聖書 — 口語訳 (1955)

イザヤ書 6

概要

イザヤ書6章は、ウジヤ王が死んだ年に預言者イザヤが受けた召命を語ります。イザヤは高くあげられた御座に座す主を見ます。周りにはセラピムがいて、主の聖なることを呼びかわし、イザヤは自分の汚れに気づきます。セラピムの一人が祭壇から取った燃える炭で彼の口に触れると、その罪は取り除かれます。そのとき彼は「だれをつかわそうか」という神の声を聞き、自ら名乗り出ます。けれども託された使命は厳しく、聞こうとしない民に語り、さばきを告げることでした。それでも、切り倒された木の切り株が残るように、聖なる種族が残るという約束が添えられています。

この章の4つの区分

  1. 1-4節幻:御座に座す王、三度聖なる方
  2. 5-7節告白と赦し:祭壇の燃える炭
  3. 8-10節召命と派遣:「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」
  4. 11-13節いつまでですか:さばきと、残される切り株

1ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。

2その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、

3互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

4その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。

5その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

6この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、

7わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

8わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

9主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

10あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。

11そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、

12人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。

13その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。

鍵となる聖句

3節
互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

セラピムの叫びは「聖なるかな」を三度くり返します。ヘブライ語で最上級を表す言い方です。神はまず、ほかのすべてと区別される方として示され、何を求める方かは、そのあとに語られます。

5節
その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

神の聖さの前で、イザヤは誰かと自分を比べるのではなく、ありのままの自分を見ます。自分のくちびる、つまり言葉が罪に染まっていることを知るのです。神との本当の出会いは、偉大さの感覚からではなく、このような率直な目覚めから始まることが多いのです。

7節
わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

自分で自分をきよめたのではありません。主導されたのは神であり、祭壇から取られた炭によってでした。キリスト者はここに、悪を取り除き罪を贖うイエスの犠牲の予告を見ます。

8節
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

神は誰かを無理に行かせるのではなく、開かれた問いを投げかけられます。イザヤは赦されたあとで、自由に答えます。奉仕は、赦しを得るための努力ではなく、受けた赦しから生まれるのです。

13節
その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。

さばきの中にも、神は望みを残されます。テレビンの木やかしの木が切り倒されても切り株が残るように、聖なる種族が民の中からよみがえるのです。

この章に登場する人物

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説教が語っていること

神の召しに応えるジョアン・アーリンは、8節の神の呼びかけ「だれをつかわそうか」を、家庭や経済、教育の現場にまで広げて語ります。空席のままにせず、身を差し出したイザヤの応答が、彼にとってのお手本です。要約を読む →壊れた祭壇を築き直す:信仰の三つの決断荻野マツ牧師は、イザヤ書6章の場面をもとに、祭壇が何を表すかを語ります。預言者は自分の汚れに打たれ、祭壇から取られた燃える炭は、イエスの犠牲を指し示しています。要約を読む →イザヤ書50章:毎朝耳を傾ける僕の姿説教者は、イザヤの召命が厳しい派遣であることを語ります。栄光の幻と赦しのあとに託された使命は、担うのが難しいものです。そこから、使命には時に、口にしたくない言葉も含まれると語ります。要約を読む →あなたの内にキリストの姿を回復する観想マル・ビアルタは1節を引き、イザヤが主の栄光を見て自分の惨めさを知ったことに触れます。信じる者に必要なのは神の賜物だけでなく、神ご自身だと結論します。要約を読む →7つの影響力の領域における神の支配この説教は「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」で結ばれます。神は、社会のあらゆる分野でご自身の光を運ぶ人を探しておられ、応えるには勇気が要ると語ります。要約を読む →

イザヤ書6章についてよくある質問

イザヤ書6章はどういう意味ですか

イザヤ書6章は、預言者が神に召される姿を語ります。イザヤは栄光の中の主を見て、自分が汚れていることを認め、赦しを受け、そして困難な使命のために自らを差し出します。この章は、神の聖さが赦しに先立ち、赦しが奉仕に先立つことを教えています。

なぜセラピムは「聖なるかな」を三度言うのですか

ヘブライ語では、言葉をくり返すことで最上級を表します。「聖なるかな」を三度くり返すのは、神が完全に区別された方であり、清く、存在するすべてのものと異なる方であることを強調しています。キリスト者はそこに三位一体の反映を見ることも多いのですが、本文自体がまず強調しているのは神の聖さです。

「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」とはどういう意味ですか

8節の神の問いかけに対するイザヤの答えです。条件をつけない献身の言葉で、イザヤはまず使命の内容を尋ねたりしません。多くの信仰者が、神が置かれた場所で仕えたいという願いを表すために、この言葉を用います。

なぜ神はイザヤに民の心を鈍くするよう命じられたのですか

9節と10節は難しい箇所です。すでにかたくなになっている民に対する、宣教の効果の描写と理解する人が多く、聞くことを拒むほど、心は閉ざされていきます。イエスや新約聖書の著者たちは、この箇所を、みことばを受け入れない人々について引用しています。正確な意味については、キリスト教の諸伝統の間で議論があります。

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