舟が揺れるとき、イエスは水の上を歩いてあなたのもとへ来られる

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はじめに

今週の日曜日、エリム教会ではキャシー牧師が、マルコの福音書を通して「イエスを見つめる」シリーズを続けます。まず彼女が思い起こさせてくれるのは、マルコという福音書記者は、まるで手がかりを残す刑事のような書き方をしているということです。ヒントや暗示を積み重ねながら、あなたに「イエスとは誰なのか」を少しずつ気づかせていくのです。マルコ6章45節から52節の奇跡、イエスが水の上を歩く場面は、まず何よりも力の誇示ではありません(派手なアクション映画のような演出ではないのです)。これは啓示です。イエスはご自分を神として現され、あなたの混乱の只中に、ただそのご臨在によって近づいてこられます。そしてその直前のパンの奇跡では、すでに主の晩餐と神の国の宴を先取りしておられます。今朝、あなたはこう気づかされるでしょう。イエスは、ご自分自身であなたを養いたいと願っておられるのです。

メッセージの流れ

1. なぜイエスを見つめるのか

  • このシリーズが「イエスを見つめる」と名付けられているのには、シンプルな理由があります。誰かを知らなければ、その人を愛することはできません。イエスが誰であるかを求めることは、主を愛し、主に自分を合わせていくことを学ぶことなのです。
  • マルコは手がかりを積み重ねるやり方で語ります。最初から結論を示すのではなく、場面を一つずつ進めながら、あなた自身にピースをつなぎ合わせさせるのです。注意深く読む人のための福音書と言えます。
  • 今週の根本的な問いは、「イエスとは誰か」です。偉大な預言者でしょうか。道徳的な教師でしょうか。哲学者でしょうか。それとも、栄光に満ちた、まことの神なのでしょうか。あなたの答えによって、すべてが変わってきます。

2. マルコ6章45〜52節:その場面

  • パンの奇跡の後、イエスは弟子たちを先に舟に乗せ、ベツサイダへと向かわせます。群衆を解散させると、ご自分は祈るために山へ登られました。
  • 夜が更けていきます。舟は湖の真ん中にありました。イエスはひとり、陸に残っておられました。逆風のために漕ぎ悩む弟子たちの姿を、主は見ておられました。
  • 夜が明けようとする頃(午前3時から6時ごろの第四の見張りの時)、イエスは湖の水の上を歩いて弟子たちのところへ向かわれます。そしてここに大切な一句があります。「そばを通り過ぎようとされた」のです。
  • 弟子たちは幽霊だと思い、叫び声をあげます。イエスは彼らに語りかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」主が舟に乗り込まれると風はやみ、弟子たちは非常に驚きました。パンのことについて悟らず、その心が鈍くなっていたからです。

3. 「そばを通り過ぎようとされた」:神ご自身のしるし

  • この「通り過ぎる」という言葉は、何気ない言葉ではありません。旧約聖書では、神ご自身が姿を現される決定的な場面で用いられる言葉です。偶然に神が通りかかるという話ではなく、特別な顕現を意味しているのです。
  • ヨブ記9章8〜11節。「主はただひとり天を張り広げ、海の高波の上を歩まれる方。……主は大熊座やオリオン座、すばる、南の星座を造られた方。……たとえ主が私のかたわらを通られても、私にはお見えにならない。過ぎて行かれても、私は気づかない。」海の上を歩くというのは、神おひとりに許された行為です。そしてこの「通る」という動詞こそ、神の顕現を語る言葉です。
  • 出エジプト記33章21〜23節。モーセは神の栄光を見せてほしいと願います。主はこう答えられます。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからだ。……見よ、わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたはその岩の上に立ちなさい。わたしの栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたをおおおう。それから、わたしの手を除く。あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見えない。」ここでもまた、「わたしの栄光が通り過ぎる」という同じ動詞が使われています。
  • マルコは決して何気なく書いているのではありません。イエスが弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」と記すとき、旧約聖書へと目配せしているのです。これは神顕現、テオファニーです。イエスはご自分を神として現しておられるのです。

4. 「わたしだ。恐れることはない」

  • イエスは単に「イエスだ」とは言われませんでした。「わたしだ」と言われたのです。ギリシア語のこの表現は、燃える柴の中でモーセに神が語られた「わたしはある」(出エジプト記3章)という名を思い起こさせます。
  • つまりこう言っておられるのです。「わたしは永遠であり、まことの神である」と。世の中の多くの人は、イエスを偉大な預言者、立派な教師、道徳的な人物、あるいは哲学者だと考えています。しかし、イエスとは誰なのでしょうか。イエスは神です。イエスは栄光に満ちた方です。まことの神です。
  • この事実こそ、しっかりと握りしめておくべきものです。あなたが主に期待すること、主に願い求めること、主に委ねることのすべてが、この一点によって変わってくるのです。

5. まことの神の憐れみ

  • 山の上から、イエスは弟子たちが漕ぎ悩む姿を見ておられました。彼らはマルコ4章の嵐のように命の危険にさらされていたわけではありません。ただ疲れ果てていたのです。五千人に一日中仕え、宣教の旅から戻ったばかりで、休む間もありませんでした。そこへ逆風が吹きつけていたのです。
  • イエスはこの細かな事情をも見ておられます。弟子たちの疲れを見ておられます。そして彼らのもとへ行くことを決められます。遠くから漕ぐ姿をただ眺めておられるのではなく、ご自分では制御できないものの上を歩いて、彼らのもとへ来られるのです。
  • 聖書において、海はしばしば人生の混乱を象徴します。あなたが今、混乱や試練のただ中にあるとしても、イエスはあなたのことを思っておられます。あなたの労苦を見、細かなことをすべて見、あなたの動揺を見ておられます。そして主はこう言われます。「わたしはあなたを助けに来た」と。引っ越しのことでも、食事のことでも、仕事のことでも、病のことでも、同僚や家族との難しい関係のことでも、主は見ておられるのです。

6. パンの奇跡:隠された宴

  • 話をマルコ6章30〜44節に戻しましょう。弟子たちは疲れ果てて戻ってきます。イエスは群衆をご覧になり、「羊飼いのいない羊のような有様」だったので、深く憐れまれます。主は長い間教え続けられます。夕方になりました。パン五つ、魚二匹、そして男だけで五千人。
  • 39〜40節。「みなを組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、区分けして座った。」この二節の中に、貴重な四つの手がかりがあります。
  • ギリシア語で「座らせる」と訳される動詞は、単に「座る」という意味ではありません。これはローマ式の宴会で、客人が横になって席に着く様子を表す言葉です。マルコが描いているのは、ただの配給作業ではなく、祝宴の食卓の光景なのです。
  • 「組」や「区分け」を百人、五十人と分けたのも、ただ列を整えるためだけではありません。出エジプト記18章21節で、民が千人隊、百人隊、五十人隊、十人隊に組織された場面を思い起こさせます。神の民は秩序ある民です。教会もまた同じです。
  • そして四つの動詞が、実に見覚えのある順序で並びます。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ感謝の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお与えになりました。取り(祝福し)、裂き、与える。お気づきでしょうか。これはまさに主の晩餐の場面です(マルコ14章22節)。
  • 山の上、パンの奇跡のただ中で、イエスはすでに主の晩餐と神の国の宴を先取りしておられたのです。この奇跡を通して、主はこう語りかけておられます。「わたしはいのちのパンである。わたしは自分のからだを、あなたがたを満たすために与える」と。

7. あなたが招かれているメシアの宴

  • 主の晩餐の席で、イエスはこう宣言されます。「わたしは、神の国で新しく飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを、もう決して飲むことはありません」(マルコ14章25節)。主はこれから来る宴を告げておられます。
  • この宴は、すでに用意されています。食卓はすでに整えられています。イエスはそこであなたを待っておられます。良い羊飼い(詩篇23篇)は、あなたを緑の牧場へ導き、憩いの水のほとりに伴い、たましいを生き返らせ、死の陰の谷を通らせ、敵の前で食卓を整えてくださいます。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私は生涯にわたって、主の家に住まいます。」
  • この宴を、あなたはすでに毎月第一日曜日の聖餐において味わっています。そしていつの日か、永遠の中で、イエスとともに、兄弟姉妹とともに、完全に成就するのです。

8. 「あなたがたの手で、彼らに食べる物をあげなさい」

  • パンの奇跡において、イエスがなさったもう一つのことは、弟子たちを巻き込むことでした。弟子たちが「群衆を解散させてください」と願い出たとき、主はこう答えられます。「あなたがたの手で、彼らに食べる物をあげなさい」(マルコ6章37節)。
  • 弟子たちは計算します。「二百デナリのパンでも足りません」と。二百日分の労賃、およそ日本円にして数百万円相当で、一人あたりにすればわずかな金額にしかならず、それでは食事にならないというのです。つまりこう言っているのです。「イエス様、それは無理な話です。私たちにはそんなものはありません。私たちは小さすぎます。」
  • それでもイエスは言われます。あなたがたの手で与えなさい、と。弟子たちがイエスの手からパンを受け取り、それを配り始めたとき、パンは増え広がっていきました。
  • ここに一つの原則があります。あなたはまずイエスの手から受け取り、それから分け与える。そして主とともにあるなら、いつも十分に足りるのです。あなたの増し加えは、あなたの分かち合いを通して起こります。

9. ハイジ・ベイカー:文字だけで終わらない奇跡

  • キャシー牧師は最後に一つの証しを語ります。アメリカ人宣教師ハイジ・ベイカーの証しです。彼女は1976年5月、16歳のときにイエスの幻を受け、戦争のただ中にあったモザンビークへと遣わされました。
  • 彼女は何度も、食べ物が奇跡的に増え広がる現場に立ち会ったと証しします。テロ組織アル・シャバブに襲われた貧しい村で、ひとりの少年がパンを二つずつ、並んだ人々の列すべてに配り続けても、まだパンが残っていたのです。彼女のモットーはこうです。「いつも十分に足りる、いつも十分に足りる。」ある日イエスがこう語られたと言います。「わたしは彼らのために死んだ。だから、いつも十分に足りるのだ。」この言葉とともに、彼女は千人を超える子どもたちを養ってきました。
  • ヨハネ14章12節です。「わたしを信じる者は、わたしが行っているわざを行い、またそれよりも大きなわざを行います。」神は今もなお、人を養い、増し加えてくださる神です。そして主は、それを分け与える人々を用いてくださるのです。

心に留めておきたいこと

  • 海の上を歩くのは、神おひとりだけがなさることです(ヨブ記9章8節)。イエスが水の上を歩かれるとき、主はご自分を神として現しておられます。
  • 「そばを通り過ぎようとされた」ことと「わたしだ」という言葉は、どちらも旧約聖書への目配せです。燃える柴の神顕現、モーセの前を通り過ぎる栄光。イエスとは、来られる神ご自身なのです。
  • イエスは、日々の小さな混乱の中にあるあなたの労苦を見ておられます。主は山の上にとどまることなく、あなたのもとへ来てくださいます。
  • パンの奇跡は、単なる物資供給の奇跡ではありません。取り、祝福し、裂き、与えるという四つの動詞を通して、イエスはすでに主の晩餐と神の国の宴を先取りしておられます。
  • 増し加えの原則はこうです。イエスの手から受け取り、それから分け与える。主とともにあるなら、いつも十分に足りるのです。

あなた自身への問いかけ

  • 今日のあなたにとって、イエスとはどなたでしょうか。偉大な預言者、哲学者、良い教師、それとも栄光に満ちたまことの神でしょうか。
  • 今週、あなたが渡ろうとしている海はどのようなものでしょうか。どこで逆風に逆らって漕ぎ続け、力尽きて前に進めずにいるでしょうか。
  • あなたは、イエスがあなたの舟に乗り込んでくださることを受け入れる準備ができているでしょうか。それとも、まだ幽霊だと思い込んで叫び続け、「わたしだ、恐れることはない」という主の声に気づけずにいるでしょうか。
  • 今、イエスはあなたをどんな「食卓」へと招いておられるでしょうか(聖餐、兄弟姉妹との交わり、主とともに過ごす時間など)。気を取られたり、疲れたりして見過ごしてはいないでしょうか。
  • あなたが自分の五つのパンと二匹の魚を数えて、「私にはそんなものはない」と結論づけているそのところで、イエスは「あなた自身の手で与えなさい」とあなたに求めておられないでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

「通り過ぎる」という言葉が、なぜイエスが神であることの証拠になるのですか

それは、マルコが勝手に作り出した言葉ではないからです。マルコは、旧約聖書ギリシア語訳の正確な語彙を受け継いでいます。同じ動詞が、モーセに対する神の栄光の顕現を描くのに使われ(出エジプト記33章22節「わたしの栄光が通り過ぎる」)、また、ヨブ記9章11節では、神が創造の中を「通り過ぎる」働きを描くのにも使われています。イエスが弟子たちを「通り過ぎようとされた」と記すとき、マルコは二つのイメージを重ね合わせています。ヨブ記において海の高波の上を歩まれる神と、出エジプト記においてモーセの前を通り過ぎられる神です。その結論ははっきりしています。イエスは、ご自分を現しに来られた神ご自身なのです。

今日、イエスが「私の舟に乗り込んでくださる」ことを、どうすれば気づけますか

福音書において、舟とはあなたの人生であり、しばしばあなたの教会でもあります。イエスがそこに乗り込まれるとき、二つのことが起こります。風がやみ、思いがけない平安が満ちてくるのです。具体的には、もう期待していなかった祈りが答えられたり、ちょうど必要なときに兄弟姉妹が遣わされたり、聖書のみことばがぴたりと当てはまったり、混乱していた決断が急にはっきりしてきたりします。あなたがこれらのしるしを引き起こすのではありません。ただ受け取るのです。ふさわしい態度とは、あの声に正された弟子たちの姿です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

パンの奇跡を、主の晩餐の先取りとして見ることで何が変わりますか

それは、あなたが聖餐に臨む姿勢を変えます。それは礼拝に付け加えられた儀式ではなく、山の上でのイエスの行為の直接の延長なのです。主はあなたを食卓に着かせ、パンを取り、それを祝福し、裂き、あなたに与えてくださいます。毎月第一日曜日、あなたは五千人の中で満たされたひとりなのです。そしてこの宴は、マルコ14章25節でイエスが約束されたメシアの宴の、いわば前味として、すでに開かれています。つまり、聖餐とは悲しい記念ではなく、あなたが味わう希望そのものなのです。

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