聖書 — 口語訳 (1955)

ローマ人への手紙 7

概要

ローマ人への手紙7章は、信じる者と律法との関係を説明します。パウロは結婚のたとえを用いて、キリスト者は律法に対して死に、よみがえられたキリストのものとなって、実を結ぶのだと語ります。続いて律法を弁護します。律法は聖であり、正しく、善ですが、罪を明らかにするだけで、それに勝つ力は与えません。章は、したいことと実際にしていることの間で引き裂かれた人の叫びと、感謝のことばで終わります。イエス・キリストが救ってくださるのです。

この章の4つの区分

  1. 1-6節律法から解かれて、キリストのものとなる
  2. 7-12節律法は聖であるが、罪を明らかにする
  3. 13-20節わたしは自分の欲する善を行わない
  4. 21-25節戦い合う二つの律法、イエス・キリストによる救い

1それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。

2すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。

3であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。

4わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。

5というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。

6しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

7それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

8しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。

9わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

10わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

11なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

12このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

13では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

14わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

鍵となる聖句

4節
わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。

キリストのからだを通して、信じる者は律法に対して死に、よみがえられた方のものとなりました。目的は罪を犯す自由ではなく、神のために実を結ぶことです。

12節
このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

パウロは、律法が悪いものだという考えをきっぱり退けます。律法は聖であり、戒めも聖で、正しく、善なるものです。問題は律法ではなく、それを利用する罪にあります。

15節
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

この節は、多くの人が共感する経験を表しています。欲する事は行わず、憎む事をしているのです。パウロは、意志と能力の間の隔たりを描いています。

24-25節
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」という叫びのすぐあとに、答えが続きます。神はイエス・キリストによって救ってくださいます。章は敗北にとどまらず、ローマ人への手紙8章で詳しく語られる救いへと開かれます。

このテーマで祈る

説教が語っていること

イエス・キリストが与えてくださる永遠のいのちヨハネ3章からのメッセージは、ローマ7章24節から25節で結ばれます。まだ罪と戦っているなら、自分を責めてはなりません。この戦いは、新しく生まれた心のしるしであり、毎日十字架に立ち返る心です。要約を読む →自己成長:もしイエス様があなたの成長を助けてくださるとしたら説教者は律法を、内側の壊れた所を映し出すレントゲンにたとえます。ローマ7章を引いて、規則は心を変えないこと、そしてイエスが従うようにと招いておられることを示します。要約を読む →十字架で贖われたあなたは、もう罪の奴隷ではないメラニー・エリスマンは、ローマ7章24節の「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」を引き、贖いを語ります。イエスは代価を払って、罪の奴隷を神のものとなるように買い戻してくださいました。要約を読む →罪の報酬は死、それでも神は命をくださるサミュエル・マボーは、パウロがローマ7章で、罪が自分のうちに住んでいると認めていることを思い起こさせ、ローマ6章23節を示します。罪の支払う報酬は死ですが、神は永遠のいのちを恵みの賜物として与えてくださいます。要約を読む →御霊に導かれる人生:神のリズムで歩むカミーユ・ホワイトは、肉と御霊の葛藤についてローマ7章15節から25節に触れます。義認を強調し、次に聖化を語ります。御霊とともに歩む人を、御霊が少しずつ造り変えてくださいます。要約を読む →

ローマ人への手紙7章についてよくある質問

ローマ7章15節の「わたしは自分の欲する事は行わず」とはどういう意味ですか。

パウロは、自分が良いと認めることと、実際に行うことの隔たりを描いています。そこから、悪を行っていると認めているのだから律法は善であること、そして罪が自分の内に住んでいることを導きます。この節は意志だけの無力さを表し、24節の叫びへ、そしてキリストによる救いへと導きます。

ローマ7章の「わたし」は信じていない人ですか、それともクリスチャンですか。

クリスチャンの間でも意見は一致していません。回心前のパウロだと見る人、罪となお戦っている信者としてのパウロだと見る人、律法の下にある人の描写だと見る人がいます。本質では一致しています。律法は救わず、救いはローマ8章が示すようにイエス・キリストから来るのです。

なぜパウロは私たちが律法に対して死んだと言うのですか。

パウロは結婚の例を用います。死はその結びつきを終わらせます。同じように、信じる者はキリストのからだを通して律法に対して死に、よみがえられた方のものとなりました。律法を軽んじるのではなく、神の前で義とされるためにもはや律法に頼らないということです。新しい霊によって仕えるのです。

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