詩篇23篇:羊飼いの陰にとどまる特権

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はじめに

ひと言つぶやくだけで、心の中の空気が変わる朝があります。「主は私の羊飼い、私には乏しいことがありません」。詩篇23篇にあるダビデのこの告白は、まるで心に塗る薬のように働きます。あなたを落ち着かせ、慰め、まっすぐに立たせてくれるのです。2026年3月1日のメッセージの中で、ジャン・カルヴァン・ナナ牧師はこの箇所に立ち止まり、とてもシンプルな真理を思い出させてくれます。良い羊飼いの陰にとどまることは、それ自体が特権なのです。

今回のメッセージは、ヨハネ10章や「わたしは」というイエスの言葉から始まるのではありません。もっと古く、もっと体験的なテキストから始まります。羊飼いから王になった人物が、現場で学んだ「守られるとはどういうことか」という歌です。二つの節で十分です。「主は私の羊飼い、私には乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。」この二節を真剣に受け止めるなら、そこにはあなたの魂が今日必要としているものすべてが、すでに含まれています。

メッセージの構成

1. 「主は私の羊飼い」:あなたを落ち着かせる告白

ダビデは嘆願から始めるのではなく、告白から始めます。神を羊飼いとし、自分を羊とする、一つのアイデンティティを打ち立てるのです。牧師は、なかなか眠れなかったある男性が、詩篇23篇をゆっくりと唱えているうちに、終わる前にいびきをかき始めたという話を語ります。「彼は落ち着いたのです。」御言葉が本当に受け取られたとき、それは動揺していた心の中に、内なる静けさを生み出します。

今日、多くのクリスチャンが、本来背負う必要のない重荷を背負っています。「主は私の羊飼い」という告白は、単なるスローガンではありません。それは明け渡しです。私の上に、私を気にかけてくださる方がいることを認め、すべてをひとりで抱え込むのをやめることです。

2. その羊飼いとは誰か:気にかけ、守り、保護し、養う方

羊飼いとは、ただの家畜の所有者ではありません。「気にかけ、守り、保護し、養う」存在です。羊飼いは自分の羊を「無条件の愛」で愛し、「羊のためにいのちを捨てる」用意さえしています。牧師は、私たちが神にとって「瞳の中の瞳」であることを思い出させてくれます。これは、神がどれほど私たちを大切にしておられるかを表す聖書の表現です。

ダビデはこれを経験から知っていました。少年時代、父の羊の群れを守っていたとき、ただそこにいるだけではありませんでした。「獅子が来て群れの羊を奪うと、彼はその獅子を追いかけて打ち、獅子の口から羊を救い出した。もし獅子が向かって来れば、彼はそのあごひげをつかんで打ち殺した」(サムエル記第一 17:34-35参照)。ダビデが自分の羊にしたこと、それを神はあなたにしてくださいます。あなたを獅子の口の中に置き去りにされることはないのです。

3. 羊飼いの陰:目には見えないけれど確かな守り

この詩篇が明らかにしているのは、私たちの目には見えない霊的な覆いです。「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を敷き、彼らを助け出す」(詩篇 34:7)。「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇 121:4)。

牧師は、アフリカのあるクリスチャンの若者たちのキャンプの周りに、呪術師たちがうろついていたという話を語ります。霊的な次元では、その呪術師たちは思いもよらないものを見てしまいました。キャンプの周囲が火の戦車で囲まれていたのです。一方、若者たちは何も知らずに、安らかに眠っていました。これこそが羊飼いの陰です。あなたが眠っている間、羊飼いはあなたのために戦っておられます。あなたの人生で勝ち取られた戦いの多くは、あなた自身、見たことすらないのです。

そして、谷を通るとき、砂浜の足跡の話を思い出してください。信じる者が振り返ると、最初は四つの足跡が見えます。しかし、いちばん苦しい時には、二つしか見えません。主の答えはシンプルです。「それはわたしの足跡だ。あなたが波の底にいたとき、わたしがあなたを背負っていたからだ。」

4. 羊の側の責任:罪を軽く見ない

羊飼いの陰にとどまることは、受け身のことではありません。それには姿勢が求められます。第一に、罪を軽く見ないことです。罪とは「裂け目」であり、そこから敵が入り込んできます。これは牧師が最初に言い出したことではなく、羊飼いと囲いそのものの論理です。柵の穴から出て行った羊は、たちまち危険にさらされます。

牧師は、以前のメッセージで別の兄弟がすでに語っていた聖さへの勧めを取り上げます。すべての言葉に意味があり、すべての意図に意味があります。イエスは山上の説教で、兄弟を「ばか者」「能なし」と呼ぶ者は、人を殺した者と同じように神の前で有罪であると教えられました(マタイ 5:22参照)。聖さとは日曜日だけまとう服ではなく、あなたを囲いの中にとどめてくれるものなのです。

5. 群れから離れない

第二の姿勢は、共に集まることです。「悪魔の戦略は、クリスチャンたちを引き離すことです。」悪魔はまず正面から攻撃してくるのではなく、あなたを群れから切り離そうとします。牧師は、群れの周りをうろつく獅子のイメージを用います。動物たちがまとまっている限り、獅子は近づく勇気を持ちません。しかし、一頭の羊が離れたとたん、獅子は襲いかかります。

ペテロははっきりとこう書いています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵、悪魔は、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めて歩き回っています」(ペテロの手紙第一 5:8)。そしてダビデもすでにこう歌っていました。「見よ、兄弟が一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう」(詩篇 133:1)。画面の前でひとり信仰を生きられると思い込みやすい時代にあっても、羊飼いの言葉は変わりません。群れの中に戻ってきなさい。あなたが守られるのは、そこなのです。

6. 導かれることを受け入れ、見知らぬ者について行かない

第三の姿勢は、導かれることを受け入れることです。牧師はユーモアを交えてこう問いかけます。「羊が羊飼いに『今朝はどこへ行くか、私が知っています』と言ったのを聞いたことがありますか。」羊は羊飼いについて行きます。羊は自分を良い所へ導いてくれる声を見分け、見知らぬ者の声を拒みます。

導かれることを受け入れるとは、具体的には、まず神の国を求めることです。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ 6:33)。それはまた、エデンの園以来ずっと「神は本当にそう言われたのですか」とささやきかけてくる声を拒むことでもあります(創世記 3:1)。見知らぬ者が植えつける疑いこそ、囲いの外へ出る最初の一歩なのです。

7. 「私には乏しいことがありません」:不安を手放す

最後に、羊飼いの陰は不安を手放すよう招いています。イエスはこう言われました。「自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと心配したり…空の鳥をよく見なさい。野のゆりがどうして育つのか、考えてみなさい。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(マタイ 6:25-30)。

ダビデも、白髪になってからこう証ししています。「私は、若かった時にも、年老いた今も、正しい人が見捨てられ、その子孫が食べ物を乞い求めるのを見たことがない」(詩篇 37:25)。緑の牧場と憩いの水は、ロマンチックな飾りではありません。詩篇 1:3にある、水路のそばに植えられた木のように、満たされた魂への約束なのです。あなたは、足りないものを追いかけて走り回る必要はありません。ただ、羊飼いの手の届くところにとどまればいいのです。

覚えておきたいポイント

  • 「主は私の羊飼い」という告白は、何かが解決する前から、あなたを落ち着かせます。 ゆっくりと口にして、あなたの心に働かせてください。
  • あなたの羊飼いは、あなたの見えないところで戦っておられます。 火の戦車、あなたの周りに陣を敷く御使い、あなたが眠っている間に勝ち取られる戦い。あなたの安全は、あなた自身の責任ではありません。
  • 羊飼いの陰にとどまることには代価があります。 罪を軽く見ないこと、群れから離れないこと、見知らぬ者について行かないこと、導かれることを受け入れることです。
  • 敵の戦略は孤立させることです。 教会に戻り、兄弟姉妹と共にとどまってください。あなたが守られるのは、そこなのです。
  • 「私には乏しいことがありません」は魔法ではありません。 それは、不安をやめ、羊飼いに従う魂が結ぶ実です。

個人的な適用

  1. 今、あなたが抱えている不安のうち、詩篇23篇をゆっくり唱えることで和らげられるものは何でしょうか。
  2. あなたが軽く見ている罪、あなたの人生の柵に裂け目を作っている罪はありませんか。今日、何を告白したいと思いますか。
  3. 群れとの関係はどうですか。教会や兄弟姉妹から離れつつありますか、それともしっかりとつながっていますか。
  4. 今、あなたが聞いている「見知らぬ者の声」は何ですか。それはあなたを羊飼いの導きから引き離そうとしていませんか。
  5. 今週、どんな具体的なことについて、「主よ、私をあなたに導いていただきます」と言い直したいですか。

メッセージの中で引用された聖句

よくある質問

詩篇23篇は、深く考えずに唱えるだけでも、なぜこれほど心を落ち着かせるのでしょうか。

それは方法論ではなく、アイデンティティの告白だからです。「主は私の羊飼い」と言うとき、あなたはひとりで抱えようとしていたものを、本来の場所に戻しているのです。自分の上に、自分を知り、気にかけてくださる方がいることを認めているのです。この安らぎは、公式から来るのではなく、重荷が明け渡されることから来ます。

今日、「羊飼いの陰にとどまる」とは具体的にどういうことですか。

それは三つのとても実践的なことを意味します。聖さを保つこと(罪によって裂け目を作らないこと)、地域教会とのつながりを保つこと(群れから離れないこと)、そしてあなたを道から引き離そうとする声を拒むこと(神の言葉に疑いをささやく「見知らぬ者たち」)です。それはまた、すべてをひとりで背負うのをやめ、羊飼いに導いていただくことでもあります。

羊飼いは本当に守ってくださるはずなのに、なぜ私はまだ苦しんでいるのですか。

詩篇23篇は、谷がないことを約束しているのではなく、谷の中での同伴を約束しています。「たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです。」苦しみは、羊飼いの不在を証明するものではありません。むしろ、あなたが通っているまさにその場所で、羊飼いがあなたを背負っていてくださったこと、砂浜の二つの足跡を発見することがよくあるのです。羊飼いの陰は谷を取り除くのではなく、その通過を確かなものにしてくれるのです。

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