はじめに
「ああ、わたしはどんなにあなたのおきてを愛することでしょう。わたしは終日これを思う。」ミュルーズのラ・ポルト・ウーヴェルト・クレティエンヌ教会のバンジャマン・ペテルシュミット牧師は、詩篇119篇のこの一節から語り始めます。詩人は、どれだけ学んだか、どれだけ敬っているか、どれだけ信じているかとは言いません。どれだけ愛しているかを語っているのです。
新しいシーズンが始まってから、教会はキリスト者の歩みの土台に立ち返ってきました。信仰、知恵、新しい創造です。この日曜日のテーマは御言葉でした。牧師は、「もっと聖書を読まなければ」という一言にまとめられるメッセージにはしたくないと言います。代わりに、こう問いかけます。「なぜもっと神の言葉を読まないのでしょうか。」その答えは、多くの場合「御言葉がどのようなものかを私たちが悟っていないから」だといいます。
それを示すために、牧師は聖書から四つのイメージを取り上げます。御言葉は、種であり、巻物であり、剣であり、ともしびです。
メッセージの流れ
1. 家には聖書があふれているのに、閉じられたままになっている
- 詩篇1篇は、御言葉を思い巡らす人を描いています。その人は水の流れのほとりに植えられた木のようで、季節にかなって実を結び、その葉は枯れません。
- 1685年にナントの勅令が廃止された後、フランスのプロテスタントは谷間や溝、納屋に集まり、多いときには3,000人が御言葉を読み、思い巡らしました。語られたメッセージは書き写され、各家庭で読み返されました。
- 家族は聖書に浸っていました。みなで一緒に読み、子どもたちには暗唱させました。聖書は禁じられていたので、戸棚に隠し、詩篇の小さな冊子を髪の束ねた部分に隠す女性たちもいました。
- 牧師は毎朝、コーヒーと御言葉から一日を始めます。最大の喜びは、家のみなが聖書を手に取り、ときには絵本や漫画の聖書も使って、家族全員が食卓を囲んで静かに読んでいるときだといいます。そして親たちにこう勧めます。「あなたがたこそ、この継承の第一の担い手です。」日曜学校だけに任せてはいけないのです。
- 今日、私たちにはあらゆる大きさの聖書があり、複数の翻訳があり、音声版も絵入りの版もあります。「それなのに、聖書はもうそれほど開かれていません。何が起きたのでしょうか。」
- 5月から8月にかけて、牧師は聖書全体を3か月半で読み通しました。ときには音声聖書も使いました。問題は形式でも、読む節の数でもありません。「あなたは本当に、読みたいと渇いていますか。」
2. 御言葉は種である
- 「この譬はこういう意味である。種は神の言である」(ルカ8:11)。種を蒔く方は神ご自身です。御言葉が私たちの心に蒔かれ、実を結ぶことが父のみこころです。
- 種は小さくても、いのちのすべての可能性を宿しています。信仰は聞くことから始まり、聞くことは御言葉から来ます(ローマ10:17)。私たちは、朽ちない種、すなわち生きていつまでも変わらない神の言葉によって新しく生まれました(ペテロの第一の手紙1:23)。
- 道ばた。仕事も、メッセージも、緊急の用事も、さまざまな要求も、「1000キロの速さで走る私たちの社会」の中で次々と通り過ぎていきます。種が下に染み込んで休む時間がなければ、踏みつけられてしまいます。牧師はこう例えます。新しいシーズン最初の説教から1か月後、その主題を覚えている人はほとんどいませんでした。
- 石地。根が水分を得られず、枯れてしまいます。「何かを湿ったままに保つには、乾く時間を与えてはいけません。」だからこそ、毎日御言葉のそばにいる必要があるのです。
- 牧師は、自分のインスタグラムで行ったアンケートを紹介します。271件の回答のうち、毎日聖書を読む人は134人、49%でした。さらに、アメリカのプロテスタント2,130人を対象にしたライフウェイ・リサーチの調査も挙げます。毎日聖書を読む人は31%でしたが、聖書が人生のあらゆる面で権威を持つと答えた人は74%でした。「それは幻想です。」聖書は、近づかない人生の中で権威を発揮することはできないからです。
- いばら。思い煩い、富、快楽は、今日では不安、気を散らすもの、画面に当たります。牧師はオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に触れます。そこでは図書館は開いているのに、もう誰も行きたがりません。「読むことにこれほど多くの妨げがあるのは、御言葉に力があるからです。」
- 良い地。正直で良い心で御言葉を聞き、それを保ち、忍耐して実を結ぶ人です。聞くだけでは足りません。内側にしっかり保たなければならないのです。
3. 御言葉は食べる巻物である
- エゼキエル書3章1節から3節で、神は預言者にこの巻物を食べるようにと言われます。見るように、書き写すように、宣言するようにとも言えたはずです。けれども、まず自分の内に入らなければならないのです。
- エレミヤは、神の言葉を見いだしたとき、それを食べたと語ります(エレミヤ書15:16)。聖書は御言葉を「読む」という言い方ではあまり語りません。御言葉に結びつく、心に抱きしめる、食べる、愛するという言い方をします。「『もっと読まなければ』と言うのをやめましょう。『もっと愛している』と言いましょう。」
- むさぼり食うとはどういうことかを知るには、おなかをすかせた子どもを見てください。そこには決まりごとも礼儀もありません。牧師は、最初の聖書の学びの会場が3倍も狭すぎたことを喜び、教会が「御言葉をむさぼる教会」として知られるようになることを願っています。
- 牧師は御言葉を消化にたとえます。摂取、消化、吸収、配分、同化です。イエスご自身も、別の食べ物について語られました(ヨハネ4:32)。読むこと、説教、聞くことを通して取り入れます。そして思い巡らしによって噛みしめます。「神の言葉は、あなたが聖書を閉じたあとも働き続けます。」
- 御言葉は、私たちの疑いや知性の限界、恐れの壁を通り抜けます。そして、喜び、平安、御霊の実と賜物、私たちの言葉、決断、人間関係、誘惑との戦いを養います。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしましょう(コロサイ3:16)。
- 余談として、牧師は紙の聖書を持って教会や青年グループに戻ってくるよう勧めます。学生のころは、いつも聖書を持ち歩き、空き時間に開いていたそうです。
- 「あなたのみ言葉はわたしの上あごに、いかに甘いことでしょう。わたしの口には蜜にまさって甘いのです」(詩篇119:103)。すぐにすべてを理解できるわけではありませんが、目的はまず知性ではなく、魂と霊にあります。
- 黙示録10章10節では、小さな巻物はヨハネの口には蜜のように甘く、腹には苦くなりました。御言葉は、罪の重大さと失われた人々の状況を気づかせます。「失われた人々への重荷があなたの内に生まれないなら、御言葉を宣べ伝えることはできません。」この苦さが、私たちを苦々しいクリスチャンにしてはなりません。私たちが変えられ、ほかの人に御言葉を宣言するために、これを取り入れるのです。
4. 御言葉は、まずあなたの内側で働く剣である
- 神の言葉は生きていて力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるほどに刺し通し、心の思いやはかりごとを見分けます(ヘブル4:12)。
- 私たちはまず、敵に向かう武器を思い浮かべます。しかしここでは、剣は内側で働きます。「私たちの最初の敵は、自分自身」だからです。高ぶり、妥協、言い訳がその例です。心は何にもまして偽るものであり(エレミヤ書17:9)、パウロもこう告白しています。「わたしは、自分の欲する善はしないで、欲しない悪は、これを行っている」(ローマ7:19)。
- 牧師は、結婚したばかりのころの話をします。あまり感情を表に出さない牧師は、何かあると妻が感じ取っても「いや、何でもない」と答えていました。自分でもまだそれを言葉にできなかっただけなのです。口論は、ある日妻がこう言うまで続きました。「それが何か分からないときは、ただ何かあると言ってくれればいいの。」私たちは複雑な存在であり、御言葉は、言葉ではたどり着きにくい深いところまで届きます。
- 心の傷、育ちによる思い込み、世の中の誤った受け取り方。牧師は、セラピーや心理士、寄り添う支援を信じており、自分自身もそれを経験したと語ります。「けれども、心の中を整理する力において、神の言葉に勝るものはありません。」最初の一歩は、御言葉のそばにいることです。
- 「わたしはあなたに向かって罪を犯すことのないように、あなたのみ言葉をわが心にたくわえました」(詩篇119:11)。剣は私たちを戒め、聖化の道にとどまれるようにしてくれます。
5. 敵に立ち向かうための御霊の剣
- 「また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神の言を受け取りなさい」(エペソ6:17)。水の上を動いておられた御霊、御子をよみがえらせ、最初の教会を満たした御霊は、一つの武器を持っておられ、それを私たちに託してくださいます。
- イエスは誘惑に直面したとき、この剣を用いられました(マタイ4章)。「あなたは、魂の敵に向かってそれを使っていますか。」牧師は、自分は聖書の箇所を覚えるのが苦手だと打ち明けます。箇所の指定も役に立ちますが、戦いで救ってくれるのは、御言葉を内側で知っていることです。
- ネヘミヤの時代、建てる者たちは片手で働き、もう片方の手に武器を持っていました(ネヘミヤ記4:17)。必要なときにそばにない剣が、何の役に立つでしょうか。
- 敵はサタンだけではありません。病気、迫りくる離婚、息子の無神論、疑い、恐れ、戦争と戦争のうわさもあります。
- 牧師は、ストラスブールの病院を訪ねたときのことを語ります。教会で祈ってきた赤ちゃんが心臓の手術を受けることになり、その母親を見舞ったのです。ベビーベッドのそばに座り、牧師は詩篇18篇を、読むためではなく剣として取りました。神が救いの盾を与え、戦いのために力で武装させてくださるという言葉を宣言したのです。病室は霊的な戦いの場となりました。手術はとてもうまくいき、月曜日に手術を受けた赤ちゃんは、翌週の水曜日には家に帰っていました。医師によれば、このまま回復を続ければ、もう心臓の手術は必要ないということです。
- 「泣くのに時があり、戦うのにも時があります。」離婚に直面したときは、神が結び合わせたものを人が引き離してはならず、三つ撚りの綱は簡単には切れません。神から遠ざかった息子に直面したときは、「わたしとわたしの家とは主に仕えます。」神は、あなたが勝利を得るために備えてくださっています。
6. 御言葉は、次の一歩を照らすともしびである
- 「あなたのみ言葉は、わが足のともしび、わが道の光です」(詩篇119:105)。悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ世の中で、御言葉は、光と闇、善と悪、真実と偽りを見分けさせてくれます。
- サタンは光の御使いに変装します。社会の問題に向き合うとき、牧師はいつも、自分が何に立っているかを最初に述べます。家庭、男性と女性、時事問題について、御言葉が自分の土台です。上からの知恵は、まず清く、次に平和です(ヤコブ3:17)。
- 牧師は、母親がイスラエルから持ち帰った油のランプを見せます。「10ギガワット」の懐中電灯ではありません。遠くまでは照らさない小さな炎です。「御言葉は次の一歩を照らします。そして信仰によって歩むとは、次の一歩を踏み出せるということです。」
- 私たちはときに、神に今後10年の道筋を求めます。しかし御言葉はともしびであり、「工事現場の巨大な投光器」ではありません。一歩ずつ進むためには、そのすぐそばにいなければなりません。
- ベレヤのユダヤ人たちは、御言葉を熱心に受け入れ、毎日聖書を調べました(使徒行伝17:11)。牧師は、教会が彼らのようになることを願っています。闇が深まっているからです。「今日、神の言葉のそばにいないなら、そばにいることを禁じられたとき、どうなるでしょうか。」
7. 御言葉の真珠を味わう
- 牧師はスポルジョンの言葉を引用します。「聖句の一つ一つは、多くの面を持つダイヤモンドのようです。」
- 最初の真珠は、ランプの油です。ゲツセマネは、オリーブ油を搾る場所だった可能性が非常に高いといわれます。油は、王、預言者、祭司を清め、油注ぎをするために使われました。イエスはそこで、汗が血のしずくのようになるほどに搾られました(ルカ22:44)。イエスは王の王、メルキゼデクの位に等しい大祭司、預言を成就する方です。十字架の上で、この油は私たちを清めるために注がれました。
- 二つ目の真珠は、出産の前後にお子さんを亡くした家族のためのものです。長い間、牧師には彼らに伝える聖句がありませんでした。そんなとき、イエスのこの言葉を受け取りました。「幼な子らをわたしのところに来させなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である」(マルコ10:14)。「この幼な子たちは神の国にいます。そう宣言しているのが御言葉です。」
- 牧師の結論はこうです。もっと読もうと決心してほしいとは言いません。「それは意味がありません。」牧師の祈りは、「主よ、御言葉への愛を再び与えてください」というものです。
ポイントのまとめ
- 詩人は「あなたのおきてをどれだけ学んでいるか」ではなく、「どんなに愛することでしょう」と語ります。本当の問題は読む量ではなく、御言葉への愛と渇きです。
- 御言葉は種です。下に染み込むための時間、根を保つための毎日の水分、実を結ぶためのいばらのない場所が必要です。
- エゼキエルのように、巻物を食べる必要があります。思い巡らすと、御言葉は聖書を閉じたあとも働き続けます。それは甘く、失われた人々への重荷を生み出します。
- 剣はまずあなたの内側で働き、心の中を整理します。そのあと、病気、恐れ、家庭の危機に立ち向かう御霊の武器となります。
- 御言葉は投光器ではなくともしびです。そのすぐそばにいる限り、次の一歩を照らしてくれます。
私たちへの問いかけ
- もし手を挙げて、どのくらいの頻度で聖書を読んでいるかと尋ねられたら、正直なところ、どう答えたでしょうか。
- 今、あなたの毎日の中で、御言葉の場所を奪っているいばら(思い煩い、画面、気を散らすもの)は何ですか。
- 読んだあと、読んだ内容を「噛みしめる」時間を取っていますか。今週読んだ箇所で、覚えているのはどの箇所ですか。
- 今あなたが向き合っている敵は何ですか。その状況に向かって宣言するために、剣として取れる箇所はどこですか。
- 心から神に「あなたの御言葉を愛しています」と言えますか。言えないなら、その愛をもう一度与えてくださいと、思い切って願ってみましょう。
引用された聖句
- 詩篇119篇97節
- 詩篇1篇1節から3節
- ルカの福音書8章4節から15節
- ローマ人への手紙10章17節
- ペテロの第一の手紙1章23節
- エゼキエル書3章1節から3節
- エレミヤ書15章16節
- ヨハネの福音書4章32節
- コロサイ人への手紙3章16節
- 詩篇119篇103節
- ヨハネの黙示録10章10節
- ヘブル人への手紙4章12節
- エレミヤ書17章9節
- ローマ人への手紙7章19節
- 詩篇119篇11節
- エペソ人への手紙6章17節
- マタイの福音書4章1節から11節
- ネヘミヤ記4章17節
- 詩篇18篇
- マルコの福音書10章9節
- 伝道者の書4章12節
- ヨシュア記24章15節
- 詩篇119篇105節
- イザヤ書5章20節
- コリント人への手紙第二11章14節
- ヤコブの手紙3章17節
- 使徒の働き17章11節
- ルカの福音書22章44節
- ヘブル人への手紙5章6節
- マルコの福音書10章14節
よくある質問
詩篇119篇の「どんなにあなたのおきてを愛することでしょう」とはどういう意味ですか。
バンジャマン・ペテルシュミット牧師によれば、詩人は「どれだけ学んでいるか」「どれだけ敬っているか」「どれだけ信じているか」とは言わず、「どんなに愛することでしょう」と語っています。御言葉との関係は、知的な努力にとどまりません。御言葉に結びつき、心に抱きしめ、一人の人を愛するように愛することができるのです。
なぜ御言葉は、食べなければならない巻物にたとえられるのですか。
エゼキエル書3章で、神は預言者に巻物を見るようにとも、書き写すようにとも言わず、食べるようにと言われました。御言葉は、まず私たちの内に入らなければなりません。それは蜜のように甘いのですが、黙示録10章ではやがて苦くなります。罪の重大さに気づかせ、失われた人々への重荷を生み出すからです。
なぜ御言葉は投光器ではなくともしびなのですか。
古代の油のランプは、あまり遠くまでは照らしませんでした。バンジャマン・ペテルシュミット牧師によれば、御言葉は次の一歩を照らし、信仰によって歩むとはその一歩を踏み出すことです。神は必ずしも今後10年を示されるわけではありません。今日を照らし、次に明日を照らしてくださいます。そのためには、御言葉のそばにいることが必要です。