はじめに
ヨハネの福音書6章は、飢えた群衆の場面で始まり、衝撃的な言葉で終わります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい。」その間にイエスは、五つのパンと二匹の魚で数千人を養い、海の上を歩き、そして「わたしは命のパンである」と宣言されます。
ヨハネの福音書の連続講解のこのメッセージで、トゥールーズ福音派プロテスタント教会(Église Protestante Évangélique de Toulouse)のCésarは、この章全体を三つの流れに沿ってたどります。パンのその先を見つめること、しるしはイエスを現すからです。父の本当の贈り物はイエスご自身だと認めること。そして、世の命のために与えられたパンを受け取ること。
本文全体を貫く問いがあります。あなたがイエスを求めているのは、イエスがあなたのためにしてくださることのためでしょうか。それとも、イエスご自身のためでしょうか。
メッセージの流れ
1. パンのその先を見る:しるしはイエスを現す
- イエスは大勢の群衆を見て、ピリポに尋ねます。「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」ピリポは計算して、無理だと考えます。アンデレは五つのパンと二匹の魚を持つ少年を見つけ、こう言います。「こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう。」(5節から9節)
- 「私でも、おそらく五つのパンと何千人もの人々を見比べていたでしょう。」しかし6節で、ヨハネは弟子たちが知らなかった情報を伝えます。イエスは、これから何をするかをすでに知っておられたのです。
- イエスはパンを取り、神に感謝をささげて分け与えます。みなが満腹するまで食べ、十二のかごがいっぱいになるほど余りました。イエスは飢えを見て、行動し、惜しみなく豊かに与えられます。
- ヨハネはこれを「しるし」と呼びます。しるしとは、イエスがどなたであるかを示す奇跡です。「道路標識のように、役に立ちますが、目的地ではありません。」
- 14節で群衆は叫びます。「まさしく、世にきたるべき預言者だ。」神がモーセのような預言者を遣わすという約束(申命記18章15節)を思い浮かべているのです。パンと荒野と過越の祭りの中に、彼らは確かに真実なものを見ています。
2. 私たちに都合のよい王?
- 15節で、群衆はイエスを無理やり王にしようとします。彼らはイエスの正体の一部を理解しましたが、それでもイエスの使命を自分たちで決めようとしています。「私たちを養ってくれる王、結構です。問題を解決してくれる王なら、なおさらです。」
- 私たちはどんな救い主を求めているのでしょうか。説教者は告白します。心の奥で筋書きをすでに書き上げたまま、神に祈ることがあるというのです。「主よ、こうすべきです。できれば早く。」
- 私たちは自分の望みを、もっともらしい信仰の理由で飾ることさえできます。説教者はこう戯画化します。「主よ、メルセデスをください。でも、それは兄弟姉妹を教会に送るためです。とても快適に。エアコンつきで。音楽つきで。」
- 「車が問題なのではありません。問題は、自分の計画が当然神の計画でもあると神を説得しようとするときです。」私たちの願いも、イエスに正していただく必要があります。
- イエスは押しつけられた王位を拒んで退かれます。そして16節から21節で、弟子たちは湖の上にいて、風が吹き、イエスが水の上を歩いて近づいて来られます。彼らは恐れますが、イエスは言われます。「わたしだ、恐れることはない」(20節)。
- 群衆を養った方は、風の主でもあります。海もイエスにとって障害ではありません。イエスはパンを配る存在に押し込められることはありません。本当の問いは、もはや「イエスは私のために何をしてくださるか」だけではなく、「この方はいったいどなたなのか」です。
3. 父の本当の贈り物はイエス:行うのか、信じるのか
- 翌日、群衆はイエスを見つけますが、イエスは人の心をご存じです。26節で、彼らがイエスを捜しているのは、パンを食べて満腹したからだと告げます。
- イエスはパンを軽んじてはいません。つい先ほど彼らに与えたばかりです。しかし、昨日食べたパンは今日の命を養わないことをご存じです。健康も、仕事も、成功も、永遠には続きません。
- 27節でイエスは、永遠の命に至るまで残る食物へと、もっと遠くを見るように招きます。群衆は尋ねます。「神のわざを行うためには、何をしたらよいでしょうか。」言い換えれば、「イエスよ、やるべきことのリストをください」ということです。
- 29節のイエスの答えはこうです。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである。」彼らは行うことだと思いましたが、イエスは信じるように招きます。天国にふさわしくなるための方法ではなく、ただひとりの方へと導かれるのです。
- 30節には驚くべきことが書かれています。奇跡のパンを食べたばかりなのに、さらにしるしを求めるのです。説教者は「まず私自身がそうです」と言って、私たちの祈りに似ていると語ります。「神様、この問題を解決してくださるなら、永遠に信じます。」「癒やしてくださるなら、回心します。」
- こうした願いは真剣なものかもしれません。それでも、問いは残ります。「私は本当に真理を求めているのか、それとも神に自分の試験を課しているのか。」
- 群衆はマナの話を持ち出します。イエスは彼らの見方を正します。あのパンの源はモーセではなく、神です。そして今、父が天からの本当のパンを与えておられるのです。
4. 「わたしは命のパンである」
- 35節でイエスは、「永遠の命を得るレシピを知っている」とは言われません。「わたしは○○である」と言われます。20節で湖の上ですでに「わたしだ」と言われましたが、これは文字どおり「わたしはある」という意味です。
- ここから、ヨハネの福音書の七つの大きな「わたしは○○である」の宣言が始まります。イエスは初めて、ご自身がどなたかを現すために、ひとつのたとえと結びつけられます。
- 「群衆はパンを求めています。しかし父は本当のパン、ひとり子を与えてくださいます。」どうすれば受け取れるのでしょうか。節の続きがそれを語っています。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決していつかわくことがない。イエスのもとに来て、信じて、信頼することです。
- 単純なことなのに、36節でイエスは嘆かれます。「あなたがたはわたしを見たのに、信じようとしない。」彼らは奇跡を見て、パンを食べ、イエスの言葉を聞いたのに、信じないのです。
- これは私たちの心の何かを明らかにします。私たちは神の恵みを愛し、神の助けを求め、神のみわざを称賛しながら、本当は神を信頼したくないことがあるのです。「これもまた、私たちの罪の表れです。神の贈り物は欲しがりながら、与えてくださる方には逆らうのです。」
- そして37節の約束が来ます。「わたしに来る者を決して拒みはしない。」説教者は、ほかのどの箇所よりもこの節を強調します。すべてを理解した人でも、すでにすべてを変えることができた人でもなく、来る人です。私たちの不信仰を前にしても、イエスは私たちを呼び続けてくださいます。
- 長く信仰を持っている人にとって、健康、仕事、家族についての願いは、ときにまったく正当なものです。それでも、小さな祈りを付け加えることができます。「主よ、私が願うことを超えて、あなたご自身を慕い求めることも助けてください。」
- 39節と40節で、イエスは父が与えてくださった者をひとりも失わず、終わりの日、神が死者をよみがえらせる日に、彼らをよみがえらせると約束されます。今日のパンや数年の命だけを約束するのではなく、死でさえ奪えない命を与えてくださるのです。
5. 世の命のために与えられたパンを受け取る
- 41節から、人々はつぶやき始めます。荒野の出来事を思い出させます。イスラエルはマナを受けながら、神に向かってつぶやきました。今、本当のパンが目の前にあるのに、つぶやきがまた始まります。
- イエスは天から下って来たと言われますが、彼らは「あの人の家族なら知っている」と反論します。人としての出自は知っていても、天からの出自についてイエスが語ることは信じようとしません。
- 45節でイエスはイザヤの言葉を引用されます。「彼らはみな神に教えられるであろう」(イザヤ書54章13節)。父に耳を傾ける人は、イエスのもとに来ます。「私たちを御子へと導くのは神です。」
- 信じていない友人が、ときに言います。「私のために祈って。信じることができないんだ。」これは祈るためのすばらしい理由です。「主よ、私をあなたの御子へと導いてください。御子のもとに来て、信じることができるよう助けてください。」そして私たちが信じているのは、まだ求めている人々よりも優れているからではありません。神の恵みは、私たちを感謝深く、謙遜に、忍耐強くしてくれます。
- 49節でイエスは再びマナに触れます。「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。」そのパンは彼らを養いましたが、死に打ち勝つことはできませんでした。
- 51節。「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」これまでイエスはパンを与えてこられました。ここからは、ご自身を与えると告げられます。
- なぜでしょうか。たとえ養われ、癒やされても、私たちはいつか死にます。しかも私たちの問題はもっと深いところにあります。罪です。「私たちは神に聞かず、神を信頼せずに、自分のやり方で生きたいのです。」私たちは自分の罪を消すことも、自分に永遠の命を与えることもできません。救い主が必要なのです。
- ヨハネはここではまだ十字架には触れていませんが、19章で、イエスは十字架につけられることでこの賜物を成し遂げられます。「神の愛はここまで及ぶのです。」
6. 食べて飲む:イエスのもとに来て、信じる
- 52節で人々は問います。「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに食べさせることができようか。」53節でイエスは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はないと断言されます。イエスなしに永遠の命はありません。しかしイエスは、私たちがそれを受け取れるようにご自身を与えてくださるのです。
- 「それこそが、私が自分に問い続けていたことです」と説教者は打ち明けます。理解するために、彼は三つの節を並べます。35節では、来ることと信じること。47節では、信じる者は永遠の命を持つこと。54節では、食べて飲む者も同じ命を持つこと。
- 来ること、信じること、食べること、飲むことは、イエスを個人的に受け入れ、イエスに頼るようにとの招きです。肉と血についての言葉は、この命がイエスの命という代価によって私たちに与えられたことを思い起こさせます。
- ひとつのたとえが、すべてを具体的にします。ある人が飢えてかわいていて、目の前にパンと一杯の水があります。パンの作り方を知っていて、水の大切さを説明できても、食べず、飲まなければ、飢えとかわきはそのままです。「同じように、イエスについて知識があることは、まだイエスのもとに来て信じることではありません。」
- 57節。「わたしを食べる者も、わたしによって生きる。」そしてイエスは、終わりの日に私たちをよみがえらせると約束されます。これがイエスの差し出してくださるものです。イエスから受け、イエスとともに生き、死でさえ私たちから奪うことのできない命です。
7. では、これはあなたに何を変えるのか
- まだ信じていないなら、どうすればイエスのもとに行けるのかと思うかもしれません。「完全な者として来る必要はありません。自分にはイエスが必要だと認めてください。イエスの言葉に耳を傾け、信頼してください。」イエスの約束は今も変わりません。イエスのもとに来る者を、イエスは拒まれません。
- そして、長く信仰を持っている人には問いかけます。イエスは今も私たちの命のパンでしょうか。今日、そして永遠に、私たちが信頼を置く方でしょうか。
- 「私たちは教会で奉仕し、たくさんの聖句を知っていても、自分が宣べ伝えている方によって生きることを忘れてしまうことがあります。」聖書を開くときでさえ、私たちはただ学ぼうとしているのか、それともイエスをもっとよく知り、イエスを信頼しようとしているのか。
- 説教者は三つの文でまとめます。パンのその先を見なさい。父の本当の贈り物はイエスです。イエスのもとに来て、信じて、生きなさい。「私たちの必要をイエスのもとに持って行きましょう。イエスはそれを軽んじません。ただ、その贈り物でとどまらないようにしましょう。私たちに命を与えてくださる方を受け取りましょう。」
心に留めたいこと
- イエスのしるしは道路標識です。目的地ではなく、救い主へと導くものです。
- イエスはパンを配る存在に押し込められることはありません。私たちの願いや計画を、イエスに正していただく必要があります。
- 神のわざとは、神がつかわされた方を信じることです。イエスは方法ではなく、ご自身を与えてくださいます。
- イエスのもとに来る者を、イエスは拒まれません。すべてを理解した人ではなく、来る人です。
- イエスについて知っているだけでは足りません。イエスによって養われる必要があります。その命は、イエスの命という代価によって私たちに与えられ、死でさえそれを奪うことはできません。
個人的な適用
- 今、あなたはイエスに何を期待していますか。イエスがあなたのためにしてくださることですか。それともイエスご自身ですか。
- 神に代わって、すでに筋書きを書いてしまった祈りはありませんか。その願いをイエスに正していただいたら、どうなるでしょうか。
- 「この問題を解決してくださるなら、信じます」と言っている自分に気づくことはありませんか。あなたは神にどんな試験を課していますか。
- 今週、あなたの願いにこの祈りを付け加えられますか。「主よ、私が願うことを超えて、あなたご自身を慕い求めることを助けてください。」
- 聖書を開くとき、教会で奉仕するとき、あなたはイエスについてのことを学んでいるだけですか。それともイエスによって養われていますか。
引用された聖句
- ヨハネによる福音書6章1-59節
- ヨハネによる福音書6章5-14節
- 申命記18章15節
- ヨハネによる福音書6章15-21節
- ヨハネによる福音書6章26-40節
- イザヤ書54章13節
- ヨハネによる福音書6章41-59節
- ヨハネによる福音書19章
よくある質問
なぜヨハネはパンの奇跡を「しるし」と呼ぶのですか。
Césarによれば、しるしとは、イエスがどなたであるかを示す奇跡です。道路標識のように役には立ちますが、目的地ではありません。パンの奇跡は、私たちをパンで立ち止まらせるためではなく、救い主へと導くためのものです。
ヨハネ6章によれば、神のわざを行うために何をすべきですか。
群衆は、行うべきことのリストを求めます。イエスは29節で答えます。神のわざとは、神がつかわされた者を信じることです。天国にふさわしくなるための方法ではなく、ただひとりの方、イエスご自身へと導かれるのです。
イエスの肉を食べ、血を飲むとはどういう意味ですか。
Césarは35節、47節、54節を結びつけます。来ることと信じること、食べることと飲むことは、同じ永遠の命を与えます。これらのたとえは、イエスを個人的に受け入れ、イエスに頼るようにとの招きです。肉と血は、この命がイエスの命という代価によって私たちに与えられたことを思い起こさせます。