聖書 — 口語訳 (1955)
コリント人への第一の手紙 4
概要
コリント人への第一の手紙4章で、パウロは自分たち使徒を、キリストに仕える者、神の奥義を管理する者と見るよう求めます。管理者に求められるのは、才能や成功ではなく忠実さです。最終的にさばくのは主です。パウロは、すでに満ち足りて王になったつもりでいるコリントの人々に、皮肉をこめて語り、愚かな者、弱い者と見られている使徒たちの現実と対比させます。そして、父として愛をもって諭し、テモテを遣わすこと、神の国は言葉ではなく力であることを告げます。
この章の5つの区分
1このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。
2この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。
3わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。
4わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。
5だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
6兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。
7いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
8あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。
9わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。
10わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。
11今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、
12苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
13ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。
14わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。
15たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。
16そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。
17このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。
18しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということである。
19しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。
20神の国は言葉ではなく、力である。
21あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか、それとも、愛と柔和な心とをもって行くことであるか。
鍵となる聖句
この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。
他人の財産を管理する者に求められるのは、才能でも成功でもなく、忠実さです。神に仕える者についてのパウロの基準は、単純で、誰にでも手の届くものです。
わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
パウロは、人にも自分自身にもさばかれることを求めません。やましいことがないという良心だけでは、義とされるには足りません。最後にさばくのは主であり、隠れたことも心の企ても明るみに出されます。
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
高ぶりを無力にする問いです。賜物、知恵、信仰、機会など、持っているものはすべてもらったものです。すべてが受けたものなら、誇る余地も、人と比べる余地もありません。
わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。
パウロは皮肉をこめて、自分は賢く強いと思っているコリントの人々と、キリストのゆえに世の目には愚かで弱い使徒たちとを対比させます。十字架は、知恵とは何か、強さとは何かを捉え直させます。
説教が語っていること
コリント人への第一の手紙4章についてよくある質問
コリント人への第一の手紙4章7節の「もらっていないものがあるか」とはどういう意味ですか
パウロは、自分の賜物や好みの教師を誇っていたコリントの人々に、この問いを投げかけています。才能、信仰、知恵、機会など、私たちが持つものはすべて神から受けたものだと思い出させます。ですから、誇るものは何もなく、他の人と比べるものもありません。高ぶりを戒めるために最もよく引用される聖句の一つです。
神の奥義を管理する者であるとはどういう意味ですか
管理者とは、主人の財産を預かって管理する人のことです。パウロにとって、神の奥義とは、神が啓示してくださった福音の真理です。キリストに仕える者は、それを自分のものにせず、忠実に伝える責任を負っており、求められているのは成功ではなく忠実さです。
なぜパウロはコリントの人々に皮肉を言うのですか
8節から10節で、パウロはわざと誇張して語ります。コリントの人々は、すでに満腹し、富み、王になったと思っているからです。この皮肉は、彼らが自分の高ぶりに気づく助けとなるためです。続けてパウロは、飢え、辱められ、疲れ果てる使徒たちの率直な姿を描きます。そして、目的は彼らをはずかしめることではなく、父のように諭すことだと明らかにします。
「神の国は言葉ではなく、力である」とはどういう意味ですか
20節で、パウロは人が口にすることと、神が人生の中で実際に生み出されることを区別します。力とは、神のみわざの目に見えるしるしだと考える人もいれば、聖さと愛にあふれた変えられた人生を強調する人もいます。キリスト教の諸伝統は強調点を異にしますが、美しい言葉だけでは足りないという点では一致しています。
コリント人への第一の手紙 4を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。