聖書 — 口語訳 (1955)

ローマ人への手紙 4

概要

ローマ人への手紙4章で、パウロはアブラハムを証拠として、義認は行いではなく信仰によることを示します。アブラハムは割礼を受ける前に神を信じ、それが義と認められました。ダビデは、人の幸福とは赦されることだと裏づけます。約束は恵みに基づくので、信じるすべての人に確かなものとして保証されます。最後にパウロは、不可能を前にしたアブラハムの信仰を描き、よみがえられたイエスに信頼する信者に当てはめます。

この章の5つの区分

  1. 1-8節アブラハムとダビデ:行いによらず受ける義
  2. 9-12節割礼の前に:信じるすべての人の父アブラハム
  3. 13-17節信仰による約束、それは恵みによるため
  4. 18-22節望み得ないのに望む:アブラハムの信仰
  5. 23-25節わたしたちのためにも:死に渡され、よみがえられたイエス

1それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。

2もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。

3なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

4いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。

5しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

6ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、

7「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。

8罪を主に認められない人は、さいわいである」。

9さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。

10それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。

11そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、

12かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。

13なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。

14もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。

15いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。

16このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、

17「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。

18彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。

19すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。

20彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、

21神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。

22だから、彼は義と認められたのである。

23しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、

24わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。

25主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

鍵となる聖句

3節
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

パウロは創世記を引きます。アブラハムは神を信じ、それが義と認められました。義は努力で得る報酬ではなく、信頼によって受けるものです。

5節
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

神は、自分の行いに頼らず信じる者を義とされます。この節は救いが無償であることを強調します。神は、それにふさわしくない人々に向かっておられます。

18-21節
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。

パウロは、不可能を前にしたアブラハムの信仰を描きます。からだは衰え、妻には子がありません。確信の根拠は自分の力ではなく、神が約束を成就できるという点にあります。

25節
主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

イエスは、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされました。この節はパウロの福音を要約しています。十字架が罪を処理し、復活は神がイエスの働きを受け入れたことを確証します。

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説教が語っていること

生ける希望:すべてが死んだように見える朝に説教者はローマ人への手紙4章18節から20節を引き、約束が遅れ、すべてが死んだように見えるときに、アブラハムのように望み得ないのに望むことを語ります。要約を読む →アブラハムの祝福――神とともに歩み出すステファン・ギレは、アブラハムを信じるすべての人の父として紹介します(ローマ人への手紙4章11節)。行動する信仰とは、状況が逆に見えるときも神の約束に結びつくことです。要約を読む →すべてがあなたを諦めさせようとする時に希望を選ぶ説教者は4章18節に触れ、アブラハムは望み得ないのに望んだと語ります。サライがハガルを用いたように、約束を捨てたり、自分の手で成就させようとしたりしないよう勧めています。要約を読む →イエスの復活の力、7つの側面から見つめるこの説教は4章24節と25節から、復活を、神がイエスのいけにえを受け入れられた証拠として示します。そこに、信じる者の義認を見ています。要約を読む →義のためのみわざ ― イエスが来られた理由フランツ・エスティヴェーヌは25節を三つの点で説明します。イエスはわたしたちの罪を負い、負債を払い、新しいいのちを与えるためによみがえられました。それは信仰によって受ける義によるのです。要約を読む →

ローマ人への手紙4章についてよくある質問

ローマ人への手紙4章の信仰による義認とはどういう意味ですか

義とされるとは、神の前で義と宣言されることです。パウロは、それが行いによって得られるものではないと説明します。アブラハムは神を信じ、その信頼が義と認められたのです。プロテスタントにとって、これは福音の中心です。他の伝統は、その後に続く変えられることも強調します。恵みが神から来ることは、すべての人が認めています。

なぜパウロは割礼の前のアブラハムについて語るのですか

アブラハムは、割礼を受ける前に義と宣言されました。したがって、割礼は彼の義の原因ではなく、すでに信仰によって受けていた義のしるしです。パウロは、アブラハムが割礼を受けた者も受けていない者も含め、信じるすべての人の父であると結論します。

望み得ないのに望むとはどういう意味ですか

18節でパウロは、人間的にはすべてが不可能に見えるのに、多くの子孫という約束を信じたアブラハムを描きます。彼のからだは衰え、サラはもう子を産めません。彼は現実を否定せず、神が約束を果たす力に拠りどころを置いたのです。

ローマ人への手紙4章25節はどういう意味ですか

イエスは、わたしたちの罪過のために死に渡されました。十字架で罪責を負われたのです。そして、わたしたちが義とされるためによみがえられました。その復活は、神がイエスのいけにえを受け入れ、信じる者を義と宣言されることを確証します。この二つは一つで、十字架と復活が一つの救いの出来事となっています。

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