はじめに
この日曜日、北海道の千歳福音キリスト教会は創立60周年を迎えました。記念の礼拝に招かれたのは、シャローム福音教会の牧師、木田仁逸先生です。木田先生はこの教会をよくご存じです。17歳でここに来て洗礼を受け、10年間会員として過ごしました。その間に、農場で4年、クリーニング店で3年働き、北海道聖書学院で3年学ばれました。現在は牧会37年目です。
木田先生はまず、この60年間仕えてきた宣教師、日本人の牧師、会員の方々のために感謝を献げます。教会がここまで歩んでこられたのは、人間の努力だけによるのではなく、何よりも主の恵みが教会を守り、導き、支えてくださったからだと語ります。そして、この教会がこれからも地域で福音を伝え、次の世代に信仰を受け継いでいけるようにと祈ります。
続けて、木田先生は一つの問いを投げかけます。かつて十字架は罪人を処刑するための道具であり、当時もっとも残酷な死の道具でした。ところが今日、十字架を見ると、人は救い、希望、愛を思い浮かべます。「何が十字架を変えたのでしょうか。」この問いとともに、木田先生マタイの福音書27章32節から54節を開きます。
メッセージの流れ
1. 病院にある十字架
- 木田先生は、北海道に住んで8年ほどたち、札幌の大きな教会をひと通り知っていたころのことを話します。十字架のしるしのついた建物を見かけて、自分の知らない立派な教会があるのだろうかと思ったそうです。そこで会衆にクイズとして尋ねます。答えは病院でした。
- 地図でも、病院は十字のしるしで表されます。赤十字のマークは、創設者のアンリ・デュナンがスイス人だったことにちなみ、スイス国旗の色を反転させたものです。
- いのちを救い、守り、癒やす場所が、死の道具のしるしを掲げています。クリスチャンではない人も、アクセサリーとして十字架を身につけています。
- 「処刑の道具は、どのようにして救いの象徴になったのでしょうか。」このメッセージ全体が、この問いに答えます。
2. キレネ人シモン:本来は私たちが負うはずだった十字架
- 32節で、兵士たちはキレネ出身のシモンという人に出会い、イエスの十字架を無理に負わせます。前夜のむち打ちのあと、イエスはゴルゴタへの道で力尽きていました。
- 最初は、シモンはなんと運が悪いのだろう、突然、死刑囚の見知らぬ人の十字架を負わされるなんて、と思います。しかし、本当の意味はその反対です。自分の罪の十字架を負うべきだったのは、私たちのほうです。
- 聖書が語る罪とは、まず法律を破ることではありません。いのちを与えてくださる方を神として認めず、背を向け、自分を中心にして生き、自分自身が神になってしまうことです。的を外した生き方です。この意味で、神の前に罪のない人は一人もいません。
- 「イエス・キリストは、私たちの身代わりになってくださいました。これが十字架の心臓部です。」罪のないお方が、私たちとは関係ないとは言わず、天から私たちのところまで降りてきてくださいました。それがクリスマスの意味です。
3. ピラトの前での、選ばれた沈黙
- ローマ総督であり裁判官でもあったピラトは、イエスにユダヤ人の王かどうかを尋ねます。イエスは「そのとおりである」と言われました(マタイ27:11)。イエスはまことの王ですが、政治的な意味での王だと名乗ることは賢く避けられました。それはローマへの反逆と受け取られかねなかったからです。
- ユダヤの指導者たちに訴えられても、イエスは黙っておられます。14節には「しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」とあります。弁明して無実を証明することもできたはずですが、イエスはそうなさいませんでした。
- イエスにとって、十字架は事故でも、ただの悲劇でもありませんでした。木田先生はレオナルド・ダ・ヴィンチの絵にふれながら最後の晩餐を思い起こさせます。そこでイエスはすでにこう語っておられました。「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26:28)。
- イエスは何が起こるかをご存じで、私たちの罪が赦されるために十字架を受け入れてくださったのです。
4. バラバは釈放され、イエスは十字架につけられる
- バラバは囚人でした。四つの福音書を合わせて読むと、暴動、殺人、強盗に関わっていたことがわかります。一方のイエスは、十字架に値するような罪を何一つ犯していませんでした。
- ピラトはそれを知っていました。「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである」(18節)。それでも群衆はバラバを釈放してイエスを十字架につけるように叫び、ピラトはそれに屈します。無実だとわかっている人を死刑にする。そんなことは決してあってはならないことでした。
- バラバの立場から見るとこうです。自分が処刑されるはずだったのに、別の人が身代わりに死に、自分は自由の身になって帰っていく。「これがイエス・キリストの十字架の意味です。これが福音、良い知らせです。」
- この日、バラバが何を理解したのかはわかりません。けれども、聖書全体の光に照らせば、バラバは私たち一人ひとりを表しています。キリストが私たちの身代わりになってくださったので、赦しと神のもとへ帰る道が開かれているのです。
- 木田先生はレンブラントの絵『十字架の掲揚』にもふれます。十字架を立てている人々の中に、青いベレー帽をかぶった男がいて、しばしばレンブラント本人だとされています。もしそうなら、それは信仰の告白です。「キリストを十字架につけたのは、私の罪です。」木田先生は、一人ひとりがこのように十字架のもとに立ち、「主よ、あなたの十字架は私と無関係ではありません」と言えるようにと願っています。
5. 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
- 46節で、イエスはこの叫びをあげられます。「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」37年の牧会の中で、木田先生はよくこう尋ねられてきました。イエスは十字架で死ぬことを知っておられたのに、なぜあのように叫ばれたのか。十字架は不意打ちだったのか、と。
- いいえ。イエスは十字架をご存じでしたが、死にたいと望んでおられたわけではありません。御父のみこころに従う思いで、罪に対する正しい罰を私たちの代わりに受けるために十字架を受け入れ、一歩一歩そこへ向かって歩まれたのです。この叫びは詩篇22篇の成就でもあります。
- この叫びは、キリストが本当に苦しみ、本当に私たちの罪を負われたことを示しています。「これはゲームでも、パフォーマンスでも、演出でもありませんでした。」歴史的な事実です。
- なぜそこまでされたのでしょうか。ローマ人への手紙5章8節が答えます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」私たちが良くなってからではなく、神に背を向けていたときにです。私たちの行いに左右されない愛であり、神のほうから先に、一方的に近づいてくださったのです。
6. 御父の沈黙と、裂けた幕
- 聖書はキリストの苦しみを描いていますが、御父の苦しみについては何も語りません。御父は御子の叫びを聞きながら、お救いにはなりませんでした。できなかったからではありません。もし御子を救っておられたなら、私たちにとって赦しと永遠のいのちへの道は閉ざされていたでしょう。
- 木田先生には三人の娘さんがいます。上の二人は30代、末の娘さんは20代後半です。「死刑に値する犯罪者の代わりに、自分の娘を差し出すことなど、私にはできません。」あなたはどうでしょうか。自分の子どもや孫のために、それができるでしょうか。
- 「私たちには、御父の愛はおそらく理解できません。」それでも、これだけはわかります。神は、御子を差し出すほどに私たちを愛しておられます。まるでこう言っておられるようです。わたしの子のいのちの価値と、あなたのいのちの価値は同じだ、と。
- 51節で、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けます。聖く、清く、正しい神と、罪人である私たちとの間には、壁がありました。幕は、人間の努力によって下から上へ裂けたのではなく、上から下へ裂けました。道を開いてくださったのは神ご自身です。
- メッセージははっきりしています。「わたしのもとに帰りなさい。あなたがキリストを信じるなら、罪を抱えたそのままで赦され、永遠のいのちを受けます。」あとは、心から信じて受け取るだけです。
7. 受け取るのであって、稼ぐのではない
- 木田先生は、簡単な祈りを勧めます。「キリスト、わが神よ、あなたの十字架は私の罪の身代わりでした。ここまで私を愛してくださって、ありがとうございます。信じます。受け取ります。」バラバが釈放されて自由になったように、私たちも救いを受け取ることができます。
- 多くの日本人は、赦されるにはまず善い行いをしたり、修行をしたり、施しをしたりしなければならないと考えています。木田先生は、私たちはそのために十分善い者ではなく、私たちの罪も軽いものではないと答えます。罪はあまりに重く、罪のない神のひとり子がその罰を負わなければならなかったのです。
- 善い行いは赦しの条件ではありません。赦された人が示す、感謝と信仰の応答です。「この順序が逆になることは決してありません。」
- 54節で、イエスの番をしていたローマの百卒長が告白します。「まことに、この人は神の子であった。」職業軍人であり、尊敬される人であり、ユダヤ人から見れば外国人です。木田先生は、千歳にもこの職業の方が大勢おられますね、とさりげなく添えます。
- マタイはこの告白を通して、イエスがユダヤ人だけの救い主ではなく、世界のすべての民のまことの救い主であることを示そうとしています。
8. 洞爺丸:二人の宣教師と救命胴衣
- 1954年9月26日、台風15号のさなか、函館と青森を結ぶ青函連絡船の洞爺丸は、木田先生によれば乗客乗員1,314人を乗せ、小康状態の間に出港しました。港を出てまもなく激しい嵐に巻き込まれ、機関室に水が入り、エンジンが止まります。船長は七重浜に座礁させようとしましたが、船は横転して沈みました。戦後の日本で最悪の海難事故の一つです。
- 船にはアメリカ人のディーン・リーパー宣教師とカナダ人のアルフレッド・ストーン宣教師という、二人の外国人宣教師が乗っていました。証言によれば、二人は怯える日本人の乗客を落ち着かせ、救命胴衣を配って回りました。
- 救命胴衣が足りなくなると、二人は自分の胴衣を脱いで、持っていなかった日本人に着せました。そして、主のみもとへ旅立ちました。
- 「人のいのちは一つしかありません。それを他の人のために用いるなら、それは最大の愛です。」イエスは言われました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。この二人は日本人にキリストの愛を示しました。そしてキリストご自身が、十字架でいのちを捨ててくださったのです。
9. 応答:毎日受け取る贈り物
- 60年の間に多くのことが変わりました。これからの60年も、さらに多くのことが変わるでしょう。「けれども、世界がどれほど変わっても、キリストの愛は変わりません。」
- 神は私たちに語られます。「あなたはわたしの目に尊い。その証拠が十字架だ。わたしの子よ、わたしのもとに帰りなさい。」だから、死の道具が救いの象徴になったのです。それは、私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださったキリストの愛のしるしです。
- 最後に、木田先生はこの日に買ってきたお茶のペットボトルを取り出し、差し上げましょうと言います。どうすればこれはあなたのものになるでしょうか。会衆のうちの一人が前に出てきて、信頼して受け取りました。「キリストの救いを受け取るとは、まさに今あなたがしたことです。」すべてはすでに備えられています。私たちには何も付け加えられません。あとは贈り物を受け取るだけです。
- それは何十年たっても変わりません。木田先生ご自身も、40年以上前にこの教会で洗礼を受けました。信仰は昔の思い出ではありません。毎日、新たに、頭だけでなく全身で、十字架の愛を受け取ることです。
- 日本では、99%の人がまだイエスを知りません。その中には私たちの友人や家族もいます。先に救われた者は、その人たちのために祈り、言葉や行いで伝えるよう招かれています。「あなたも、十字架で愛されています。」
心に留めたいこと
- 十字架が救いの象徴になったのは、罪のないキリストがそこで、私たちが受けるべき罰を身代わりに受けてくださったからです。
- バラバのように、あなたも本来は死ぬはずだった人です。別の方があなたの身代わりになってくださったので、自由の身で帰っていけます。
- 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、あなたへの愛のために受け入れられた、本物の苦しみを示しています。
- 幕は上から下へ裂けました。ご自身への道を開いてくださったのは神です。
- 救いは贈り物として受け取るものです。善い行いは、感謝の応答であって、条件ではありません。
自分への問いかけ
- レンブラントの絵のように、キリストを十字架に導いたのは自分自身の罪だと言えますか。
- 神の赦しを受け取らずに、自分の努力で得ようとしていませんか。
- 神が、あなたがまだ罪人であったとき、あなたが何も変わる前から愛してくださったことは、あなたにとって何を変えますか。
- 十字架の愛は、あなたにとって遠い思い出ですか。それとも毎日新たに受け取っている現実ですか。
- まだイエスを知らない身近な人のうち、今週、誰のために祈りますか。そして、その人が愛されていることをどのように伝えますか。
引用した聖書箇所
- マタイの福音書27:32-54(メッセージの本文)
- マタイの福音書27:11
- マタイの福音書27:14
- マタイの福音書27:18
- マタイの福音書26:28
- 詩篇22:1
- ローマ人への手紙5:8
- ヨハネの福音書15:13
よくある質問
なぜ、死の道具だった十字架が救いの象徴になったのですか。
木田先生によれば、十字架は当時もっとも残酷な処刑の道具でした。それが救いの象徴になったのは、罪のないキリストがそこで、私たちの罪に対する正しい罰を身代わりに受けてくださったからです。こうして十字架は、神の愛のしるしになりました。
なぜイエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのですか。
十字架はイエスにとって不意打ちではなく、最後の晩餐のときにすでに予告しておられました。詩篇22篇を成就するこの叫びは、イエスが本当に私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罰を本当に受けられたことを示しています。それはゲームでも演出でもなく、歴史的な事実です。
神に赦されるには、善い行いをしなければなりませんか。
いいえ。木田先生は、私たちの罪は重すぎて、自分の努力では消せないと語ります。ただ信じて、十字架で備えられた赦しを、贈り物のように受け取ればよいのです。善い行いはそのあとに、感謝の応答として生まれるものであり、救いの条件ではありません。
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