はじめに
一緒にいることは、なんて幸せなことでしょう。この日メッセージを語る説教者ゲタナさんは、日曜日に教会に来ることが大好きだと話し始めます。ベンチに座っていても、マイクの前に立っていても、あるいは息子が礼拝に出させてくれない日に赤ちゃんルームにいても、それでも神の家にいることは良いことなのです。
彼女はもうすぐ33歳になります。年を重ねるごとに、神の真実さを改めて実感すると言います。ゆっくりと、しかし深く、一年また一年と、聖霊が彼女の内で働いてくださっているのです。今日は、マット牧師とサラ牧師に代わって語りますが、以前語られた「足を洗う」という謙遜についてのメッセージ、イエス様の食事についての続きを分かち合いたいと考えています。
彼女が選んだタイトルはとても率直です。「とんでもない食事:イエス様、罪人たちと食卓を囲む」。イエス様は30代、30年間の無名の生活を終え、公の宣教を始めたばかりです。弟子たち、いわば「ドリームチーム」を選び始めます。3年後には天に帰られるので、その後も福音が続いていくように、育てておく必要があるのです。そんな中、イエス様はある新しい弟子を選びます。その名前は、周囲に衝撃を与えるものでした。マタイです。
メッセージの構成
1. 取税人マタイ、イエス様を食事に招く
- イエス様はちょうど、取税人マタイに「わたしについて来なさい」と声をかけたところでした。取税人とは、ローマのために税金を取り立てる仕事に就く人で、人々から公然と軽蔑され、名の知れた罪人たちと同列に見られていました。マタイは収税所を後にし、立ち上がってイエス様に従います。
- 彼が最初にしたことは、食事の席を設けることでした。同僚たちや友人たち、自分の知り合い全員を集めます。説教者はマタイの思いをこう想像します。「みんなで一緒に喜びたかった。それに何より、イエス様を紹介したかったんです。なぜ僕がこの方を知り、従うことを選んだのか伝えたかった。もしかしたら、あなたたちも同じようにできるかもしれないと思って。」
- イエス様はその招きに快く応じられたのでしょうか。もちろんです。ゲタナさんはこう言います。「イエス様は食卓を囲む機会を決して見逃しません。食卓が大好きなんです。」
- 当時の伝統において、食事は単なる実用的な行為ではありませんでした。それは選び取られた分かち合い、誠実な交わりです。誰かと食事をすることは、その人を大切にし、価値を認め、その人と和解し、愛することを意味しました。そしてイエス様は、大勢の罪人たち、それも公に知られた罪人たち、説教者の言葉を借りれば「かなりのレベルの罪人たち」と食事をされたのです。
2. もう一つのグループが憤慨する:宗教家たちの反発
- その食卓のそばで、もう一つのグループが様子をうかがっていました。彼らは招かれてはおらず、食事にも加わっていませんが、何が起きているか、そして特に誰がそこにいるかを見張るには十分な距離にいます。それがパリサイ人、律法に忠実なユダヤ人たちです。
- 彼らは、これはとんでもないことだと声を上げます。「どうしてこんな人たちと食卓を共にできるのか。犯罪者、泥棒、詐欺師じゃないか。しかも弟子たちまでいる。この先生は一体何者なのか。恥ずべきことだ。」彼らの口から見れば、まさに「とんでもない食事」でした。
- ここで説教者は、さりげない一言を差し込みます。「イエス様はすべてを聞いておられます。隠れているつもりでも、決して隠れることはできません。すべてを見通し、私たちの心の思いをご存じです。」食卓のまわりは賑やかで、皆が喜び合っていましたが、その少し離れた場所で膨らんでいく批判の声も、イエス様は聞いておられたのです。
3. イエス様の鋭い答え(マタイ9:12-13)
- イエス様は、食卓についている人たちにではなく、宗教家たちに語りかけます。「丈夫な人には医者はいりません、病人にこそ必要なのです。行って学びなさい、『わたしが喜ぶのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
- 説教者はこの答えの明快さを強調します。イエス様は決して遠回しな言い方をしません。誰に、どのように、なぜ話すべきかを知っておられます。ここで、イエス様は二つのことを同時に行っています。まず、パリサイ人たちを本来の立場に戻すこと。そして、食卓にいるすべての人を守り、その場を安全にすることです。
- 宗教家たちへのメッセージはシンプルです。「あなたがたは自分を罪人だとは思っていない。自分を病人だとも思っていない。だから、わたしを必要としていない。それでいいのです。でも、どうぞお引き取りください。あなたがたの道を進んでください。わたしは、わたしの食卓に集う人たちのためにすべきことをします。」そして、まるでついでのようにこう付け加えます。「そういえば、あなたがたが暗記していると自負している聖書をもう一度読んでみたらどうですか。そこには『わたしが喜ぶのは憐れみであって、いけにえではない』と書いてあります。今度は、わたしが言っていることをよく学んでみてください。」
- イエス様は彼らの自負心そのものに切り込みます。パリサイ人たちは、民衆に耐えられないほどの基準を押しつけながら、自分たちはその基準を守っていないことで知られていました。「わたしの言うとおりにしなさい、わたしのするとおりにではなく。」これが律法主義です。自分では実践していないことを他人に押しつけ、自分でも扱いきれないもので人々を縛りつけることです。そしてこれこそ、イエス様が打ち破りに来られたものなのです。イエス様は、恵み、贖い、赦し、憐れみを与えるために来られました。
4. 子羊であり獅子であるイエス様、同じ食卓に
- この箇所は、逆説に満ちたイエス様の姿を描いています。聖書は逆説に満ちていますが、イエス様の本質そのものが一つの逆説を持っています。子羊とも呼ばれ、獅子とも呼ばれる方なのです。
- この食事の場面で、イエス様は触れることができ、近づくことができ、抱きしめることさえできる子羊です。ご自分を見せてくださり、つかまえさせてくださいます。世の罪を取り除く神の子羊、その相手は誰でしょうか。罪人たちです。そしてイエス様は、まさにその罪人たちの真ん中におられます。
- 同時に、まさに同じ場所で、イエス様は獅子でもあります。うなり声をあげる獅子であり、その前で軽々しくは振る舞えません。誰に向かってうなるのでしょうか。それは、罪人たちがイエス様に近づくのを妨げようとする者に対してです。
- ここに約束があります。イエス様は、あなたが、そして誰であっても、ご自分に近づくことを決して妨げません。どんな罪であっても、これまでどれほど遠く離れていたとしても、関係ありません。もし今日、あなたがイエス様に一歩踏み出すなら、あなたが触れることのできる、近づきやすい子羊となってくださいます。そして同時に、あなたが来ることに憤慨する者たちからあなたを守る、うなる獅子ともなってくださるのです。
5. 罪人たちと共にいることを喜ばれる方
- 「自分にはわたしが必要だと認める人たち、わたしが喜んで共にいたいと思うのはそういう人たちです。」説教者はあなたに直接こう問いかけます。イエス様があなたと共にいることを喜んでくださっている、そのことに気づいたことがありますか。ただ受け入れてくださるだけでも、ただ我慢してくださるだけでもありません。喜んでくださるのです。
- なぜでしょうか。自分を罪人だと認めることは、単に、自分には救い主が必要だと認めることだからです。救い主を必要とするのは、罪人だけです。もし自分を罪人だと思ったことが一度もないなら、あなたはまだイエス・キリストを必要としたことがないのです。
- 「私はもう罪の中に生きているから罪人だ、というのではありません。生まれつき罪人ですが、イエス様が共にいてくださるから、私はもう罪人ではないのです。今日、キリストが私の内におられます。でも、自分がどこから来たのかは知っています。忘れません。イエス様が私を(罪の泥の中から)迎えに来てくださったことを毎日思い出します。だからこそ、賛美が神のもとに立ち上っていくのです。」
- イエス様は喜んでくださいます。一方、宗教家たちは憤慨します。なんという逆説でしょうか。ゲタナさんは、繰り返し語る言葉でこう続けます。「イエス様は恵みを近づきやすくしてくださいますが、宗教家たちは罪を目立たせようとします。」彼らは自分たちを神の正義の執行者だと感じ、告発し、断罪し、裁かなければならないと考えます。一方でイエス様は赦しを差し出されます。宗教的な霊は、断罪を助長するのです。
6. 赦された罪人たちの側にとどまる
- 今、あなたの歩みはどの段階にありますか。説教者は、あなたがイエス様と共に食卓に、罪人たちの側にしっかり座っていることを願っています。もしその側にいないなら、あなたはどこにいるかご存じでしょうか。反対側です。見ている側、裁いている側、「あんな人たち」がイエス様を礼拝しに来るなんてとんでもない、と考える側です。
- 「良いグループの一員でいましょう。赦された罪人たちのグループ、罪によって断罪されていたけれども、イエス・キリストにあって恵みによって解放された罪人たちのグループです。」
- ゲタナさんは自分自身についてこう証しします。「私は罪人です。もし疑うなら、子どもたちや夫に聞いてみればいい、いろいろ思い出させてくれるでしょう。私は赦された罪人です。私の本質はもう罪ではありません。私を救ってくださった本質、キリストの本質と接し続ける必要があります。キリストと共に食卓にいる必要があります。そして、あなたがた罪人仲間と一緒に食卓にいる必要があるのです。」
7. 恵みはとんでもないもの(コリント人への第一の手紙1:22-24)
- そうです、これはとんでもないことです。しかし説教者は思い起こさせてくれます。神の恵みそのものが、とんでもないものなのです。だからこそキリストは十字架にかけられたのです。姦淫の女を石打ちにするのではなく赦されたことは、とんでもないことでした。安息日に病人をいやされたことも、とんでもないことでした。イエス様はこう言われました。「わたしこそが安息日です。もしわたしの羊の一匹が安息日に穴に落ちたら、当然わたしは助け出します。愛と憐れみをもって行動するのです。」
- パウロはコリント人への第一の手紙1:22-24でこう書いています。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探し求める。しかし私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かなことであるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシア人にも、神の力、神の知恵であるキリストなのです。
- 「これはあなたにとってはとんでもないことかもしれない、とゲタナさんは言います。でも私にとっては恵みであり、神の力が現された出来事です。私が赦されるなんて、あり得ない、正当化できないと思えるかもしれません。でもイエス様が私の義そのものなのです。あなたにとってはとんでもないこと、でも私にとっては神の力なのです。」
8. あなたのドアの向こうにはすでに食卓が整っている(黙示録3:20)
- 彼女は、黙示録3:20から取った、とてもシンプルな一つのイメージで締めくくります。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。もし誰かがわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその者のところに入って、彼と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。」
- イエス様は戸を打ち破ったりはされません。そっとたたき、申し出るだけで、無理強いはされません。礼儀正しく、紳士的な神様なのです。もちろん、力ずくで入ることもできるはずです(墓の石を転がすのに天使の助けなど必要としませんでした)。それでも、あなたが戸を開けるのを待つことを選ばれるのです。
- そして、もしあなたが戸を開けるなら、イエス様が最初に差し出すのは、あなたの罪を思い出させることでも、断罪することでもありません。あなたと一緒に食事をすることです。必要なだけ時間をかけて、あなたが望むだけ何度でも。イエス様はあなたの名前を呼んでくださいます。ジェラール、ミシュリーヌ、ニコラ、ジュリアン、テレーズ、あなたのことをご存じなのです。
- 戸を開けたとき、あなたは食卓がすでに整えられていることに気づくでしょう。食事を用意したのはあなたではありません。椅子も食器も、あなたがこれまで味わったことのないほどの最高のごちそうも、すべてすでに整えられています。「これこそ奇跡です。イエス・キリストに戸を開けたその瞬間、あなたは神と共に超自然的な領域に入るのです。あなたのために前もって用意されているものがあるのです。」
- ゲタナさんは最後に、父ミシェルのエピソードで話を締めくくります。彼は、食べることが大好きな教会の兄弟の家に5分遅れて到着しました。ダニエルはドアを開けてこう白状します。「5分遅れたね。正直、どうしようもなかったよ。君のステーキ、食べちゃった。」二人は野菜を分け合って食べました。でも、イエス様と一緒なら、あなたが遅すぎるということは決してありません。イエス様があなたの分を食べてしまうことは決してないのです。主の家には豊かさがあふれています。
覚えておきたいポイント
- マタイの食事がとんでもないものなのは、イエス様がご自分の意志で、公然と、名の知れた罪人たちと共に座られ、しかもそれを喜んでおられるからです。それは礼儀正しい我慢ではなく、喜びなのです。
- 罪を目立たせようとするパリサイ人たちに対し、イエス様は恵みを近づきやすくされます。自分では実践していないことを他人に押しつける律法主義を拒み、宗教家たちを、彼らが知っていると自負するみことばそのものへと立ち返らせます。
- イエス様は、触れることのできる子羊であると同時に、守ってくださる獅子でもあります。獅子は近づいてくる罪人に対してうなるのではなく、その罪人が近づくのを妨げようとする者に対してうなるのです。
- 恵みへの入り口は、シンプルな告白から始まります。「イエス様、私にはあなたが必要です。」自分を罪人だと認める人だけが救い主を必要とし、そういう人たちと共にいることをイエス様は喜ばれます。
- イエス様はあなたの戸口に立ち、たたいておられます。あなたが開けるとき、食卓はすでに整えられています。あなたの人生で最高のごちそうはすでに用意されています。準備することは何もなく、ただ受け取るだけでよいのです。
個人への適用
- 今、あなたはどちら側に座っていますか。赦された罪人たちの食卓ですか、それとも遠くから眺めて裁いているグループですか。他者に注がれる恵みに対するあなたの反応は、あなた自身の心について何を語っているでしょうか。
- 最後に、自分では守っていない基準を他人に押しつけたのはいつでしたか。兄弟姉妹や、信仰を持たない人について語るとき、あなたの中に律法主義が入り込んではいませんか。
- イエス様があなたと共にいることを、ただ我慢するだけでなく喜んでくださっている、そのことに気づいたことがありますか。今週、しばらく静まる時間を取って、イエス様ご自身にそれを語っていただきましょう。
- あなたの心の中で、イエス様がまだたたき続けているドアはありませんか。イエス様が辛抱強く一緒に食事をする時を待っておられるのに、あなたが閉ざしたままにしている領域はありますか。今日、開けることを妨げているものは何でしょうか。
- あなたの周りの誰かに、マタイのように食事の席を提供できないでしょうか。長い説教ではなく、ただ食卓を囲んで、イエス様を紹介するシンプルな機会を。
引用された聖句
よくある質問
なぜこの食事は「とんでもない」と言われるのですか。
この言葉は、説教者がこのメッセージのタイトルに選んだものそのものです。とんでもないのは食事そのものではなく、そこに集った人たちです。ローマに仕える取税人マタイが、罪人である同僚や友人たちを集め、イエス様を紹介しようとしました。そしてイエス様は、公然と彼らと食卓を共にすることを受け入れられました。遠くから見ているパリサイ人たちにとって、これは自分たちの信じるすべてに反することでした。ラビは素行の悪い人たちと関わるべきではない、と考えていたからです。ところがイエス様は、この食卓を喜んでおられます。本当にとんでもないのは、神の恵みそのものだ、とゲタナさんは言います。世の目には、あり得ない、正当化できないものに見えても、それを受け取る人にとっては神の力そのものなのです。
イエス様はパリサイ人たちにどう答えられましたか。
イエス様はマタイ9:12-13を引用されます。「丈夫な人には医者はいりません、病人にこそ必要なのです。」ここでイエス様は二つのことを同時に行っています。宗教家たちを本来の立場に戻すこと、そしてご自分がいるその食卓を守ることです。そして、彼らが精通していると自負するみことばへと彼らを送り返します。「行って学びなさい、『わたしが喜ぶのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か。」その答えは率直で、的を射ており、守りに満ちています。神学論争に入るのではなく、ご自分の食卓にいる人たちを守っておられるのです。
もしイエス様が私の心の戸をたたいておられるなら、具体的に何をすればいいのでしょうか。
黙示録3:20にはこうあります。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。もし誰かがわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその者のところに入って、彼と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。」説教者はこう強調します。聞くことと、戸を開けることは別のことです。戸を開けるとは、シンプルな祈りの中で(声に出しても、心の中でも)、ありのままのあなたの人生にイエス様を迎え入れることを決断することです。その先はあなたにかかっていません。食卓はすでに整えられています。食事を準備する必要も、自分をふさわしく見せる必要もありません。イエス様はあなたの名前を呼び、あわれみに満ちた微笑みで迎え入れ、まずはあなたと共に食事をすることから始めてくださるのです。
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