イエス様はただ「塩になりなさい、光になりなさい」と言われただけではありません。マタイ3章、そしてマタイ5章で、その源を開いてくださっています。ヨルダン川で大祭司としての油注ぎを受け、山の上では、その油注ぎが今、あなたの上にも流れていると宣言されます。あなたの塩気と光は、あなたの努力から来るのではなく、イエス様から来るのです。
はじめに:それを成し遂げる力とともに与えられる命令
マタイ5章20節で、イエス様は息をのむようなこの言葉を語られます。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天の御国に入れません」。そしてその少し前には、「あなたがたは地の塩です……あなたがたは世界の光です」(マタイ5:13-16)とあります。ハードルはとても高く見えます。読んでいて、こう思うかもしれません。「主よ、私を憐れんでください。この一歩はとても高いのですから」と。
けれども、良い知らせがここにあります。イエス様は「塩と光になりなさい」と命じただけではありませんでした。そうなるための身分と力を、すでに備えてくださったのです。あなたが塩や光であることは、あなたが作り出す業績ではありません。それはあなたのアイデンティティであり、山上の垂訓によって形づくられ、定義された、変えられた人格なのです。そしてこのアイデンティティは、イエス様がヨルダン川での洗礼の日に、あなたのために封印してくださったものです。
メッセージの流れ
1. イエス様の洗礼:祭司としての聖別(マタイ3:13-17)
この場面をもう一度見てみましょう。イエス様はガリラヤからヨルダン川に来て、ヨハネから洗礼を受けようとされます。ヨハネはためらいます。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のところに来られるのですか」。ヨハネは、目の前にいるのが誰なのか分かっていました。従兄弟であり、完全な神の御子です。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼でした。しかしイエス様には告白すべき罪がありません。では、なぜ水の中に入られたのでしょうか。
イエス様の答えは決定的です。「今は受けさせてください。このようにしてすべての正しいことを実行するのは、われわれにふさわしいのです」。どの正しさでしょうか。その時点で存在していた唯一の正しさ、つまり旧約聖書の正しさです。洗礼を求めることによって、イエス様はあなたを出エジプト記29章とレビ記8章に記された祭司の聖別の儀式へと導いておられます。祭司は水、油注ぎ、様々な儀式によって聖別されました。「洗礼」という言葉こそそこにはありませんが、その概念はそこにあります。ヘブル9章も、旧い契約の「洗礼」について明確に語っています。
ヨルダン川でのイエス様は、およそ30歳でした。ここで公に、私たちの大祭司としての公生涯に入られたのです。ある人は「彼は人類と一つになるために洗礼を受けた」と言うかもしれません。しかし聖書はそう語っていません。それはすでに、イエス様の誕生、受肉によって成し遂げられていたことです。ここでイエス様は、神の前で民を代表する大祭司としての務めを引き受けられたのです。
重要な点があります。イエス様はレビ族ではなく、ユダ族から生まれました。ですから本来、レビ的な祭司職を行うことはできないはずです。新約聖書はこの点を明らかにしてくれます。イエス様はメルキゼデクの位に等しい祭司であり、それは普遍的な祭司職です(ヘブル7章)。もしレビ的な儀式に限定されていたなら、その祭司職はイスラエルだけに限られていたでしょう。しかし福音は、世界中の選ばれた人々のもとに届かなければなりませんでした。パリサイ人が自分自身の栄光のために正しさを求めていたのに対し、イエス様はあなたの救いのために正しさを成し遂げてくださったのです。
2. イエス様、私たちの塩と光の源
メルキゼデクの位に等しい完全な大祭司であるゆえに、イエス様はあなたの塩と光の源です。それは単にあなたに教える誰かではありません。イエス様は完全な方です。決して塩気を失わない、純粋な塩です。闇が決して消すことのできなかった、汚れのない光です。
はっきりと言わなければなりません。闇はこれまで一度もイエス様に勝ったことがありません。一度もです。イエス様は光であり、勝利されました。十字架の上で、闇に対して、ただ一度限り勝利されたのです。
イエス様は地上で三つの職務を果たされます。預言者として、神の言葉を告げ、心を照らし、真理を明らかにされます。これはまさに山上の垂訓の中で、パリサイ人にまさる正しさを説き明かしながら行っておられることです。祭司として、とりなしをし、ご自身の民を守られます。王として、完全な正しさをもってすべてを治められます。
イエス様が「あなたがたは地の塩です……あなたがたは世界の光です」と宣言されるとき、「そうなろうと努力しなさい」とは言っておられません。「あなたがたはすでにそうなのです」と言っておられます。ただし、そこには大切な含みがあります。「わたしにつながっていなさい」ということです。聖書はこのことを至るところで確認しています。イエス様が幹であり、あなたは枝です。イエス様なしには、あなたは何も実らせることができません(ヨハネ15章)。あなたが自覚しているとおり、聖霊の臨在なしには、あなたの人生を照らし、助け、変えるための何ものも生み出すことはできません。
3. 聖霊の役割:頭からからだへと流れる油注ぎ
もう一度、イエス様の洗礼に戻りましょう。「天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」とあります。これは単なる通過の印ではありません。聖霊はイエス様の上にとどまるためにやって来られたのです。イザヤが預言していたとおり、メシアは公にその使命のために油注がれます。
旧約聖書の二つの箇所が、この油注ぎの意味を理解する助けとなります。
詩篇133篇は、レビ的な祭司であるアロンの頭に注がれた油について語っています。その油はひげ全体に、さらに衣の裾にまで流れ下ります。人々を一つに結び、広がっていく祝福です。
イザヤ書61章は、メシアが使命のために受ける油注ぎを告げています。良い知らせを告げ、癒やし、捕らわれ人を自由にするための油注ぎです。この二つの箇所は合わせて、油注ぎが頭の上に下り、からだ全体を通して働くことを教えてくれます。
これは祭司の油注ぎの完璧なイメージです。油は頭にとどまるのではなく、頭からからだ全体へと流れ落ちていきます。同じように、神の御霊はあなたを神と結び、その臨在の中であなたを力で満たしてくださいます。
ヨルダン川では、二つの側面が一つになります。目に見える公の聖別を示す水と、務めのための神の力を伝える御霊です。そして父なる神の声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」。三位一体の三つの位格が同時に一つの箇所に現れることはめったにありませんが、まさにここでそれが起こっています。
なぜイエス様はこの油注ぎを受けようとされたのでしょうか。それは、真の人間性のうちで、ご自身も聖霊に依り頼む者となろうとされたからです。そしてイエス様は、あなたの模範です。イエス様を満たしてその使命に遣わした同じ御霊が、今日、あなたをあなたの使命のために満たしてくださいます。あなたが光であることができるのは、あなたの努力や願いから来るのではなく、あなたの人生における聖霊の油注ぎから来るのです。その油注ぎが頭であるキリストの上に下ったように、今、それはキリストのからだ全体、つまりあなたの中にも流れているのです。
その証拠は何でしょうか。ペンテコステの日です。十字架の上で、イエス様は「完了した」と言われました。そして聖霊が再び下られますが、今度は鳩としてではなく、炎のような分かれた舌として下られます。民は焼き尽くされることはありませんでした。なぜ火なのでしょうか。それは神の聖さをあなたに思い起こさせ、この聖霊が民を焼き尽くすためではなく、民のうちに宿るために来られたことを告げるためです。パウロはこう言っています。「バプテスマは一つ」(エペソ4:5)。真のバプテスマとは聖霊のバプテスマであり、水はそのしるしにすぎません。
4. あなたのアイデンティティ:王である祭司(1ペテロ2:9)
あなたの洗礼(そしてあなたの子どもたちの洗礼)は、あなたが神の民の一員であることを公に示すものです。それは目に見えない現実を表す、目に見えるしるしです。いわば衣に印をつけるようなものです。「これが神の民、これが世の光である」と。
私たち一人ひとりに召しがあります。イエス様が祭司としての務めのために油注がれたように、あなたも御霊によって、王である祭司の内に組み入れられています。ペテロは力強くこう言っています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを暗闇からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(1ペテロ2:9)。
あなたは自分の努力によってではなく、キリストのみわざによって、選び分かたれ、聖別されたのです。そして神は、あなたがこの聖別された者としてのアイデンティティを存分に生き、毎回の礼拝で私たちが試みているように、神の栄誉をほめたたえるために、あなたを教会の中に置かれました。
5. 山上の垂訓:罪悪感を与えるリストではなく、使い方の手引き
これによって、あなたが山上の垂訓や八福の教えを読む姿勢はすっかり変わります。それはあなたに罪悪感を抱かせるためのリストではありません。それはあなたの新しい性質の使い方の手引きなのです。
パリサイ人はこう言います。「神よ、私が行っていることをご覧ください」。弟子はこう言います。「私はキリストにあって聖別された者です。だから、彼のように生きるのです」。これは同じ論理ではありません。一方は自分をふさわしい者にするために積み上げます。もう一方はアイデンティティを受け取り、それを展開していくのです。
パリサイ人にまさる正しさとは、イエス様がヨルダン川で成し遂げ、今日あなたに与えてくださっている正しさです。それはあなたの正しさではなく、無償で与えられるキリストの正しさなのです。
6. あなたの子どもたちも契約の恵みにあずかっている
教会生活にとって大切な、最後の点があります。レビ族はあらかじめ祭司となるように定められていました。レビ人の家庭に生まれた子どもは皆、その誕生そのものによって、この召しに入っていったのです。新しい契約においても、同じ原則が新しい形で当てはまります。クリスチャンの家庭に生まれたあなたの子どもたちは、契約の恵みにあずかっているのです。彼らは私たち一人ひとりと同じように、イエス・キリストの祭司、王、預言者として成長していきます。私たちはとりなしをし、御名によって治め、御言葉を告げ知らせるのです。
誰もが「決めるのは私だ、価値があるのは私だ」と主張するこの世界では、パリサイ的な論理、つまり「私、私、私」に戻ってしまうのは簡単なことです。けれども、弟子の答えは短いものです。キリスト。キリストにある私のアイデンティティ。キリストが私と私の家族のためにすべてを成し遂げてくださった。
光には電源が必要です
電源につながっていないランプを見たことがありますか。それは輝きません。光が輝くためには、電源が必要です。キリストがあなたの源です。聖霊は、あなたの人生の中で流れる電流です。あなた自身が光を作り出す必要はありません。あなたはただ主を見つめ、時には気づかないうちに、暗闇の中で輝いていることに驚かされるのです。世が最初に見るのは、あなたの良い行いではありません。それは、あなたを通して現れるキリストご自身なのです。
個人適用
- あなたはどれほど、パリサイ的な誘惑、つまりキリストが成し遂げてくださったことではなく、自分が行っていることによって自分を正しいとしようとする誘惑にとらわれていますか。今週、人生のどの部分(仕事、家庭、祈り)で、まだ主の油注ぎではなく自分の努力に頼っていますか。
- あなたは今、山上の垂訓をどのように読み直していますか。押しつぶすようなリストとしてでしょうか、それとも新しい性質の使い方の手引きとしてでしょうか。今週、八福の教えの一つを取り上げ、御霊がそれをあなたのうちに展開してくださるよう求めてみてください。
- あなたがクリスチャンの親、または祖父母であるなら、子どもたち(孫たち)に契約の中での彼らの立場について、どのように語っていますか。彼らは、キリストにあって祭司、王、預言者であることを知るよう、励まされていますか。
- あなたの洗礼(目に見えない現実を表す、目に見えるしるし)は、あなたにとって生きた記憶でしょうか、それとも忘れられた出来事でしょうか。この現実に立ち返ってください。あなたは神に属する者としてしるしをつけられているのです。
- 「塩気が足りない、光が足りない」という重さを感じるとき、あなたはどうしますか。イエス様の答えは「もっとがんばりなさい」ではなく、「わたしにつながっていなさい」です。今週、具体的にどのように主につながり続けますか。
まとめのポイント
- イエス様は命令を与え、力を備えてくださいます。「塩と光になりなさい」と言うだけでなく、そうなるための身分と力をも備えてくださいました。
- イエス様の洗礼は祭司としての聖別です。イエス様は悔い改めておられるのではなく、メルキゼデクの位に等しい大祭司としての務めに公に入っておられます。
- 聖霊の油注ぎは頭からからだへと流れます。ヨルダン川でキリストの上に下ったこの油注ぎは、今、キリストにあるあなたの上にも流れています。
- あなたが塩と光であるのは、業績によってではなく、アイデンティティによってです。イエス様は「あなたがたはそうなろうとしなさい」ではなく「あなたがたはそうです」と言われます。
- 山上の垂訓は使い方の手引きです。あなたを押しつぶすためのリストではなく、キリストにあるあなたの新しい性質を描いたものです。
- あなたは祭司、王、預言者です。1ペテロ2:9はあなたをこう定義しています。あなたの努力によってではなく、キリストのみわざによって選び分かたれた、王である祭司です。
引用された聖句
- マタイ 3:13-17 · ヨルダン川でのイエス様の洗礼
- マタイ 5:13-20 · 塩、光、そしてパリサイ人にまさる正しさ
- 出エジプト記 29章 と レビ記 8章 · 祭司の聖別の儀式
- ヘブル 9章 · 旧い契約の洗礼
- 詩篇 133篇 · 頭からからだ全体に流れ下る油
- イザヤ書 61章 · 告げ知らせ、自由を与えるためのメシアの油注ぎ
- 1ペテロ 2:9 · 王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民
よくある質問
罪のないイエス様が、なぜバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのですか。
悔い改めのためではありません(告白すべき罪はありませんでした)。また、単に人類と一つになるためでもありません(それはすでに受肉によって成し遂げられていました)。イエス様が洗礼を受けられたのは、出エジプト記29章とレビ記8章に記された聖別の儀式の論理に従い、公に大祭司として聖別されるためです。ヨハネへの答えは明確です。「このようにしてすべての正しいことを実行するのは、われわれにふさわしいのです」。
「メルキゼデクの位に等しい祭司」とはどういう意味ですか。
イエス様はレビ族ではなくユダ族から生まれたため、イスラエルに限定されたレビ的な祭司職を行うことはできませんでした。メルキゼデクは旧約聖書における普遍的な祭司です。この位に等しい祭司であるイエス様は、完全で永遠、そして普遍的な祭司職を行われ、世界中の選ばれた人々がそこに近づくことができます。
私が「すでに」塩と光であるなら、なぜいつもそう感じられないのでしょうか。
それは時々、キリストにあるあなたのアイデンティティと、今この瞬間のあなたの業績とを混同してしまうからです。イエス様は「そうなろうと努力しなさい」ではなく「あなたがたはそうです」と言われます。ただし、そこには「わたしにつながっていなさい」という言葉が加えられています。あなたの光には源(キリスト)と電流(聖霊)があります。塩気を失ったように感じるとき、自分の努力に意識を向けるのではなく、源に立ち返り、御霊が再び頭からからだ全体へと流れるままにしてください。
Église Réformée Évangélique de Marseille Sudの説教を見逃さない
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