ、マルコス:剣か愛か
- 説教者は、ナポレオンのものとされる遺言に触れます。説教者によれば、それはセントヘレナ島に流されていた間に書かれたもので、疑いの声はあるものの、おおむね本物と認められているとのことです。そこから次の趣旨を紹介します。「私は世界を治め、多くの者が私に仕えた。だが今、流刑の身の私に従う者はだれもいない。しかし、あの方はどうだ。力を一度も使わなかったのに、これだけの時を経て、どれほど多くの人があの方に従っていることか。」
- 「あの方」とはイエス・キリストです。ナポレオンは武器と大砲で帝国を治めました。イエスは愛で世界を治められ、今日も多くの人が、自分の命を顧みずにイエスに従っています。
- イエスが築かれた御国は、剣ではなく、神の愛によって治められています。
- ゲツセマネで、ペテロは剣でイエスを助け出そうとしました。まだ神の愛を知らなかったのです。彼は、イエスを捕えに群衆とともに来た大祭司の僕マルコスに斬りかかり、その耳を切り落としました(ヨハネによる福音書18:10)。
- イエスは言われました。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイによる福音書26:52)。そして耳を元に戻し、いやされました(ルカによる福音書22:51)。「これがイエスのやり方です。」
- 説教者は映画『パッション』に触れます。その冒頭の場面が、この瞬間を描いているのです。神の愛の力、聖霊の力によっていやされたマルコスは、戦う気持ちをすっかり失います。ほかの兵士たちが「イエスを捕えろ」と叫んでも、彼は動きません。分かったのです。「この方は敵ではない。間違っているのは私たちだ。私はただのローマの兵士なのに、この方は私を愛してくださる。」
- 説教者によれば、この映画が公開されたのは、中東で戦争が激しく続いていた時期でした。多くのアメリカ兵が命を落とし、アメリカはどうすればよいのかと悩んでいました。冒頭の場面に監督の意図が表れています。力では何も解決しない。神の愛で愛するとき、相手も戦う気持ちを失います。こうして神の国は広がっていくのです。
6. 本当の戦いは自分自身との戦い
- 「奪い取る」とは、相手を乱暴に扱うことではありません。自分自身を治めることです。心の中にいる敵、つまり自分の怒りを十字架につけることです。力ずくで押さえつけるのは相手ではありません。私たちが怒りを静めるとき、失われた人々は回復されます。
- 腹が立って、ののしりたくなることがあるでしょう。けれども主の前に出ると、戦うべき相手は相手の人ではなく、自分自身だと分かります。それが平安をもたらします。
- 力ある教会、力ある家庭とは、神の愛に治められた教会や家庭のことです。父や母の愛はごくわずかなものです。「ここにおられる多くのお母さん方には申し訳ありませんが。」説教者はご自分も含めて言います。「私たちの愛に治めさせたら、すべてがたちまち崩れます。」神の愛が治めるところには、平安があります。
- あなたの愛には限界があります。人間的すぎるために、神の愛を追い出してしまうことさえあります。悪魔はやがて牙をむきます。「そんなことを我慢するのか。はっきり言ってやれ。少し教えてやれ。」そして自己実現を教え込みます。
- イエスの自己実現があるとすれば、それは十字架です。罪を犯していないのに罪人と呼ばれること。それが生涯の目的でした。「人間の愛を追いかけている者に、これができるでしょうか。」
- きつい言葉を口にする人は、心の奥に渇きを抱えていることが多いものです。人は孤独だからです。あなたが感情的になれば、口論が始まり、その渇きには決して届かず、「こうなるはずではなかったのに」と思うことになります。愛をもって耐えるなら、相手の心の奥底、本当の愛を知りたいという願いに届きます。
- サマリヤの女には五人の夫がいて、六人目の男と暮らしていました。そのたびに、「今度こそこの人だ」と思ってきたのです。満たされたでしょうか。もしイエスが彼女と口論していたら、その渇きには届かなかったでしょう。イエスは知恵をもって衝突をかわし、彼女の孤独に届くまで深い忍耐を示されました。「それが愛です。」
- だれも、一人ではこれをなしえません。イエスにはおできになりましたが、私たちには教会が必要です。励まされ、共に祈ることが必要です。こうした僕たちが皆で力を合わせるときにこそ、激しく攻めると言えるのです。
7. 生きるために、そして死ぬために必要なもの
- 神の愛の支配の中に入ると、まず自分が神に愛されていることに気づきます。そのとき、神との交わりが始まります。愛がなければ交わりはないからです。同時に、心の中にあった臆病の霊が消えていきます。
- 「もし死ぬとしたら、最低限何が必要ですか。」それは愛です。そして逆に言えば、「これさえあれば、ほかには何もいりません。」
- ここに、力ある教会と、力あるクリスチャン生活があります。この愛は聖霊によって与えられます。だからこそ、受け継ぐと言われているのです。
- あなたにはこの愛が必要です。多くのことを耐え、多くのものをささげなければならないからです。神を愛し、隣人を愛すること(マタイによる福音書22:37-39)、それがあなたに必要なものです。「この愛をください。そうすれば、私は何でもできます。お金も、名声も、きれいな服もいりません。あなたの愛で私の心を治めてくださるなら、それで十分です。」
- 神の本当の愛は、十字架で示されました。その愛があれば、愛しにくい人でさえ取り戻すことができます。「愛しなさい。愛しなさい。人を取り戻すのは、愛することによってです。」聖霊によって、あなたにはそれができます。
- 説教者は最後の祈りで、一人ひとりがこの愛を受けて、神の前で隣人を取り戻し、「剣によらず、力によらず、愛することによって」勝利できるようにと願います。
要点のまとめ
- 神の国は愛の支配です。神は失われた子どもたちをこの世から取り戻されます。その第一の武器は、十字架で証明された愛です。
- 悪魔は先に、見やすく触れやすい人間の愛で心を占領します。神の愛を知らなければ、本当の人間の愛も知ることはできません。
- イエスは武器を使わずに攻められました。忍耐とやさしさでサマリヤの女とその町を勝ち取り、剣で応じる代わりにマルコスの耳をいやされました。
- 「奪い取る」とは、相手を乱暴に扱うことではなく、自分の怒りを十字架につけることです。本当の戦いは自分自身との戦いです。
- この働きは一人ではできません。教会の中で、励ましと祈りによって、聖霊が与えてくださる愛によって生きるものです。
私たちへの問いかけ
- 今、あなたの心の第一の場所を占めている愛は何ですか。神の愛のための場所は残っていますか。
- 家族や身近な人の中で、会話がいつも口論で終わってしまう人はだれですか。イエスがサマリヤの女にされたように、忍耐をもって会話を前に進めるには、どうすればよいでしょうか。
- 今週、相手にぶつける代わりに十字架につけるべき怒りは何ですか。
- あなたの知っている人のきつい言葉の裏に、どんな渇きや孤独を見いだせるでしょうか。
- 愛しにくい人を愛するために、教会の励ましや祈りにどのように支えられることができますか。
引用した聖書の箇所
- 使徒行伝20:32
- マタイによる福音書11:12
- ヨハネの第一の手紙4:8
- ローマ人への手紙5:8
- ヨハネによる福音書4:7-42
- ヨハネによる福音書18:10
- マタイによる福音書26:52
- ルカによる福音書22:51
- マタイによる福音書22:37-39
よくある質問
マタイ11章12節の「激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とはどういう意味ですか。
説教者は、これは聖書の中でも難しい言葉だと認めています。説教者は、バプテスマのヨハネの時から、神の子どもたちが天の御国のためにこの世から取り戻されている、という意味に理解しています。「激しく襲う者たち」とは、弟子たち、すなわち教会のことです。ただし、その唯一の武器は暴力ではなく、十字架で示された神の愛です。
なぜ悪魔は、人を神から遠ざけるために人間の愛を使うのですか。
愛は人間にとって最も敏感な部分であり、だれもが心の奥底では孤独だからです。神の愛には顔がなく、声も聞こえませんが、人間の愛は目に見え、触れることができます。そこで悪魔は、まずこの分かりやすい愛で心を占領し、イエスのための場所が残らなくなるまで続けます。
口論にならずに、愛によって人を取り戻すにはどうすればよいですか。
イエスがサマリヤの女にされたやり方に倣うことです。イエスは、彼女の傷つける言葉にもうそにも腹を立てず、心の糸を一本ずつほどいていかれました。説教者は、戦うべき敵はあなたの内にある、つまり自分の怒りであり、それを十字架につけるのだと語ります。愛の忍耐があって初めて、相手の奥底に隠れた渇きに届くことができます。
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