はじめに
書類棚の色、コピー機の使い方、アルコールの瓶に見えたコーヒー用シロップの容器、賛美リーダーは礼拝中に靴を履くべきかどうか。大阪近郊の堺市にある浜寺聖書教会の近藤崇志牧師は、アメリカの教会で実際に起きたこうした対立の例からメッセージを始めます。思わず笑ってしまいそうになります。けれども、本当に笑い飛ばしてよいのでしょうか。
このメッセージは、教会を建築現場として見つめるシリーズ「『建築家』として生きる信仰者」の第7回です。ローマ人への手紙14章でパウロは、兄弟姉妹の違いを見たときに心に留めておくべき7つの真理を示しています。前の週に牧師が取り上げたのは、違いは存在するということ、そしてさばくのではなく受け入れるということの2つでした。今回はさらに3つを取り上げます。
出発点は単純です。違いそのものが問題なのではありません。聖書がはっきり定めていないことで、自分と同じように考えない兄弟にどう接するか、それが問題なのです。
メッセージの流れ
1. ささいなことにまで現れる違い
- 教会には、罪が原因で起こる対立があります。しかし、ほんの小さな違いから大きな問題が生まれることもあります。
- 私たちにも同じことがあります。家庭での時間の使い方、仕事に対する見方、子どもの育て方、教会での奉仕のしかた。だれにでも自分の考えや意見、好みがあります。
- それは自然なことです。育ちも経験も性格も違うからです。聖書が命じても禁じてもいないことについては、選び方が分かれて当然です。
- ローマでは、何でも食べる人もいれば、野菜だけを食べる人もいました。ある日を特別視する人もいれば、そうでない人もいました。さばく人もいれば、見下す人もいました。だからパウロはこの手紙を書いたのです。
2. あなたは兄弟の主人ではない
- 「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。そして、彼は立つのである。主は彼を立たせることができるからである」(ローマ人への手紙14章4節)。
- 「他人の」という言葉は、他の人に属するものを指します。ルカによる福音書16章12節を引きます。「また、もしあなたがたが他人のものについて忠実でなかったなら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。」自分のものではないものを、好きなように扱うことはできません。
- ここで「僕」と訳されているのは、最もよく使われるドゥーロスではなく、オイケテス(oiketes)という語です。家を意味するオイコスから生まれた言葉で、家に属する僕を指します。掃除をし、家族の世話をし、ときには子どもたちに教え、ときには財産を管理します。彼が責任を負うのは、その家の主人に対してだけです。
- あなたの兄弟は、あなたの所有物ではありません。主イエスの僕です。その奉仕が受け入れられるかどうかを決めるのは主人であり、主には彼を立たせる力があります。
- 牧師はたとえを挙げます。人の家を訪ねたとき、その家の子どもが自分とは違うやり方で皿洗いや洗濯物たたみをしていたとします。親は子どもに感謝しています。それでもあなたは子どもを叱るでしょうか。親ならこう言うでしょう。私たちは満足しています、私たちが教えたのです、あなたに何の関係があるのですか、と。
3. 罪をさばくことは別のこと
- 牧師は誤解に注意を促します。この箇所を使って、クリスチャン同士のさばきはすべて間違いで愛がないと言う人がいます。聖書はそのようには教えていません。
- ローマ人への手紙14章が扱っているのは罪ではなく、良心の問題です。これを食べてよいのか、この日を守るべきなのか。こうした点については、喜んで互いを受け入れます。
- 兄弟が御言葉のはっきりした教えに背いて行動しているとき、マタイによる福音書18章15節はこう言います。「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ひそかに責めなさい。」罪を犯したから行くのであり、やり方があなたと違うから行くのではありません。
- コリント人への第一の手紙5章11〜13節も同じ方向を示しています。罪が教会の中に居座ることを許さないのです。愛をもってそれを指摘し、悔い改めを促します。その兄弟が主の前に立つ姿を見たいと願うからです。
- そのときでさえ、主人として語るのではありません。僕には自分自身の権威がありません。あなたが携えていくのは、主の権威を帯びた御言葉です。
4. あなたは主のために生きている
- ローマ人への手紙14章6〜8節では、「主のために」という表現が3節の中に5回出てきます。ある日を重んじる人、食べる人、食べない人、生きる人、死ぬ人。すべてが主のために行われています。
- 肉を食べる人は、感謝しながら喜んで食べました。過去のためにためらいがあって肉を食べなかった人も、同じ感謝をもって野菜を食べました。どちらも相手より優れていたわけではありません。
- 本当の問いは、何をするかではなく、だれのためにするかです。行動する前に、自問することができます。これを主のために、喜びと感謝をもって、主の栄光のためにできるだろうか。心の奥の答えが「いいえ」なら、それはしないことです。
- この問いを見失うと、代わりにこう問うようになります。自分はどう思うか、好きか、自分にとって楽か。すると自分の好みが、他人をさばく物差しになります。「私はずっとこうしてきた」「なぜあなたは私と同じようにしないのか」。
- 牧師は、夫婦の関係、子育て、平日と休日の過ごし方、兄弟姉妹の交わり、賛美のスタイル、奉仕のしかたを見つめるよう招きます。自分とは違う行動でも、それが主のためであるなら、あなたはそれを喜べるでしょうか。
5. 福音に立ち返って自分中心から抜け出す
- どうすれば自分中心をやめ、それを長く続けられるのでしょうか。福音を思い出すことによってです。
- 「というのは、キリストが死んで、また生きかえられたのは、死んだ者と生きている者との主となるためである」(ローマ人への手紙14章9節)。イエスは、自分のために生きていた人を主のために生きる人に変えるために、死んでよみがえられました。
- 私たちは神に背き、自分の基準こそ絶対だと信じ込み、生まれながらに怒りを受けるべき者でした。イエスは十字架で代価を払い、その束縛から私たちを解放してくださいました。イエスがすべての人のために死なれたのは、「生きている者がもはや自分のためにではなく」生きるためです(コリント人への第二の手紙5章15節)。
- ガラテヤ人への手紙2章20節はパウロの証しです。「もはや、わたし自身が生きているのではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」新しくされたあなたの命は、もうあなた自身のものではありません。
- しかしイエスは、あなたがさばこうとしている兄弟のためにも命を献げ、彼を御自分のものとされました。十字架を見上げるなら、自分のやり方を押しつけたいとは思わなくなります。あなたがたは、同じ目標に向かって歩む旅の仲間です。
6. あなたはまことの裁き主の前に立つ
- 「それだのに、なぜあなたは兄弟をさばくのか。また、なぜあなたは兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである」(ローマ人への手紙14章10節)。パウロは両方の側に語りかけています。さばいていた弱い人と、見下していた強い人です。
- 私たちは他人の生き方をたやすく見てとり、視線は外へ向かいます。パウロはその視線を私たち自身に戻します。「このようにわたしたちは、それぞれ、神に対して自分のことを申し開きすることになる」(12節)。主人から任されたものについて報告する僕のようにです。
- このさばきの座は、救いを決めるものではありません。「こうして、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることはない」(ローマ人への手紙8章1節)。それは、各自がその歩みに応じて報いを受ける場です(コリント人への第二の手紙5章10節)。
- 牧師は情景を思い描くよう促します。一人の兄弟がキリストの前で申し開きをしようとしていて、そこへあなたが割って入ります。「主よ、ちょっと失礼します。私はこの人をよく知っています。この人のやり方はどうしても受け入れられません。主よ、今回だけは脇へ退いて、私にさばかせてください。」だれもそんなことをする勇気はないでしょう。けれども、自分の基準でさばくとき、あなたはまさにそれをしているのです。
- 牧師は、ある信仰者の言葉を紹介します。宗教的な熱心さを他人の批判に費やしてはいけない。他人を批判することに最も熱心な人は、いつも自分自身を吟味することに最も無関心である、というものです。主はあなたに、兄弟がなぜそう選んだのかとはお尋ねになりません。「わたしが与えた恵みと自由をもって、あなたはどのようにわたしに忠実に仕え、兄弟姉妹をどのように愛したか」とお尋ねになります。
7. キリストが受け入れてくださったように受け入れ合う
- 自分と同じように考える人を愛するのはたやすいことです。世の人もそうします。あらゆる点で自分と違う人を愛するのは別のことで、私たちはときにその人を避けてしまいます。
- 神の聖さに比べれば、私たちはあらゆる点で違っていました。それでも神は私たちを受け入れてくださいました。
- 「だから、キリストがわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである」(ローマ人への手紙15章7節)。受け入れやすい人だけを受け入れるのなら、私たちは福音を知らないことになります。
- 私たちは主の栄光のために生きています。互いに受け入れ合うことは、主が私たちにしてくださったことを人々に示すことです。牧師は、一人ひとりだけでなく、教会全体がそのような群れになるよう呼びかけています。
心に留めたいこと
- 聖書がはっきり定めていないことについて、クリスチャンの間に違いがあるのは自然なことです。問題は、兄弟にどう接するかです。
- あなたの兄弟は主の僕であって、あなたの僕ではありません。その奉仕が受け入れられるかどうかを決めるのは、主人です。
- ローマ人への手紙14章は、罪を犯している兄弟を戒めることを禁じていません。しかし、自分の好みで兄弟をさばくことは禁じています。
- 決め手となる問いは「だれのために」です。することも、しないことも、すべて感謝をもって主のためにしなさい。
- あなたは自分の歩みについて、まことの裁き主の前で申し開きをします。キリストがあなたを受け入れてくださったように、兄弟を受け入れなさい。
個人への適用
- 今、どんな二次的な問題で、兄弟姉妹をさばいたり見下したりしがちですか。
- 「私はずっとこうしてきた」と言うとき、それは神の前での確信でしょうか。それとも他人に押しつけている好みでしょうか。
- 今週あなたがしていることを、喜びと感謝をもって主のためにできますか。
- だれかに、へりくだって愛をもって話すべき明らかな罪が、放置されたままになっていませんか。
- もし主が今日、兄弟姉妹をどのように愛したかとお尋ねになったら、何とお答えしますか。
引用された聖句
- ローマ人への手紙14章1〜19節
- ルカの福音書16章12節
- マタイの福音書18章15節
- コリント人への手紙第一5章11〜13節
- コリント人への手紙第二5章15節
- ガラテヤ人への手紙2章20節
- コリント人への手紙第二5章10節
- ローマ人への手紙8章1節
- ローマ人への手紙15章7節
よくある質問
ローマ人への手紙14章4節の「他人の僕」とは何ですか。
「他人の」と訳された言葉は、ルカによる福音書16章12節と同じく、他の人に属するものを指します。「僕」はドゥーロスではなくオイケテスで、家に属し、その家の主人にだけ責任を負う僕のことです。近藤崇志牧師によれば、あなたの兄弟は主イエスのものです。その奉仕が受け入れられるかどうかを言うのは、あなたではなく主です。
ローマ人への手紙14章は、罪を犯している兄弟を戒めることを禁じていますか。
いいえ。ローマ人への手紙14章が扱うのは、肉を食べることや特定の日を守ることなど、聖書がはっきり定めていない良心の問題です。兄弟が御言葉のはっきりした教えに背いて罪を犯しているときは、マタイによる福音書18章15節とコリント人への第一の手紙5章11〜13節が、愛とへりくだりをもって、自分の権威ではなく御言葉を携えて戒めに行くよう求めています。
ローマ人への手紙14章10節の神のさばきの座は、信者の救いを脅かしますか。
いいえ。キリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません(ローマ人への手紙8章1節)。パウロが語るさばきの座は、信者が自分の歩みについて申し開きをし、その忠実さに応じて報いを受ける場です(コリント人への第二の手紙5章10節)。主は、兄弟がなぜそう選んだのかではなく、あなたが受けた恵みによってどのように仕え、愛したかをお尋ねになります。