本物の輝きとは(テトス3章)

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はじめに

まるで台本を演じているような気分にならずに、友達にイエス様のことを話すにはどうしたらいいのでしょうか。いつ口を開くべきで、いつ黙っているべきなのか、そして福音も relationship(関係)も裏切らないためには、どんな姿勢を持てばよいのでしょうか。この問いを、ある教会の弟子たちのグループが最近じっくりと話し合いました。これは決して些細な問いではありません。あなたの証しの信頼性そのものに関わることだからです。

教会のある兄弟が、多くの人の心を揺さぶった出来事を分かち合ってくれました。彼はがんを患う親しい友人を見舞っていました。サッカーの話、人生の話、いろいろな話をしました。彼は心の底から、イエス様が友のために死んでくださったこと、神との平和が可能であること、死が終わりではないことを伝えたいと願っていました。しかし数日後、その友人はそのことを一度も聞くことなく亡くなってしまいました。彼はそのことをずっと悔やみ、正直にそう語ってくれました。

まさにこの文脈の中で、テトス3章1〜8節は新約聖書の小さな宝石のように輝きます。パウロはここで、神がこの世界の真ん中に、ご自分にふさわしい、本物の民、偽ることのない神の民を置かれたことを思い起こさせてくれます。生き方、話し方、他者との関わり方を通して、救い主の真理と救いを味わわせる民です。パウロがこの本物の輝きをどう描いているか、一緒に見ていきましょう。

この記事の構成

  1. いつでもあらゆる善い行いをする用意ができている(テトス3:1-2)
  2. 恵みの御業のあかしとして(テトス3:3-7)
  3. すべての人の益のために(テトス3:8)

1. いつでもあらゆる善い行いをする用意ができている(テトス3:1-2)

パウロは、クレタ島の教会に指導者を立てるべきテトスに手紙を書いています。1章で彼は、クレタ人の詩人エピメニデスが同胞についてこう語ったことを思い起こさせていました。「クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、なまけ者の大食漢だ」(テトス1:12)。荒々しく、扱いにくい文化です。それでも、この文化の中から出た クリスチャンたちは、そこにとどまり、その地を祝福するようにと召されているのです。

この問いは、あなたにも当てはまります。あなたの文化、たとえば今の時代の日本や、あなたの住む町、あなたの職場は、どんな反応を後押ししているでしょうか。多くの場合、集団としての最初の反応は、絶えず不平不満を言うことです。文句を言い、あら探しをし、少しでも異議を唱える機会に飛びつく。しかしパウロは、まったく違う生き方を提案しています。「彼らに、支配者たちや権威者たちに服従し、従い、あらゆる善い行いをする用意ができているように、思い出させなさい」(1節)。

これは政治的な諦めではありません。ただ言いなりになることでもありません。むしろ、神ご自身が権威を置かれたことを認め、イエス様の弟子としてのあなたの最初の反応が、不満ではなく善であることを認識することです。正当なときには異議を唱えてもかまいません。しかし、あなたの基本的な姿勢は、今ある権威のもとで、どうすれば善を行えるかを求めることなのです。

パウロは続けてこう述べています。「だれをもそしらず、争わず、寛容であり、すべての人に対して優しい態度を示しなさい」(2節)。ここで、すべてを変えてしまう小さな言葉に注目してください。「すべての」です。友達だけではありません。あなたに優しくしてくれる人だけでもありません。あなたを手こずらせる人も含めた、すべての人です。これは、分離主義への誘惑、小さなクリスチャンの囲いに閉じこもろうとする誘惑に対する、力強い反論です。神はあなたを、この世界の真ん中で生き、橋をかけ、平和をもたらし、言いにくいことを言わなければならないときでさえ、優しさに満ちているようにと招いておられます。

2. 恵みの御業のあかしとして(テトス3:3-7)

なぜそのように生きるのでしょうか。それは、そのような生き方の源が、あなたの宗教心や見せかけの良さではなく、神があなたに施してくださった恵みだからです。パウロは3節で、決定的な「なぜなら」を続けます。「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷い出て、さまざまな欲情や快楽の奴隷となり、悪意とねたみの中に生き、憎まれる者であり、また互いに憎み合う者でした」。

イエス様の弟子は、「アップグレードされた人間」でも、人に説教する小さな聖人でもありません。私たちはみな、同じ性質を持っています。何らかの形で、私たちはみな、神の敵であり、互いの敵でもありました。3節のこのリストは、自分を安心させるためのチェックリストではなく、あなたを謙遜へと連れ戻す鏡なのです。

そして、4節から7節で福音の「しかし」が訪れます。「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと、人に対する愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ただその憐れみのゆえに、私たちを救ってくださいました。それは、聖霊による新生と刷新の洗いによるものであり、神は私たちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を私たちに豊かに注いでくださいました。こうして私たちは、そのめぐみによって義と認められ、望みにしたがって永遠のいのちを受け継ぐ者となったのです」。

どうすれば3節の敵意から、7節の相続の恵みへと移ることができるのでしょうか。答えはひと言、「神」です。神こそが救い主です。これはパウロがこの手紙全体で何度も強調している称号です。「私たちの救い主なる神」(テトス1:3)、「私たちの救い主イエス・キリスト」(テトス1:4)、「私たちの大いなる神、救い主イエス・キリスト」(テトス2:13)。あなたは自分の努力によってクリスチャンになるのではありません。あらゆる宗教はその逆をあなたに売り込みます。福音は、イエス様があなたの代わりにご自分の努力をささげてくださった、と告げているのです。

それだけではありません。神はイエス様のうちにあなたを赦してくださっただけでなく、あなたを新しく生まれさせ、新しくし、善を望み悪を退けることができるようにしてくださる聖霊を与えてくださいます。神はご自分が命じることを、あなたに与えてくださるのです。

福音書の中の二つの姿が、この対照を照らし出しています。一方は、パリサイ人シモンの家に入り、イエス様の足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、香油を注いだ罪深い女です(ルカ7:36-50)。イエス様はシモンにこう言われます。「この女は多く愛したから、その多くの罪を赦されたのです。少ししか赦されない者は、少ししか愛さないのです」。もう一方は、取税人ザアカイです。彼はイエス様に出会い、恵みを理解し、だまし取った物を四倍にして返し、財産の半分を貧しい人々に与えることを決めます(ルカ19:1-10)。おそらく彼自身も貧しくなったことでしょう。しかし、彼が人々に行った善は、彼が神から赦していただいた負債の大きさをどれほど理解していたかを示しています。

原則はシンプルです。恵みを理解すればするほど、あなたはそれを行えるようになります。逆に、恵みへの理解が浅ければ浅いほど、行うことも難しくなります。もし他人に対して冷たく感じたり、忍耐が足りなかったり、赦すことに苦しんだりするなら、あなたはおそらく、もう一度その源に立ち返る必要があります。神があなたに与えてくださった恵みの福音を、改めて聞き直す必要があるのです。

3. すべての人の益のために(テトス3:8)

パウロは、心に響く一節で自分の論述を締めくくります。「このことばは真実です。私はあなたが、これらのことを確信をもって主張し、神を信じた者たちが善い行いに励むように気をつけてほしいのです。これらのことは良いことであり、人々の益になることです」。

「励む」と訳されているギリシア語は、「秀でる」という意味を持っています。あなたは、善い行いの二軍選手でいるように招かれているのではありません。週に二つ三つ、感じの良い行動をして自分を安心させるようにと招かれているのでもありません。あなたは、人生のあらゆる領域において、善に卓越することをたゆまず求めるようにと招かれているのです。

ここにこそ、クリスチャンの本物らしさの核心があります。あなたを動かすものは、もはや「見つかったら困る」という恐れでも、自分の状況を「悪化させないため」に見せかけを取り繕う心配でもありません。あなたを動かすものは、受けた恵みです。もう芝居を演じる必要はありません。もう罪悪感の中で沈み込む必要もありません。神がそれを十字架で負ってくださったのですから。もう人々を「親しい友人」「家族」「兄弟姉妹」「敵」と人為的に分類する必要もありません。神があなたの道に置かれるすべての人に対して、同じ愛、同じ恵み、同じ弟子としての本質が差し出されているのです。

神があなたに望んでおられるのは、あなたが神の愛を受けたのだから、その愛によって生き、その愛をあなたの周りに伝えることです。結果はあなた次第ではありません。もしかしたら、何も変わらないように見えるかもしれません。目に見える回心が起こらないかもしれません。それでも、あなたはそのために召されているのです。そして、それこそが「良いことであり、人々の益になること」なのです。

覚えておきたいポイント

  • あなたの世界に対する基本姿勢は、不平ではなく善です。神が立てられた権威のもとで、いつでもあらゆる善い行いをする用意ができているようにと、あなたは召されています。
  • 「すべての人」:優しさ、平和、和解は、あなたに似た人だけのものではありません。あなたを困らせる人々のためのものでもあります。
  • あなたは「アップグレードされたクリスチャン」ではありません。神の憐れみがあなたを救う前は、あなたも「愚かで、不従順で、迷い出た」者でした。この記憶が、あなたを高慢から守り、恵みを行う者にしてくれます。
  • あなたの源は、あなたの努力ではなく、あなたのためのイエス様の努力と、あなたを新しくする聖霊です。神はご自分が命じることを、あなたに与えてくださいます。
  • 本物らしさとは、善い行いに卓越することであり、芝居を演じたり見せかけを整えたりすることではありません。それが、良いことであり、人々の益になることです。

個人への適用

  • 今週、あなたの身近にいる「憎らしい」あるいは付き合いにくい人は誰ですか。その人に対して、どんな具体的な親切の行動をとることができますか。
  • 権威や公共の事柄に対する、あなたのデフォルトの反応は、不満ですか、それとも善を求めることですか。「いつでもあらゆる善い行いをする用意ができている」ことは、明日からのあなたにとって、どんな意味を持つでしょうか。
  • あなたは、恵みに立ち返るよりも、見つかることを恐れて見せかけを取り繕おうとしていないでしょうか。今日、そのことについて神に何を語りますか。
  • もし忍耐や優しさが足りないと感じるなら、神があなたに施してくださった恵みを、もう一度じっくり味わう時間を取ってください。それによって、周りの人々への見方に、どんな変化が起こるでしょうか。
  • 仕事、家族、近所において、今週「善い行いに卓越する」とは、具体的にどんな姿になるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

まるで台本を演じているような気分にならずに、友達にイエス様のことを話すにはどうしたらいいのですか。

テトス3章でのパウロの答えは、遠回しなものです。それは、恵みによって形作られた生き方から始まります。あなたが伝えたいことを、まず自分自身が生きているなら、役を演じることにはなりません。次に、はじめに紹介したエピソードのように、機会が過ぎ去る前に口を開く勇気も必要です。生き方における本物らしさと、語ることにおける勇気は、切り離せないものなのです。

「政府に服従する」というのは、あらゆる政治的決定を承認することなのですか。

いいえ、違います。パウロは、諦めや沈黙について語っているのではありません。神が立てられた権威を認め、それを敬うことで神ご自身を敬い、異議を唱える前に、まず公共の益をそこに求めることについて語っているのです。不当なことに対しては「ノー」と言ってかまいません。しかし、あなたの基本的な姿勢は、絶え間ない不平ではなく、善を求めることです。あなたが対抗すべき文化は、善の文化であり、引きこもりの文化ではありません。

なぜパウロは、キリストにある兄弟姉妹だけでなく、「すべての人」を強調しているのですか。

それは、彼らがまだ神の敵であったとき(3節)に、神の憐れみが人々に対して現れたから(4節)です。神は、あなたが愛すべき者だったから愛してくださったのではありません。あなたがそうでなかったときに、愛してくださったのです。ですから、あなたも、愛すべき人たちだけでなく、神があなたの周りに置かれるすべての人、敵を含めたすべての人を愛するようにと招かれています。そこにこそ、本物の輝きが現れるのです。

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