新しい皮袋を準備しましょう

読了時間 1分

はじめに

今から二千年前、イエス様は弟子たちに、とてもシンプルなたとえを話されました。誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋には入れない、というものです。当時は、誰もがそれを理解していました。今日では、このイメージは少し分かりにくくなっているかもしれませんが、そのメッセージは今もなお、切実な現実として迫ってきます。神様はあなたを新しいいのちで満たしたいと願っておられます。しかし、古い習慣に凝り固まったままの心には、そのいのちを注ぐことができないのです。

このメッセージの中で、ユディットはマタイ9:16〜17を開き、率直な問いを投げかけます。あなたは、神様が与えたいと願っておられるものを受け取る備えができていますか。あなたは、御霊の発酵を受け入れることのできる、しなやかな新しい皮袋でしょうか。それとも、自分自身の考え方、感じ方、生き方に固執したまま、硬直してしまっているのでしょうか。この問いへの答えは、永遠に関わる結果をもたらします。

記事の構成

1. 二つのたとえ、ひとつの警告

マタイ9:16〜17。「だれも、真新しい布切れで古い着物を繕ったりはしません。そんなつぎ切れは着物を引き裂き、破れをもっとひどくしてしまいます。人はまた、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。もしそんなことをしたら、皮袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。そうすれば、両方とも長もちします。」

二つのイメージが並べられていますが、これらは異なる二つのたとえです。一つ目は、一度も洗っていない新しい布切れです。それは水に触れると縮み、古い着物を引き裂いてしまいます。二つ目は、時間とともに硬くなった皮袋です。それは新しいぶどう酒の発酵にもう耐えられず、破裂してしまいます。どちらの場合も、すべてを失うことになります。古いものも、新しいものもです。

当時、これは誰もが知っていることでした。日常生活における当たり前の知恵だったのです。イエス様は、この当たり前の事実を用いて、霊的な真理を際立たせておられます。イエス様がもたらす新しいぶどう酒(御国の福音)は、ユダヤ教の律法主義という古い衣に注ぐことはできません。律法の行いによる義と、キリストへの信仰による義は、両立しないのです。皮袋も中身も、すべてを新しくしなければなりません。

2. 新しいぶどう酒とは、イエス様ご自身のこと

新しいぶどう酒とは、御国の福音のことです。それは、イエス様ご自身であり、その人格であり、その教えであり、あなたのために流された御血です。イエス様がこう語られたことを思い出してください。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに行くことはありません」(ヨハネ14:6)。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、この人は多くの実を結びます」(ヨハネ15:5)。

この新しいぶどう酒とは、イエス様の御血でもあります。聖餐にあずかるたびに、あなたはイエス様を覚えて杯を飲みます。この御血は、今日もなお発酵し続け、働き続け、変え続け、救い続けています。あなたはかけがえのない、尊い存在であり、神の御子がいのちを捨てるほどに愛されている存在です。あなたはそれを感じているでしょうか。たとえ感じられなくても、それは真実です。あなたは愛されているのです。

3. 古い皮袋とは、あなたの古い自分のこと

古い皮袋とは、あなたの感情、思考、習慣、肉の反応のことです。パウロは、はっきりとこう書いています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント第二5:17)。

これは真実です。しかし、そこには「もし」という条件があります。イエス様を受け入れたからといって、古い考え方が自動的に消えてなくなるわけではありません。あなたは救われていながら、なお不安を反芻し、肉に従って反応し、目に見えるものに心を揺さぶられ続けることがあります。牛が飼料を何度も何度も反芻するように、あなたも自分の心配事の中をぐるぐると巡ることがあります。それは祈りではありません。恐れを噛み続けているだけです。

なぜでしょうか。それは、そこに肉があるからです。肉とは、努力も思考もなしに、ひとりでに出てくるものです。自然と表に出てくる本性です。もしあなたが、積極的に御霊に従って生きることを選ばないなら、あなたは肉のほうへと滑り落ちていきます。だからこそ、毎日、自分自身にこう言い聞かせる必要があるのです。「まずイエス様。まず御霊。」御言葉をあなたのたましいに蒔き、自分自身の心に宣言し続けなければなりません。そうしなければ、忘れてしまうからです。

自分の感情を、なすがままにしないでください。自分の思考を、なすがままにしないでください。聖書は、どこにも「自分の感じるままに生きなさい」とは書いていません。聖書はこう語っています。「御言葉にしっかりと結びついていなさい。」

4. 逆転の法則

弟子たちは、政治的な王を待ち望んでいました。彼らには、その時が近づいているように見えていました。イスラエルはついにローマから解放され、イエス様は王として戴冠し、新しいユダヤの王国が打ち立てられる、と。それが、肉の目に見えていたことです。では、実際には何が起こったでしょうか。イエス様は十字架にかけられました。肉が喜びに沸いていた時、神様はその正反対のことを成し遂げておられたのです。すべてが終わったように見えた時、実はすべてが始まっていたのです。

この法則を心に留めておきましょう。御国の論理は、肉の論理とは正反対だということです。サタンはあなたにこう言うでしょう。「もう終わりだ。お前は年を取りすぎている。お金もない。周りにはもうクリスチャンなど残っていない。」しかし、まさにそこでこそ、イエス様は働いておられます。まさにそこでこそ、希望は再び生まれ得るのです。この逆転の法則を、あなたの心に刻んでおきましょう。

5. 「信じているのだから、きっと大丈夫」:それは半分の真実

多くのクリスチャンはこう言います。「私はイエス様を信じているのだから、きっとうまくいく。」これは、半分だけ真実です。くびきのことを思い出してください。あなたがイエス様とともにくびきを負う時、歩むのは誰でしょうか。あなたとイエス様です。ともにです。もしイエス様が「こちらへ来なさい」と言われているのに、あなたが「いいえ、私はあちらへ行きます」と答えるなら、あなたは牛車の進みを止めてしまいます。そしてあなたは、「大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫」とただ繰り返すだけになります。それは信仰ではありません。中身のない決まり文句です。

行いのない信仰は死んでいます。「イエス様は私の主人だ」と言いながら、その主人に従わないなら、それは弟子であることではなく、悪いしもべであることです。問題は、決してイエス様の側にあるのではありません。問題は、あなたの側、私の側にあるのです。イエス様にしっかりと結びつき、その歩みのあとをついていくのは、私たち自身の責任なのです。

イエス様は、誰にも無理強いをなさいません。イエス様はあなたを、自由な存在として、神のかたちとして、生きた息吹として造ってくださいました。そしてイエス様が注意深く見ておられるのは、あなたが何をするか、何を食べるか、何を身にまとうかではなく、あなたがどのような者になっていくかです。what to doではなく、what to beです。あなたの心のあり方、その奥にある動機、あなたの行動を動かしている愛です。

6. 新しい皮袋とは、あなたの内にあるイエス様の心のこと

ガラテヤ2:19〜20。「私は、神に対して生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子に対する信仰によって、生きているのです。」

これは、あなたの死亡証明書であると同時に、復活証明書でもあります。あなたは、古い自分に対して死んだのです。もはや自分の意見を主張し続けることも、自分の感じ方を中心に世界を回すこともありません。今、あなたの内に生きているのは、キリストです。キリストの御言葉、キリストの心、キリストの御霊です。あなたはこのことを、何度も何度も自分自身に宣言し続けなければなりません。そうしなければ、忘れてしまうからです。

パウロ自身も、別の箇所でこう書いています。「私は、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと思うことは行わず、かえって憎んでいることを行っているからです」(ローマ7:15)。パウロでさえ、格闘していたのです。あなたも同じように格闘するでしょう。それはまるで、もぐらたたきのようなものです。ひとつの肉的な思いを叩き潰しても、また別のところから顔を出します。庭の雑草のようなものです。刈っても、また生えてきます。それでも、また刈らなければなりません。

7. 皮袋がはじける時:愛のない賜物の危険性

ここが、このメッセージの核心です。もしあなたに愛がなければ、御言葉から来る聖さがなければ、たとえ御霊の賜物が注がれたとしても、それはあなたを滅ぼしてしまいます。新しいぶどう酒が、あなたの古い皮袋を破裂させてしまうのです。多くの人がこう祈ります。「主よ、力を与えてください。いやしの賜物を、奇跡の賜物を、預言の賜物を与えてください。」しかし神様は、いつもそれに答えてくださるわけではありません。なぜでしょうか。それは、あなたを霊的に滅ぼしてしまうような力を与えるには、神様があなたを愛しすぎておられるからです。

もしあなたが、まだ人々のたましいを愛することを学んでいないなら、強力な霊的賜物は、あなたの高慢を膨らませてしまう危険があります。あなたは頑なになり、傲慢になり、自分自身にとっても、他の人にとっても危険な存在になってしまうでしょう。使徒パウロは、はっきりとこう言っています。「信仰、希望、愛、この三つはいつまでも残ります。その中で一番すぐれているのは愛です」(コリント第一13:13)。愛がないままに、何時間も異言で祈ったり、何日も断食したりすることは、神様の目には愚かなことに映るのです。

最も大切な賜物は、愛です。神様の愛に打ちのめされ、頭を上げることさえできなくなるほどの経験をした人は、その愛を、人を裁くためにも、お金を巻き上げるためにも、自分を目立たせるためにも用いることはありません。

8. もし目に見える賜物がないとしたら

答えはこうです。あなたにはイエス様の御名があります。それだけで、すでに十分なのです。「美しの門」でのペテロのことを思い出してください。「金銀は私にはないが、私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって、あなたに命じる。立ち上がって歩きなさい」(使徒3:6)。あなたには、イエス様の御名によって祈る権威が与えられています。そして、あなたがその御名によって祈る時、実際に働かれるのはどなたでしょうか。イエス様です。聖霊様です。あなたにいやしの賜物がなくても、イエス様の御名によって祈るなら、そのあとのこと、すなわち方法、時、形については、イエス様がご自身で責任を持ってくださいます。

時に、イエス様はいやしてくださいます。時に、パウロに対してそうされたように、こう答えられます。「わたしの恵みはあなたに十分である」(コリント第二12:9)。いずれにしても、あなたが拠り頼む御名は、イエス様です。あなたが結びついているくびきの相手も、イエス様です。大切なのは、イエス様との親しい交わりなのです。

9. 新しい皮袋を準備する:イエス様ご自身を求めること

新しい皮袋を準備するとは、何時間も祈って賜物を勝ち取ろうとすることではありません。それは、イエス様に近づくことです。イエス様の御言葉を愛することです。イエス様がどのような方であるかを知りたいと願うことです。イエス様ご自身にはかっていただくことです。「主よ、私に足りないものは何ですか。私に余分なものは何ですか。私はどこで聖くならなければなりませんか。」

それは、心の奥底で続けられる対話です。「イエス様、これでいいですか。イエス様、どう思われますか。御言葉にはこう書いてありますが、私はまっすぐに歩んでいるでしょうか。」この親密さ、この近さこそが、新しい皮袋を織りなす生地です。賜物は、神様がふさわしいと判断された時に、ご自分が備えられた器を通して分け与えてくださいます。大切な器とは、キリストと一つに結ばれた心なのです。

10. マタイ7:21〜24:厳粛な警告

イエス様ご自身がこう言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちは、あなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう告白します。『わたしはあなたがたを全く知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(マタイ7:21〜23)。

そして続く24節にはこうあります。「ですから、だれでもわたしのこれらのことばを聞いて行う人はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」大切なのは、まさにこの点です。聞くこと、そして行うことです。従順という種を蒔くことです。そうしなければ、あなたは預言し、悪霊を追い出し、大勢の人に語ったとしても、終わりの日にイエス様に知られていない者となる可能性があります。パウロ自身もこう言っています。「私は、ほかの人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにと、自分のからだを打ちたたいて服従させています」(コリント第一9:27)。

11. 私たちの時代の大きな危険:霊的な偽り

ユディットは、率直に警告します。彼女は、砕かれる経験を通ることなく霊的な賜物を受け取った人々が、最終的に占いの霊に取りつかれ、悪霊の道具となってしまった姿を、自分の目で見てきました。彼らは、自分自身の考え、神様の声、サタンの声、人間の声を見分けることができなくなっていました。彼らは聞いてはいますが、何でも聞こえてしまうのです。

彼女はまた、偽預言者たちのある手口についても語っています。彼らは、アナニアとサッピラの箇所(使徒5:1〜6)を利用して、お金を巻き上げようとするのです。「すべてを献げなければ、あなたもアナニアとサッピラのように死ぬことになる。」注意してください。聖書において、神様がアナニアとサッピラを裁かれたのは、彼らが聖霊に対して嘘をついたからであって、十分な額を献げなかったからではありません。誰かがこの箇所を持ち出してあなたに金銭的な圧力をかけてくる時は、警戒してください。ユディットは、この種の人物に二度直面したことがあると言います。彼女ははっきりとこう呼びます。それは、偽預言者である、と。

12. 救いと奉仕の違い

これを心に留めておいてください。奉仕のために賜物を受け取ることと、救われることは、同じではありません。これらは、それぞれ別の事柄です。あなたの最終的な目的は、永遠のいのちです。あなたの奉仕は、天における報いです。この二つを混同してしまうと、神様の御業を行っていると信じながら、自分のたましいを失ってしまうことがあり得ます。

神様は、他の人を救うためにあなたを失ってしまうことを望んではおられません。神様は、九十九匹の羊を残して、迷い出た一匹を捜しに行く羊飼いです。神様は、あなたを求めておられます。そして、あなたが届けることのできる人々をも求めておられます。その両方をです。

13. 立ち続けるための武具

エペソ6:10〜18。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。神のすべての武具を身に着けなさい……ですから、しっかりと立ちなさい。真理の帯を腰に締め、正義の胸当てを着け、平和の福音の備えを足に履き、それに加えて、信仰の盾を取りなさい……また、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。すべての祈りと願いによって、あらゆる時に御霊によって祈りなさい。」

そしてコロサイ3:14。「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として全きものです。」愛こそが、すべての武具を一つにまとめる帯なのです。これが新しい皮袋です。愛を着け、真理を帯とし、福音を運ぶ履物を履き、御言葉の剣を手にする心です。

14. リバイバルがやって来る

このメッセージの締めくくりは、ひとつの叫びです。ユディットは力強くこう語ります。日本にリバイバルが訪れる。世界にリバイバルが訪れる、と。そしてリバイバルは、おもちゃではありません。おもちゃの武器で立ち向かえるものではないのです。備えをしていない人は、それに気づくことさえないまま通り過ぎてしまうでしょう。信仰は、一人ひとり個人的なものです。イエス様を受け入れることも、個人的なことです。武具を身に着けることも、個人的なことなのです。

新しい皮袋になりましょう。備えましょう。しなやかで、へりくだり、従順で、愛に満たされた者となりましょう。新しいぶどう酒が、今、届こうとしています。

覚えておきたいポイント

  • 新しいぶどう酒とは、イエス様ご自身とその福音のことです。古い皮袋とは、あなたの肉にある古い自分のことです。
  • イエス様を受け入れても、古い習慣が自動的に消えるわけではありません。毎日、「まずイエス様」を選び取る必要があります。
  • 愛がなければ、どんな霊的な賜物も、あなたを滅ぼすことなく注がれることはできません。皮袋が破裂してしまうからです。
  • 目に見える賜物がなくても、あなたにはイエス様の御名があります。それだけで、神様の力の中で行動するには十分なのです。
  • 行いのない信仰は死んでいます。御言葉を聞き、それを行うことが、あなたの家を岩の上に建てることになります。

自分への適用

  • あなたの人生の中で、繰り返し戻ってきて、新しいぶどう酒が働くのを妨げている古い思考の習慣とは何でしょうか。
  • あなたは本当にイエス様とともにくびきを負っていますか。それとも、別の方向へ引っ張りながら、「大丈夫」とただ繰り返しているだけでしょうか。
  • 今日、あなたは神様にどんな賜物を求めていますか。そして、それはなぜですか。あなたの動機は、愛によってきよめられているでしょうか。
  • あなたは日々、どのようにイエス様との親しい交わりを養っていますか。御言葉を読むこと、祈ること、それを実践することを通してでしょうか。
  • あなたは、しなやかになるために砕かれることを受け入れる備えができていますか。それとも、自分のやり方に固執しているでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

「新しい皮袋を準備する」とは、具体的にどういう意味ですか。

それは、賜物を勝ち取ろうと、より熱心に祈ることではありません。それは、日々イエス様に近づくことです。御言葉を読み、それを実践し、御霊にあなたの動機を正していただき、人々のたましいを愛することを学ぶことです。霊的なしなやかさは、キリストとの親しい交わりの中で育まれていきます。

なぜ神様は、私が求めている力強い賜物を与えてくださらないのですか。

それはおそらく、あなたを滅ぼしてしまうようなものを与えるには、神様があなたを愛しすぎておられるからでしょう。愛と謙遜がなければ、力強い賜物は高慢を膨らませ、あなたを倒れさせてしまうことがあります。神様はしばしば、器が備えられるのを待ってから、それを満たしてくださいます。それまでの間、神様はもっと良いものを与えてくださっています。それは、神様ご自身の臨在と、その御名です。

神様に仕えることで、本当に「自分を失う」ことがあり得るのですか。

はい、あなたが自分の奉仕と救いを混同してしまうなら、あり得ることです。マタイ7:21〜23は、はっきりとこう語っています。イエス様の名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行うことができても、イエス様に知られていない者でありうる、と。親しい交わりも、従順も、愛もない奉仕は、救い主との関係の代わりにはならないのです。

メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。

関連記事

説教の公開元 Efficient Church. 説教全体を見る のチャンネルで.

← ブログに戻る

新しい皮袋を準備しましょう | Efficient Church