はじめに
信仰の歩みには、試練の季節があり、癒やしと回復を必要とする時があり、戦いの時があります。その日曜日、神戸キリスト栄光教会で、牧師は前の月に始めた「神さまの御名」のシリーズを続けました。メッセージ全体を要約する副題は「主はどんな状況の中でも自らを現してくださる」です。
この日取り上げられた御名は4つで、シリーズの4番目から7番目にあたる、アドナイ・ロイ、アドナイ・ツィドケヌ、アドナイ・シャローム、アドナイ・シャマです。牧師は、本来ならそれぞれで1回分のメッセージができるところを、1時間足らずにまとめたと話しています。最初から最後まで変わらない問いかけは、「あなたにとって、神さまはどのような方ですか」というものです。
牧師の励ましはとてもシンプルです。詩篇23篇のみことばか、神さまの御名のうち少なくとも1つを持ち帰り、始まる1週間の自分のものにしてください、ということです。
メッセージの流れ
1. アドナイ・ロイ:主は私の羊飼い
- 「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」(詩篇23篇1-2節)。ダビデは羊飼いでした。命がけで羊を守り、養った経験と、神さまがご自分にとってどのような方であるかを重ね合わせて、この詩が生まれました。
- 牧師の訳では、「主」という言葉が4回、「あなた」が3回、「私」や「私の」が15回ほど出てきます。「これは水です」と「これは私の水です」は同じではありません。「イエスさまは神です」と「イエスさまは私の神です」も同じではありません。詩篇23篇は、「これが私の神です」というダビデの信仰告白です。
- 牧師は、受け止め方がどれほど大切かを、長女の了承を得て家族の思い出で説明します。約2年前の土曜日の朝、娘さんが牧師を起こして「保育園に行かなきゃ」と言いました。目が覚めるにつれて、娘さんにとってお父さんは、お母さんとは違い、主に遊び相手として見られていると気づいたそうです。すべては受け止め方の問題であり、神さまをどう受け止めているかについても同じことが言えます。
- 神さまを、厳しくて細かくて怖い方だと思っている人もいます。数年前の青年礼拝で牧師は、もし神さまのイメージがゆがんでいるなら、それは年上のクリスチャンが伝えたものだと話し、すべての「先輩たち」に代わってお詫びしました。教会が神さまの正しいイメージを伝え、祝福の通り道となること。それが牧師の願いです。
- 「あなたはわたしの敵の前で、わたしのために宴を設け」(詩篇23篇5節)。当時の文化では、食卓と油は客人に対する最も名誉ある歓迎でした。しかも食卓が整えられるのは、敵が去った後ではなく、敵の前です。職場でも、家庭でも、学校でも、問題のただ中で、神さまはあなたに、牧師のユーモアを借りれば「ごはんができましたよ」と言ってくださいます。
- 問題があるからといって、恵みがなくなったわけではありません。何も解決していなくても、主はあなたの世話をし、あなたを忘れません。
- イエスさまもこのイメージを用いておられます。「わたしは良い羊飼である。良い羊飼は、羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10章11節)。ルカによる福音書15章4節では、羊飼いは99匹を残して、見つかるまで迷った1匹を捜し歩きます。私たちは自分の力で神さまのもとに戻ることはできませんでした。主ご自身が私たちを捜しに来て、肩に担いで連れ帰ってくださったのです。
2. アドナイ・ツィドケヌ:主は私たちの義
- エレミヤ書23章5-6節は、ダビデから出る正しい枝、すなわち公平と正義を行う王を告げ、その名は「主はわれわれの義」と呼ばれると語ります。エレミヤが預言したのは危機の時代でした。民の指導者たちは役割を果たさず、ユダはバビロンによって滅ぼされ、神殿も破壊され、民は捕らえ移されようとしていました。そのさばきのただ中で、神さまは希望の約束を与えられました。これは、約束された正しい王であるイエス・キリストを指しています。
- 聖書で「義」とは、神ご自身の正しさ、正しい行い、そして救いに関しては、神の前に正しいと認められることを意味します。神の前で自分の義を誇れる人はだれもいません。選ばれた民でさえ、それができませんでした。
- 神さまは正しい方なので、罪を見過ごすことはできません。けれども同時に愛の方でもあり、恵みを与え、あわれんでくださいます。これを説明するために、牧師は「ただのたとえ話ですが」と断ってこんな話をします。ある王が、すべての犯罪者の両目をえぐるという非常に厳しい法律を定めました。初日に最初に捕まったのは、王自身の息子でした。王は例外を認めません。しかしやがて立ち上がり、息子のもとに走り寄って宣言します。息子の片目を差し出そう。もう片方の目は、私から取りなさい。王の正義と父の愛が、一つに結ばれています。
- 神さまは罪を見逃さないまま、どのようにして罪人を救うことができるのでしょうか。その答えが、イエス・キリストの十字架です。神さまはそこで、罪に対する義(ローマ人への手紙3章)と、愛を現されました。キリストは、私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために死んでくださったからです(ローマ人への手紙5章8節)。
- 義とされるとは、立派な人になったという意味ではありません。それは宣言です。イエスさまの義のゆえに、神さまは信じる人を正しいと宣言してくださいます。無罪の判決です。
- クリスチャンになっても、罪が一度にすべて消えるわけではありません。パウロ自身、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っていると述べ、それは自分のうちに罪が宿っているからだと言っています(ローマ人への手紙7章19-20節)。ですから、神の前でのあなたの立場の土台は、あなたがどんな人になったかではなく、イエス・キリストです。これが福音であり、恵みです。
3. アドナイ・シャローム:主は平安
- 礼拝の後、帰り際に「アドナイ・シャローム」とあいさつを交わすことを、牧師は楽しそうに話します。それは終わりの合図ではなく、聖書に書かれている神さまの御名なのです。
- 士師記6章11節で、ギデオンはミデヤン人に見つからないよう、酒ぶねの中で小麦を打っています。民は抑圧され、収穫は奪われ、身を隠さなければなりませんでした。おびえているこの人に、御使いはこう語りかけます。「勇士よ、主はあなたと共におられる」(士師記6章12節)。牧師は、自分がギデオンの立場だったら、だれか筋肉質の英雄に話しかけているのかと思って後ろを振り向いただろうと打ち明けます。
- ギデオンは率直に答えます。主が私たちと共におられるなら、なぜこんなことが起こるのですか、と。あなたも、祈っても何も変わらないと感じたことがあるかもしれません。約束を知っていて、信じているのに、何も動かないのです。
- ギデオンは自分のことを低く見ていました。「わたしの氏族はマナセのうちでも最も弱いもので、わたしはまた父の家族のうちでいちばん小さいものです」(士師記6章15節)。主はこの点で彼を否定しません。自分の中にある力を見なさいとも言われません。主は「行きなさい。あなたを遣わすのはわたしだ。わたしがあなたと共にいる」と告げられます。たとえあなたが空っぽでも、主はあなたと共におられます。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ人への手紙4章13節)。すべては「強くして下さるかたによって」という言葉にかかっています。
- ギデオンはさらにしるしを求めます(士師記6章17節)。牧師は、まさにそこがギデオンの好きなところだと言います。あれほど力強いことばを聞いても、まだ確信が持てないのです。私たちとよく似ています。それでも神さまは彼を退けず、答えてくださいます。
- ギデオンはそこで祭壇を築き、それを「主は平安」と名づけました(士師記6章24節)。シャロームは平安のことで、「大丈夫」と言い換えてもいいでしょう。ところがこのとき、ミデヤン人はまだそこにいて、勝利はまだ先のことでした。彼の平安は、問題が片づいた状況ではなく、神さまが語ってくださったみことばの上に立っていたのです。
- 「信仰とは、もう恐れを感じなくなることではありません」と牧師は言います。信仰とは、恐れのただ中で主のみことばに耳を傾け、主に信頼することです。恐れがあるなら、隠さずに主の前に持って行きましょう。「もし神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ人への手紙8章31節)。
4. アドナイ・シャマ:主はそこにおられる
- 「その日からこの町の名は、『主がそこにおられる』ととなえられる」(エゼキエル書48章35節)。これは、回復された都に与えられた名です。メッセージの最後の問いかけは、あなたの主はどこにおられますか、というものです。
- 神さまは時間に縛られない方ですが、わかりやすく伝えるために、牧師は過去、現在、未来に分けて話します。イスラエルをエジプトから導き出された神さまは、今日あなたと共におられる神さまと同じ方です。
- 現在については、イザヤ書63章9節が読まれます。牧師が用いている訳では、主は民のすべての苦難の中で、ご自身も苦しまれ、大昔から民を担ってこられたと語られています。あなたが苦しんでいるとき、もう限界だと思うとき、神さまはそこにおられ、あなたと共に苦しみ、あなたを担ってくださいます。
- イエスさまがお生まれになったとき、この名は「インマヌエル」、すなわち神が私たちと共におられるという意味になりました。天に上げられる前、イエスさまは約束されました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネによる福音書14章18節)、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28章20節)。今日、聖霊は、助け、守り、導いてくださる方として遣わされています。
- 主はここにおられます。あなたの人生の中に、あなたの問題のただ中に、そしてこれから踏み出す新しい段階にも。
5. 詩篇23篇、神さまの御名が現れる信仰告白
- 締めくくりに、牧師は詩篇23篇をもう一度読みます。この詩はおそらくダビデの晩年に書かれたと考えられています。神さまが人生の歩みを通して自分に現してくださったことの跡が、ここに残されています。ダビデは意図していなかったかもしれませんが、神さまの御名が次々と現れています。
- 「主はわたしの牧者」:アドナイ・ロイ。「わたしには乏しいことがない」、そしてめぐみといつくしみが生きている限りいつも伴うこと(1節と6節):アドナイ・イルエ、主が備えてくださる方です。
- 緑の牧場といこいのみぎわ(2節):アドナイ・シャローム。けれどもダビデの人生は、命をねらう敵から逃げ続ける長い道のりでした。それでも彼は、主が共におられるから平安があると悟りました。
- 「主はわたしの魂をいきかえらせ」(3節):アドナイ・ラファ、癒やしてくださる主です。「わたしを正しい道に導かれます」:アドナイ・ツィドケヌ。
- 「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいをおそれません。あなたがわたしと共におられるからです」(4節):アドナイ・シャマ。不幸のまさにただ中に、主はおられました。
- 敵の前に整えられた食卓(5節):アドナイ・ニッシ、主は私の旗です。前の月に学んだ御名です。主が私の味方なら、だれが私に敵対できるでしょうか。
- 牧師は、一人ひとりが詩篇のどの部分を自分のものにするかを選び、1週間、主の御名を呼び求めるよう勧めます。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」、そして「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」(ローマ人への手紙10章13節と11節)。
心に留めたいこと
- 詩篇23篇は、神さまについての一般的な説明ではなく、個人的な信仰告白です。問いは変わりません。あなたにとって、神さまはどのような方ですか。
- 神さまはあなたの敵の前に食卓を整えてくださいます。問題があるからといって、恵みが離れたわけではありません。
- 神の前でのあなたの立場は、あなたの正しさではなく、イエス・キリストの上に立っています。十字架で、神さまの義と愛が出会いました。
- 神さまの平安は、問題が解決する前に与えられることがあります。それは「主はあなたと共におられる」というみことばの上に立っています。
- 主はここにおられます。あなたの過去にも、今の苦しみの中にも、これから来るものの中にも。
個人への問いかけ
- 今あなたが経験していることから、「私の神は…」という文を完成させるとしたら、何と言いますか。それは聖書が語ることと合っていますか。
- あなたは神さまについて、どのようなゆがんだイメージを受け取りましたか。あるいは、ほかの人に伝えてしまったことはありませんか。
- どの「敵」の前で、すべてが片づくまで、神さまがあなたのために整えておられるものを受け取らずに待っていますか。
- ギデオンのように、今週、隠さずに主のもとへ持って行ける恐れや率直な問いは何ですか。
- 詩篇23篇のどの節、あるいは神さまのどの御名を心に留めて、今週毎日口にしますか。
引用された聖書箇所
- 詩篇 23篇
- ヨハネによる福音書 10章11節
- ルカによる福音書 15章4節
- エレミヤ書 23章5-6節
- ローマ人への手紙 3章
- ローマ人への手紙 5章8節
- ローマ人への手紙 7章19-20節
- 士師記 6章11-24節
- ピリピ人への手紙 4章13節
- ローマ人への手紙 8章31節
- エゼキエル書 48章35節
- イザヤ書 63章9節
- ヨハネによる福音書 14章18節
- マタイによる福音書 28章20節
- ローマ人への手紙 10章11-13節
よくある質問
アドナイ・ロイ、ツィドケヌ、シャローム、シャマとはどのような意味ですか。
アドナイ・ロイは「主は私の羊飼い」という意味です(詩篇23篇1節)。アドナイ・ツィドケヌは「主は私たちの義」を意味します(エレミヤ書23章6節)。「主は平安」を意味するアドナイ・シャロームは、ギデオンが築いた祭壇の名です(士師記6章24節)。「主はそこにおられる」を意味するアドナイ・シャマは、エゼキエル書48章35節で、回復された都に与えられた名です。
詩篇23篇で「私の」という言葉が大切なのはなぜですか。
牧師は、自分の訳では、この詩の中に「私」や「私の」が15回ほど出てくると指摘しています。「イエスさまは神です」と「イエスさまは私の神です」は同じではありません。詩篇23篇は、「これが私の神です」というダビデの個人的な信仰告白です。そこで問いはこうなります。あなたにとって、神さまはどのような方ですか。
問題が解決する前に、神さまの平安を持つことはできますか。
はい、できます。ギデオンが「主は平安」という祭壇を築いたとき、ミデヤン人はまだそこにいて、勝利は得られていませんでした。彼の平安は、「主はあなたと共におられる」という神さまのみことばの上に立っていました。牧師によれば、信仰とは恐れを感じなくなることではなく、恐れのただ中で主のみことばに耳を傾け、主に信頼することです。