はじめに
なぜ献げるのでしょうか。なぜ自分の時間、お金、力を神様と人々のために捧げるのでしょうか。神戸クライストグローリー教会で語られたこのメッセージの中で、北山進牧師は献金というものを新しい視点から見るようにと招いています。献げることは、あなたを空っぽにする宗教的な義務ではありません。それは、神様がすでにあなたの人生に注いでくださったものへの応答であり、神様の恵みが他の人々にまで流れ続けていくための管なのです。このメッセージを支える二つの箇所があります。歴代誌第一29章と、コリント人への手紙第二8章から9章です。最後に残る問いはただ一つ、あなたはどんな管になりたいですか、ということです。
メッセージの流れ
1. すべては神様から来ている、だからあなたは献げることで応える
- ここで言う「献げる」という言葉は、時間、お金、力、才能などすべてを含みます。日曜日の献金袋だけのことではありません。
- 歴代誌第一29章で、ダビデは神殿建設のために莫大な献げ物を捧げました。それにもかかわらず、彼は自分を誇ることをしませんでした。彼はこう祈っています。「私は何者なのでしょう。また私の民は何者なのでしょう。私たちにこのように進んで献げる力があったとは。すべてはあなたから出たもの。私たちはあなたの手から受けたものを、あなたにお返ししているにすぎません」(歴代誌第一29:14)。
- ダビデは高慢にはなりませんでした。「私は偉大なことを成し遂げた」とは言わず、「すべてはすでにあなたのものだった」と言ったのです。この自覚が、あなたの献げ方をすっかり変えてしまいます。
- 新約聖書は、その源をさらにはっきりと示しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)。神様は損得勘定をなさいません。見返りを期待せずに、与え、また与え続けてくださるのです。
- あなたを100パーセント愛してくださった神様の前では、「10パーセント献げるべきかどうか」という問いはもはや意味を持ちません。問いはこう変わります。「自分が受け取ったものに、どう応えようか」と。
2. 献げるとは、恵みのための管を開くこと
- パウロはコリントの人々にこう書き送っています。「兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います」(コリント人への手紙第二8:1)。彼らの献げ物について語りながら、それを「恵み」と呼んでいるのです。
- マケドニアのクリスチャンたちは極度の貧しさと大きな苦難の中にありました。彼らは無理をして献げたのではありません。あふれ出る泉のように、恵みに押し出されて献げたのです。「まず自分自身を主にささげ」(コリント人への手紙第二8:5)たからです。
- 献げるとは、管を開くことです。それはまず金額の問題ではありません。あなたの姿勢の問題なのです。あなたは抱え込んでいますか、それとも通してあげていますか。
- 献身は、物質的な献げ物に先立ちます。「自分自身を主にささげる」こと、これが土台です。それ以外のことはあとからついてきます。
3. 種を蒔く人は、蒔いた分だけ受け取る
- 「少ししか蒔かない人は少ししか刈り取らず、豊かに蒔く人は豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(コリント人への手紙第二9:6〜7)。
- 悲しまず、強いられず、喜んで種を蒔きましょう。神様は悲しみながら献げる人を必要とはしていません。自由な心を求めておられるのです。
- 「神は、あなたがたがすべてのことにおいて、いつでも十分に足りて、あらゆる良い働きに満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ち満ちさせることがおできになります」(コリント人への手紙第二9:8)。
- そこにある論理は「自分を豊かにするために献げなさい」ではありません。「豊かに受け取って、豊かに分かち合いなさい」というものです。管は自分のために満たされるのではなく、さらに遠くまで流れていくために満たされるのです。
- あなたの献げ物は、あなたには聞こえない場所で賛美を生み出します。「この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を満たすばかりでなく、神への多くの感謝もあふれさせているのです」(コリント人への手紙第二9:11〜12参照)。
4. あなたの体、生きた献げ物
- 「ですから、兄弟たち。神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ人への手紙12:1)。
- 最も大きな献げ物は、あなた自身です。お金だけでも、奉仕の時間だけでもありません。あなたの体、あなたのいのち、あなたの存在そのものを献げるのです。
- その人生をどこで献げるのでしょうか。北山牧師は、その答えを「教会の中で」だけに閉じ込めることを拒みます。献身は、むしろ教会の壁の外、職場、家庭、学校など、神様があなたを置かれた場所でこそ生きられるものなのです。
- 具体的には、問題が起きたときにパニックにならず、平安のうちに祈ることです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5:16〜18)。そのとき、あなたは周りの人々にとって祝福の管となるのです。
5. 実は思いがけない場所に現れることがある
- 牧師は、神戸クライストグローリー教会をめぐる二つの実話を語ります。
- 教会が主催したバザーの後、6月にテイクアウトサービスを中止していた子ども食堂「マナ」に、翌日突然90件もの予約が入りました。バザーによって近隣にその情報が広まり、多くの家庭が子どもたちを連れて来るようになったのです。ある奉仕の献げ物が、別の奉仕を呼び起こしたのでした。
- 最近その食堂を訪れた40代のある女性はこう語りました。「あの大震災の後、近所の教会が私に食事を出してくれて、青いチェック柄の服をくださいました。その温かさを感じました。」それは移転前の神戸クライストグローリー教会の旧会堂でのことでした。1995年の震災の後、自分たち自身もすべてを失っていたクリスチャンたちが蒔いた種が、30年後、後継者たちが子どもたちに食事を出しているまさにその場所で実を結んでいたのです。
- これが管の原則です。あなたが献げると、その恵みはあなたのあとも、あなたが想像もしなかった場所へと流れ続けていくのです。
覚えておきたいポイント
- あなたが神様に献げるものはすべて、もともと神様があなたに与えてくださったものです。正しい姿勢とは、ダビデのようなものです。「献げるとは、私は何者でしょう。すべてはあなたから来たのです。」
- 献げることは、あなたを空っぽにする宗教的な義務ではありません。それは恵みであり、神様があなたを通して流したいと望んでおられるものを通すために開く管なのです。
- 神様は強いられて献げる人を喜ばれません。喜んで献げる人を愛してくださいます。悲しまず、強いられず、心で決めたとおりに種を蒔きましょう。
- あなたが豊かに受け取るものは、分かち合うために受け取っているのです。管は自分のために満たされるのではありません。
- 最も大きな献げ物は、あなた自身です。あなたの体、あなたのいのちを、生きた供え物として献げること。そしてこの礼拝は、教会の壁の外、神様があなたを置かれた場所でこそ生きられるものなのです。
個人的な適用
- あなたが献げるとき(時間、お金、奉仕)、それを重荷のような義務として経験していますか、それとも受け取ったものへの応答として経験していますか。何があなたを妨げていますか。
- あなたの人生のどこで、「すべては神様から来ている」ではなく「これを築いたのは自分だ」と信じたくなる誘惑がありますか。どうすればダビデの祈りに立ち返ることができるでしょうか。
- 献身は物質的な献げ物に先立ちます。あなたはマケドニアの人々のように、すでに「自分自身を主にささげ」たことがありますか。まだ主にお渡ししていないものは何ですか。
- 今週、神様はあなたをどこに置かれましたか(職場、家庭、学校、近所)。そこであなたが祝福の管となるために、どのような具体的な行動を取ることができるでしょうか。
- あなたがしたけれども、一見何の効果もなかったように思える献げ物や奉仕を思い出してください。あの青いチェック柄の服の女性のように、神様がいつか、どこかで、それを実らせてくださると信じることができますか。
引用された聖句
よくある質問
今日、十分の一(10パーセント)を必ず献げなければならないのでしょうか。
北山牧師はこの問いを律法主義的には結論づけません。彼の確信はこうです。神様はキリストにあって、あなたに100パーセントを与えてくださいました。この献げ物の大きさを本当に理解するとき、あなたはもはやパーセンテージを議論するのではなく、どう応えるかを求めるようになります。悲しまず、強いられず、心で決めたとおりに献げましょう(コリント人への手紙第二9:7)。
本当に献げるものがほとんどない場合はどうすればよいのでしょうか。
マケドニアのクリスチャンたちを見てください。彼らは極度の貧しさの中にありながら、恵みに押し出されて喜んで献げました。あなた自身の献身は、金額よりも大切です。まず自分自身を主にささげることから始めましょう。それ以外のことはあとからついてきます。
結果が見えなくても、献げることに意味はあるのでしょうか。
多くの場合、あなたには見えません。1995年の震災の後に奉仕した神戸の兄弟姉妹たちは、30年後にひとりの女性が、子ども食堂の中で自分たちが与えた温かさを再び感じることになるとは知りませんでした。それでも種を蒔きましょう。神様は、あなたの目には見えないところまで、恵みを流してくださるのです。
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