武器を手にしたまま ― クリスマスに響くエペソ6章の戦い

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はじめに

コロナ禍のとき、夜8時になると窓を開けて医療従事者に拍手を送っていたことを覚えていますか。大したことではなかったかもしれませんが、自分の持ち場を離れず、時には自分の健康を犠牲にしてまで私たちのために働いてくれた人たちへの「ありがとう」の気持ちでした。ある牧師が語っています。看護師である妻マリー・ノエルは、毎日どんな一日になるか分からないまま仕事へ出かけていきました。疲労、プレッシャー、そして病気を家に持ち帰ってしまうかもしれないという恐れ。彼が心を打たれたのは、勇気そのものよりも、その誠実さでした。彼女たちはそこに留まり続け、耐え抜いたのです。

今朝、みことばは私たちに似たような、けれどもはるかに深い問いを投げかけます。戦いがもはや医療的なものでも目に見えるものでもなく、霊的なものであるとき、あなたはどんな武器を手に最後まで立ち続けますか。聖書は、この戦いが十字架から始まるのではないことを示しています。それはもっと前から、飼い葉桶から始まっているのです。そしてクリスマスのメッセージとは、戦いのない世界の到来を告げるものではなく、まさにその戦いのただ中における神の勝利を告げるものなのです。

メッセージの流れ

1. イエスの誕生において、すでに戦いは始まっている

私たちはクリスマスを、優しさや静けさ、平和、クリスマスマーケット、イルミネーション、プレゼントと結びつけたがります。けれども正直に言えば、聖書はクリスマスを美化していません。今日のクリスマスの話ではなく、福音書が描く最初のクリスマスのことです。イエスが誕生したその瞬間から、緊張はすでにそこにあります。自分の権力を守ろうと震える王。夜の闇の中、戻れるかどうかも分からないまま逃げなければならない家族。そして、光を消し去ろうとする絶望的な企てのうちに、幼子たちが虐殺されるのです。

マタイ2章13節にはこう書かれています。「立って、幼子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。ヘロデが幼子を捜し出して、殺そうとしている。」つまり、神が歴史の中に入って来られたその瞬間から、悪は激しく反応するのです。最初のクリスマスは穏やかなものではありません。それは対立の中にあります。それは闇の支配に対する挑戦です。デパートのショーウィンドウのクリスマスではなく、聖書が語るクリスマス、すなわち神が許しを求めることなく、壊れたこの世界に入って来ることを決意されたクリスマスなのです。

そして、神の行動の仕方に目を向けてみましょう。イエスは軍隊を率いて来られたのではありません。軍事戦略や人間の武器を携えて来られたのでもありません。美しいのは、イエスが弱く、依存した存在として、文字どおり母に抱かれる赤ちゃんとして来られたことです。それにもかかわらず、まさにそこから神のご計画は前進していきます。最初から一つの根本的な真理が置かれています。神の勝利は決して状況次第ではないということです。政治情勢にも、文化的背景にも、治安状況にも左右されません。神がご自分の計画を成し遂げられるのは、状況が有利だからではなく、神が主権者であられるからです。

2. イエスの生涯において、神の武器が私たちに示される

クリスマスが戦いの始まりの場所を示してくれるとすれば、イエスの生涯は神がどのように戦われるかを示してくれます。イエスはこの戦いを決して無視されませんでしたが、この世の武器で戦われることは決してありませんでした。荒野でサタンに試みられたとき、イエスはどの誘惑に対しても同じ言葉で答えます。「こう書いてある」と。マタイ4章4節ではこう答えられます。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」マタイ4章7節では「あなたの神である主を試みてはならない。」マタイ4章10節では「サタンよ、退け。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」イエスは神のことばによって戦われるのであって、力の誇示によって戦われるのではありません。別のやり方もできたはずですが、それは父なる神の選ばれた道ではなかったのです。

その後、身近な人さえも戦いの場となります。ペテロがイエスを十字架への道からそらそうとしたとき、イエスは彼の目をまっすぐ見つめてこう答えられます。「下がれ、サタン」(マタイ16章23節)。なぜこれほど厳しい言葉なのでしょうか。たとえ善意から出た言葉であっても、イエスを神のみこころからそらせるものは、すべて誘惑であり続けるからです。

そしてゲツセマネの場面がやって来ます。イエスは英雄を演じたりはされません。内側で激しく葛藤し、苦しまれ、ルカ22章42節でこう祈られます。「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころがなされますように。」ここで戦いはもはや外側のものではなく、内側のものです。そして、まさにそこでイエスは勝利されます。イエスが勝つのは、いちばん強いからではありません。もちろん、いちばん強い方であることは分かっていますが。イエスが勝つのは、従順であられるからです。

そして最後に、十字架の上で、イエスは悪に悪をもって報いることをなさいませんでした。そこに留まり、息を引き取る直前にこう宣言されます。「完了した。」これは敗北の叫びではありません。良い戦いを最後まで戦い抜いたという宣言です。みわざは成し遂げられました。イエスは死なれます。けれども、より正確に言えば、イエスはご自分のいのちを渡されたのです。誰もそれを奪ったのではありません。イエスは父への従順のうちに、自ら進んでいのちを差し出されました。ヨハネ10章18節でご自身がこう言っておられる通りです。「わたしから、それを取る者はいません。わたしが自分からそれを捨てるのです。」こうしてイエスは、武器を手にしたまま死なれました。強いられてではなく、愛によって、誠実さによって、従順によってです。

3. 今日を生きる私たちへ ― 最後まで堅く立ち続ける

ここまで見てきたこと ― イエスの誕生、戦いへの向き合い方、最後までの従順 ― これらすべてを、パウロは信じる者たちのために言い表してくれています。エペソ人への手紙6章13〜17節を開いてみましょう。

「ですから、悪の日に対抗できるように、また、すべてを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。ですから、堅く立ちなさい。真理の帯を腰に締め、正義の胸当てを着け、平和の福音の備えを足に履き、それらすべてを覆う信仰の盾を取りなさい。それによって、悪しき者が放つ火矢をすべて消すことができます。また、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」

心を打たれるのは、パウロが特定の賜物について語っているのではないということです。教会には多様な賜物があり、一人ひとりが自分らしい賜物を持つことができます。けれどもここでパウロが言うのは、神の武具を「すべて」取りなさい、ということです。あなたがどんな賜物を持っていようと、あなたがどんな人であろうと、すべての武器を取り、そのすべてを用いなさい。なぜでしょうか。悪魔はあらゆる方法であなたを攻撃してくるからです。自分の息子や娘、父や母の目をまっすぐ見て「下がれ、サタン」と言えるのは誰でしょうか。主ご自身をおいて他にはいません。

パウロがこの手紙を書いたとき、彼はローマの兵士に鎖でつながれていました。文字どおり、帝国権力の代表者に繋がれていたのです。それでもパウロは、ローマのことも、反乱のことも、報復のことも語りません。すぐそばにいる兵士の武具に目を留め、そこから霊的な教訓を引き出すのです。パウロが実質的に語っているのはとても率直なことです。戦いは現実であり、状況は敵対的である。けれども神は、ご自分の民が堅く立ち続けられるように備えてくださる、ということです。よく注目してください。パウロは「征服するために武器を取りなさい」とは言っていません。「堅く立つために武器を取りなさい」と言っているのです。クリスチャン生活の目的は、世界を支配することではなく、主が私たちに求めておられることの中心に忠実であり続けることです。

パウロは、文化に優遇された教会に宛てて書いているのではありません。小さく、少数派で、時には理解されず、時には反対される教会に宛てて書いているのです。それでもパウロは決して敗北を語りません。なぜなら、クリスマスのときと同じように、イエスの生涯のときと同じように、神の勝利は決して状況次第ではないからです。法律が変わることもあるでしょう。文化が抵抗することもあるでしょう。時代の空気が厳しくなることもあるでしょう。けれども、神があなたを置かれたその場所こそ、まさに神があなたに堅く立ち、愛し、その光を輝かせるようにと召しておられる場所なのです。

心に留めたいポイント

  • 霊的な戦いは十字架から始まるのではなく、飼い葉桶から始まっています。クリスマスはすでに闇の支配への挑戦なのです。
  • 神の勝利は決して状況次第ではありません。政治にも、文化にも、治安にも左右されません。神の主権にかかっているのです。
  • イエスは神のことばと父への従順によって戦われました。力の誇示によってではありません。
  • イエスは武器を手にしたまま死なれました。強いられてではなく、愛と誠実さと従順によってです。「完了した」は敗北の叫びではなく、勝利の宣言です。
  • 自分の賜物に合った武器だけでなく、神のすべての武具を取りましょう。目的は征服することではなく、堅く立ち続けることです。

自分自身への適用

  1. 今日、あなたの本当の戦いはどこにありますか。外側(状況や環境)でしょうか、それとも内側(ゲツセマネのイエスのように)でしょうか。「みこころがなされますように」と言う備えはできていますか。
  2. あなたが今、おろそかにしている神の武具はどれですか。真理、正義、福音の熱心さ、信仰、救い、それともみことばでしょうか。
  3. あなたは状況が有利になるのを待って従おうとしていますか、それとも今置かれている場所で、神の主権に信頼していますか。
  4. あなたの霊的な目標は、征服することですか、それとも堅く立ち続けることですか。それは今週の生活に具体的にどんな違いをもたらすでしょうか。
  5. 今年のクリスマス、あなたは誰にキリストの光を輝かせることができますか。家族の中で、身近な人たちの中で、これから出会う人たちの中で。

引用聖句

  • エペソ 6:13-17 ― 神のすべての武具を取りなさい
  • マタイ 2:13 ― 立って、幼子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい
  • マタイ 4:4 ― 人はパンだけで生きるのではない
  • マタイ 4:7 ― あなたの神である主を試みてはならない
  • マタイ 4:10 ― あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ
  • マタイ 16:23 ― 下がれ、サタン
  • ルカ 22:42 ― 父よ、みこころがなされますように
  • ヨハネ 10:18 ― わたしから、それを取る者はいません。わたしが自分からそれを捨てるのです
  • マタイ 11:28 ― すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい
  • ヘブル 13:8 ― イエス・キリストは、きのうもきょうも、とこしえまでも同じです

よくある質問

クリスマスは平和の祝いなのに、なぜ「霊的な戦い」の話をするのですか。

聖書はクリスマスを美化していないからです。マタイの記事から早くも、王は震え、家族は逃げ、幼子たちが虐殺されます。最初のクリスマスは、戦いのない世界の到来を告げるものではありません。それは、神が壊れたこの世界に入って来られ、そこで勝利を収められることを告げるものなのです。クリスマスの平和とは戦いの不在ではなく、神が私たちのために戦ってくださるという確信のことです。

イエスについて「武器を手にしたまま死なれた」とはどういう意味ですか。

それは肉体的な戦いをしながら死んだという意味ではありません。イエスは御国の本当の武器 ― みことば、父への従順、愛、誠実さ ― を最後まで手放さずに死なれたのです。「完了した」は敗北の叫びではなく、決して手を離すことなく良い戦いを最後まで戦い抜いたという宣言です。

本当に神の武具を「すべて」取る必要があるのですか。それとも自分の賜物に合ったものだけを選んでよいのでしょうか。

パウロはエペソ6章ではっきりと「神のすべての武具を」取りなさいと語っています。教会の中の賜物はさまざまですが、霊的な武具は一人ひとりに対して完全なものとして与えられています。なぜなら、悪魔はあらゆる方法で攻撃してくるからです。無防備なまま残された一箇所があるだけで、あなたはよろめいてしまうかもしれません。選ぶのではなく、そのすべてを身に着けることが大切です。真理、正義、福音の熱心さ、信仰、救い、みことばです。

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