重荷を負い合い、十字架を誇る

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同じ「重荷」ということばに込められた二つの意味

あなたは教会とともに、ガラテヤ人への手紙の終わりの部分を読んだところです。パウロは自由について、御霊による歩みについて語ってきました。そして6章に入ると、彼はとても具体的な問いを投げかけます。その自由は、日々の生活の中でどのような姿をしているのか、と。パウロが与える答えは一見単純に見えますが、その中には知恵の学び全体が詰まっています。「互いの重荷を負い合いなさい」。

「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてキリストの律法を全うしなさい。もしある人が、事実は何ものでもないのに、自分を何ものかであるように思うなら、その人は自分を欺いているのである。おのおの自分の行いを吟味してみるがよい。そうすれば、誇があるとしても、それは、他人に対してではなく、自分だけについてであろう。人はめいめい、自分自身の重荷を負うべきである」(ガラテヤ6:2〜5)。

日本語訳では「重荷」ということばが二度出てきます。しかしギリシャ語では、これは二つの異なる単語です。2節で使われているのはバロス。押しつぶされそうな大きな重み、一人では持ち上げることのできない岩のかたまりです。5節で使われているのはフォルティオン。荷物、リュックサック、持ち運べるもの、歩く者それぞれが自分自身のために背負う荷のことです。

この区別を覚えておいてください。このメッセージ全体が、この違いの中に詰まっているからです。

1. 岩:あなたの手に負えない重荷

2節のバロスとは、人間がひとりでは押しつぶされてしまうような重みのことです。行き詰まった将来への不安。何年たっても洗い流せない罪悪感。治らない病気。粉々に砕けてしまった人間関係。愛する人を失った悲しみ。悲嘆、悲しみ、孤独。職場でのハラスメント。

あなたが弱いから、これらをひとりで背負えないのではありません。あなたは、そもそもひとりで背負うようにはつくられていないのです。神はあなたをそのようにはお造りになりませんでした。そしてまさにこの理由のために、パウロはこう書いています。「これらの重荷を互いに負い合いなさい。」それらは共同体に属するものです。何人かで一緒に持ち上げるものなのです。

2. リュックサック:あなたひとりで背負うもの

5節のフォルティオンは、性質が異なります。それは、すべての弟子が毎朝自分の肩に背負う荷物です。具体的には何でしょうか。

  • ほかの人がどうするか、何を言うかにかかわらず、自分自身の歩みに責任を持つこと。
  • 自分自身の内的な生活、祈り、みことば、神との日々の関係を自分で世話すること。
  • 自分に託された務め、役割、責任を最後までやり遂げること。

だれもあなたに代わってそれを背負うことはできません。この荷物は、あなたが神の御前で、神のために背負うものです。そしてそれは良いことであり、正しいことです。なぜなら、それがあなたを立たせてくれるからです。

3. 避けるべき二つの崖:律法主義と放縦主義

自由について語る手紙の中で、なぜパウロは突然「重荷」ということば、一見すると重々しく響くことばを持ち出すのでしょうか。それは、わたしたちに愛と責任を同時に生きることを教えたいからです。そうでなければ、クリスチャンの自由は、どちらかの側の崖から転落してしまいます。

一つ目の崖は律法主義です。それは、苦しんでいる兄弟を見て、しっかりとした論理を手に、こう言うときです。「自業自得だ。もっと正しくふるまうべきだった。」原則としては正しいかもしれません。しかし、あなたは愛を忘れています。手を差し伸べません。あなたは転落します。

二つ目の崖は放縦主義です。それは、自分の責任をほかの人の肩に押しつけ、「自由」を、自分に属するものを何も背負わなくなるための言い訳として使うときです。あなたは、自分もまた背負うべき荷物を持っていることを忘れています。あなたは反対側から転落します。

真の自由は、この二つの間を歩みます。イエスがすでにあなたの最も重い岩(罪)を十字架で背負われたという確信が、あなたを自由にし、自分に属するものを誠実に背負うことも、隣で自分の荷物をひとりでは背負えない兄弟を助けることも、両方できるようにしてくれるのです。

4. 「無力さを味わうこと、それが愛すること」

試練の中にある兄弟の家族を訪ねる前に、わたしは恐れを感じました。何も役に立つことができないのではないかという恐れ。彼らに残された貴重な時間を無駄にしてしまうのではないかという恐れ。何より、自分自身が無力で、失敗し、みっともないと感じるのではないかという恐れです。わたしはそれをある兄弟に話しました。彼はわたしが忘れられないひと言を言いました。「あなたの無力さを味わうこと、それこそが愛することだ。」

このことばは、わたしをはっと立ち止まらせました。わたしは、自分の良い意図(「何かしたい、役に立ちたい」)の下に、別のものが隠れていたことに気づきました。わたしは、自分の無力さを感じたくなかったのです。自分が小さいと感じたくなかったのです。自分が差し出せるものを両手に握りしめている限り、それはわたしを押しつぶす岩でした。両手を空にしてそこに立ち、差し出せるものが何もないと認める勇気を持ったその日、それは絶望の場所ではありませんでした。それは、イエスが臨在しておられる場所だったのです。

その瞬間、わたしはイエスがすでにその兄弟とその家族のそばにおられ、わたしよりずっと前から彼らの重荷を負っておられたことを見ました。そしてイエスはわたしに、いわばこう言っておられました。「その岩は、わたしが負う。あなたはただそこにいて、愛しなさい。」自分の無力さを味わうこと、それは自分の誇りを手放し、100パーセントをイエスにゆだねることです。その日、重いと思えたこと(愛すること)は、イエスとともに歩む喜びに変わりました。

5. 兄弟姉妹よ、自分に問うべき二つの問い

少し立ち止まってみてください。正直なところ。

  • あなたは今、ひとりで背負うようにはつくられていない岩を、ひとりで背負っていませんか。
  • あなたは今、本来自分に属する荷物を、だれかほかの人に背負わせようとしていませんか。

あなたが自分だけの力でこの巨大な石を動かそうとし、疲れ果て、自分の傷しか見えなくなっているとき、そこにこそ主はあなたをメタノイア(悔い改め)へと招いておられます。あなたの感情の上に目を上げ、十字架の上のイエスを見てください。イエスのもとへ行ってください。あなたの重荷はイエスのものとなり、平安があなたの心に戻ってきます。あなたが持ち上げられない岩は、兄弟とともに持ち上げるのです。そしてあなたがた二人の間には、だれよりも力強いイエスが立っておられます。

誇るべきものは十字架のほかに何もない

この同じ自由は、わたしたちをさらに先へと導きます。パウロは続けます。

「わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に誇とするものが、決してあってはならない。この十字架につけられて、世はわたしに対して死に、わたしも世に対して死んだのである」(ガラテヤ6:14)。

これがこの手紙の頂点です。パウロは、自分の知性、教育、忍耐、苦難など、千もの事柄を誇ることができたはずです。しかし彼が誇ろうとするのはただ一つ、十字架だけです。

1. 人間的な誇りとキリストにある誇り

自分に正直になってみてください。あなたがあるプロジェクトを成功させたとき、教会の行事で役に立ったとき、賛美をリードしたとき、聖書の学び会がうまくいったとき、そこにはひそかに湧き上がる高慢があります。逆に、だれかほかの人の賜物が輝いているのを見るとき、あなたは自分の価値が低いのだとささやく小さな声があります。

まさにこの場所で、この御言葉があなたを見つけに来ます。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)。本当に大切な誇りとは、あなた自身に死に、キリストがあなたのうちに生きてくださるときに生まれる誇りです。それは十字架であり、それ以外の何ものでもありません。

ですから、自分に問うてみてください。わたしの誇りは、目に見える、測定可能な、比較可能なわたしの行いから来ているのか、それとも、イエスの十字架から来ているのか。あなたの結果や失敗から目を離してください。十字架に目を留めてください。そこにこそ、持続する確信と誇りがあります。

2. 絶えず新しく造り変えられるいのち

「割礼を受けているか受けていないかは、問題ではなく、大事なのは、新しく造られることである。この法則に従って歩む者の上に、平安とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。今からのち、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから」(ガラテヤ6:15〜17)。

二つの単純な適用があります。

一つ目は、毎日新しく造り変えられることです。日々のメタノイアです。パウロは、「大切なのは、あのある日曜日にあなたがしたことだ、あの大きな回心の瞬間だ」とは言いません。彼は、大切なのはあなたが新しい創造物であることだと言います。一度だけではなく、絶えずです。キリストは、あなたの行いの中だけでなく、あなたの内面の中で、少しずつあなたの内にかたちづくられていくのです。

わたしにとってそれは、日々みことばに向き合う時間もそうですが、それ以上に、小グループでの定期的な集まり、兄弟に心を開く時間です。罪を告白すること、職場での葛藤を分かち合うこと、弱さを口にすることです。日々のこうした小さなくぼみの中でこそ、神はわたしを変えてくださいます。大きな出来事の中ではなく、小さな繰り返しの中でです。

3. イエスの焼き印は恥ではなく、しるし

二つ目の適用は、より厳しいものです。弟子として生きるということは、時に傷を受け入れることを意味します。苦しみ、痛み、恥、拒絶、迫害です。パウロはこれらを多く経験しました。そしてここに心を揺さぶられることがあります。彼はこれらの傷跡をイエスの焼き印と呼ぶのです。

長年ここにいて、何年も弟子として歩んでこられたあなたがたは、彼が何について語っているかを知っています。あなたがたは、体と心に、そうした焼き印の多くを負っています。長く歩めば歩むほど、それは積み重なっていきます。わたしは自分のものをあなたがたのものと比べるつもりはありません。わたしはまだそれほど多くを経験していません。しかし、あなたがたの苦しみのただ中にある粘り強い信仰は、わたしにとって、今日あなたがたの前に立つことができる理由の一つです。あなたがたの忍耐が、わたしをここに立たせてくれたのです。

わたしがあなたに伝えたいのはこうです。これらの焼き印は、決して恥のしるしではありません。それは、あなたがイエスに属していることのしるしです。あなたの人生における、イエスの愛の証印です。

4. 今週持ち運ぶべき、最後の問い

今日、あなたは神の前で何を誇りとしていますか。あなたの結果、あなたの努力、あなたの過去でしょうか。それとも十字架でしょうか。ここにいる多くの人が、すでに十字架を真に誇りとする信仰を持っています。そして、聖書を学び始めたばかりのあなたに知ってほしいのは、この同じ十字架が、あなたにとっても希望のメッセージを持っているということです。ほかの何ものも語れないとき、この十字架は、あなたが本当はだれに属しているのかを語ってくれます。

ともに、十字架を誇ることを選びましょう。そして、十字架の下で、ともに、日々新しく造り変えられることを選びましょう。神を愛し、兄弟姉妹を愛し、彼らとともに歩んでください。

覚えておきたいポイント

  • ガラテヤ6章には、「重荷」と訳される二つの異なるギリシャ語があります。ひとりでは重すぎる岩を意味するバロスと、それぞれが背負う個人的なリュックサックを意味するフォルティオンです。
  • あなたは大きな重みをひとりで背負うようにはつくられていません。キリストとともに、兄弟姉妹とともに歩むようにつくられています。
  • 同時に、あなたは自分自身の歩みに責任があります。あなたの内的な生活、あなたの役割、あなたの誠実さは、だれもあなたに代わって背負うことはできません。
  • 責任なしの愛、あるいは愛なしの責任を生きることは、律法主義か放縦主義のどちらかに転落することです。
  • 十字架だけを誇りとし、日々新しく造り変えられ、イエスのために受けた傷を恥としてではなく、あなたの人生に押されたイエスの証印として見ること。

個人適用

  • 今、あなたがひとりで背負っている「岩」で、本来は何人かで一緒に背負うべきものは何ですか。今週、だれにそれを話すことができますか。
  • あなたが本来自分に属しているのに、ほかの人の肩に置いてしまった「リュックサック」は何ですか。あなたの祈りの生活、放置してしまった責任、だれかに任せてしまった決断でしょうか。
  • あなたは気づかないうちに、律法主義の崖(「あの人はこうすべきだった」)、あるいは放縦主義の崖(「わたしは好きなようにする」)にいませんか。
  • 正直になったとき、今週のあなたの誇りはどこから来ていますか。あなたがしたことからでしょうか、それともキリストの十字架からでしょうか。
  • あなたの弟子としての歩みの中で、恥として経験している傷があり、イエスがそれをご自分の愛のしるしとして見るようあなたに教えたいと願っておられることはありませんか。

引用聖句

よくある質問

なぜパウロは「重荷」と訳される二つの異なるギリシャ語を使うのですか。

2節のバロスは、ひとりでは背負いきれないほど重いものを指します。死別、不安、罪悪感、病気、壊れた人間関係などです。それは共に背負うものです。5節のフォルティオンは個人的な荷物、それぞれの弟子が神の前で背負う責任(祈りの生活、約束、日々の歩み)を指します。この二つはともに存在します。隣人への愛と、個人的な責任です。

相手の代わりにつぶれてしまうことなく、どうすればだれかを助けられますか。

イエスがすでに最も重い重荷を十字架で負ってくださったことを思い出すことによってです。あなたは救い主になる必要はありません。あなたは隣を歩き、岩の一部を背負いますが、本質的なことを支えてくださるのはイエスです。自分の無力さを味わうことは失敗ではありません。それはまさに、あなたが愛することを学ぶ入り口です。

パウロが「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)と言うのは、何を意味していますか。

それは、キリストへの誠実さのゆえに受けた傷、拒絶、打撃、苦しみのことを指しています。パウロはそれを恥じるどころか、証印だと考えています。自分がイエスに属していることの目に見える証拠です。弟子の試練は失敗のしるしではなく、むしろその逆であることが多いのです。

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