はじめに
このメッセージは、2026年10月13日、日本の大阪オンヌリキリスト教会の早天礼拝で語られました。この日の聖書箇所は、歴代志上24章の1節から31節、章全体です。
説教者は率直に認めています。この箇所は、誰も知らない名前が次々と並ぶ箇所です。なぜ聖書にこれほど多くの名前が載っているのかと、疑問に思うかもしれません。しかし、単調に見えるこの箇所には、神に仕えるすべての人への大切なメッセージが隠されている、と彼は語ります。この朝のタイトルは、この章を一言で表しています。くじによる職務の割り当てです。
説教者はここから二つの教えを引き出します。一つ目は、神のみわざの中で、一人ひとりに役割が与えられているということ。二つ目は、自分の願いよりも神の秩序を尊ぶべきだということです。そして、メッセージ全体を貫く確信があります。大切なのは、自分の望む場所に立つことではなく、主が今日あなたに委ねてくださった場所で、ふさわしい心とふさわしい姿勢で主に仕えることです。
メッセージの流れ
1. もし教会での奉仕がくじで決まるとしたら?
- 説教者は、シンプルな問いかけから始めます。教会では、一人ひとりが働きの一部を担っています。もし、そのすべての奉仕がくじ引きで割り当てられるとしたらどうでしょう。「時々、それが必要かもしれないと思うこともあります」と、彼はユーモアを交えて語ります。
- しかし、すぐに人々の反応を思い描きます。「私はあの奉仕をしたかったのに」。あるいは、「どうしてあの人はあんなに重要な役割をもらって、私はこれだけなのだろう」。そんな思いは、きっと多くの人の心に生まれるでしょう。
- もちろん、彼の教会ではくじで奉仕を決めたりはしません。それぞれが、与えられた賜物と情熱に応じて仕えています。そして私たちは皆、自分が心地よく感じる場所、得意な分野、好きなこと、働きが認められる場所で仕えたいと思うものです。
- それ自体は悪いことではない、と説教者は言います。しかし信仰の歩みにおいて、本質は、望む場所に立つこととは限りません。大切なのは、神が今私たちに委ねてくださった場所で、どんな心、どんな思い、どんな姿勢で主に仕えているかです。
- まさにそれを示しているのが歴代志上24章です。祭司たちの職務は、それぞれがしたいことに従ってではなく、くじによって定められました。
2. 主の家で仕える二十四の組
- 1節から5節には、アロンの子孫である祭司たちが、職務ごとに分けられる様子が記されています。アロンには四人の息子がいました。ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルです。ナダブとアビウは父より先に死に、子がいませんでした。そのため祭司職は、エレアザルとイタマルの子孫によって受け継がれました。
- ダビデは、エレアザルの子孫のザドクと、イタマルの子孫のアヒメレクの助けを得て、祭司たちをいくつかの組に分けます(3節)。エレアザルの子孫には家長の数が多かったので、その側に十六の組、イタマルの側に八つの組が作られ、合わせて二十四の組となりました(4節)。
- 説教者はこの点を強調します。祭司たちは組に分けられ、それぞれが神への奉仕の一部を担います。全員が同じ時に同じ役割を果たすわけではありません。責任があり、奉仕の順番があり、それぞれに果たすべき務めがあるのです。
- つまり、神にささげる礼拝を支えるために、それぞれが自分の組とともに、委ねられた役割を引き受けていたのです。7節から18節には、くじで定められた順に二十四の組が挙げられ、20節から31節には、ほかのレビ人の割り当ても同じように記されています。
- この人々はみな、順番に従って仕え、それぞれが割り当てられた務めを担った、と説教者は結びます。その名前は私たちには馴染みがありません。けれども彼らは、民の礼拝を支える奉仕に、忠実に加わったのです。
3. 神のみわざの中で、一人ひとりに役割がある
- これが一つ目の教えです。祭司たちに当てはまったことは、今日の教会にも当てはまります。教会には、実に多様な働きと奉仕と役割があります。
- 会衆の前に立って御言葉を語る人たちがいます。「私のように、牧師たちのように」と説教者は言います。賛美をリードする人たちもいます。賛美チーム、楽器を奏でる奏者たち、聖歌隊。彼らは賛美のいけにえをささげることで、会衆を、主の恵みに満ちた御前へと導きます。
- あまり目に触れない人たちもいます。礼拝が始まる前から、会場を整え、椅子を並べ、掃除をし、音響や映像など必要な機材を準備しています。
- 子どもや若者のそばで仕え、惜しみなく時間をささげる教師たちがいます。そして、誰にも見られないところで、教会のために祈り続けている人たちがいます。
- これらの奉仕のどれもが、神のみわざの一部です。
4. 重要でない奉仕はない:比べないでください
- 説教者はここで率直に問いかけます。どの奉仕が一番重要でしょうか。みんなの前に立つ目立つ奉仕は、目立たない奉仕より価値があるでしょうか。誰も気づかない働きは、価値がないのでしょうか。
- 奉仕ごとに、もちろん責任の違いはあります。しかし、神にささげる奉仕として見るなら、重要でないものは一つもありません。どれも神の前で尊く、栄誉あるものです。
- それでも私たちは比べてしまいます。「あの人は大切な働きをしているのに、どうして私はいつも目立たない仕事ばかりなのだろう」。あるいは逆に、「私の奉仕のほうが、あの人のよりも重要だ」。説教者は、ユーモアを交えて、会衆の中にそう思っている人がいるとは思わないけれども、そうした思いは心の中に生まれうる、と付け加えます。
- けれども神は、すべての人に同じことをするようには求めておられません。使徒パウロは、コリント人への第一の手紙12章で、教会を一つの体にたとえています。体には目があり、耳があり、鼻があり、口があり、手があり、足があります。目には目の役割があり、鼻には鼻の役割があります。働きは違っても、すべての部分が同じ体に必要です。余分な器官は一つもありません。
- 教会も同じです。大切なのは、あなたがどんな役割に就いているか、どんな奉仕を割り当てられているかではありません。大切なのは、委ねられた役割を、神の前で忠実に果たしているかどうかです。
- そこで説教者は呼びかけます。自分の役割を他の人と比べないでください。主があなたに今日委ねておられる奉仕を、人のためではなく主のために、心に留めてください。他の人の目には小さく、地味に見えても、主にささげる奉仕には意味があり、主は喜んで受け取ってくださいます。
5. なぜくじなのか:神の主権を認める
- 二つ目の教えは、5節から始まります。「こうして、聖所の長たちと神の長たちが、エレアザルの子孫の中にも、イタマルの子孫の中にもいたので、彼らは互いにくじで分けられた。」31節には、レビ人たちも、ダビデ王とザドクとアヒメレクの前で、同じようにくじを引いたと記されています。
- ダビデはなぜくじを用いたのでしょうか。説教者は、当時のくじ引きは単なる偶然のゲームではなかったと説明します。旧約聖書では、人間の好みや計算だけに頼るべきではない決定のとき、「この選択を神の主権にゆだねます」と告げる方法として、くじが用いられました。
- 箴言16章33節を引用します。「くじは、ひざにまかれる、しかし、そのすべての定めは主から来る。」くじの結果は、主の御手の中にありました。
- ですから、祭司たちの職務は、誰かの好みによって定められたのでも、人間関係や力関係によって決まったのでもありません。神の主権を認めることによって割り当てられたのです。
- 説教者がこの朝、会衆に覚えてほしいことはこれです。神にささげる奉仕は、私たちの思いや願いだけで決めるものではありません。「愛する兄弟姉妹の皆さん、これは大切なことです。」
6. あなたが望むものではなく、神が委ねてくださるもの
- 説教者は、誤解を避けるよう気を配ります。この箇所は、教会が今日すべてをくじで決めるべきだという意味ではありません。私たちには神の御言葉があり、それが基準となって神のみこころを示してくれます。それに立ち、祈り、ともに語り合いながら、私たちは知恵をもって見分けるよう招かれています。
- しかし、役割が決まったあとにも、問いは残ります。あなたは、どんな心、どんな姿勢で、委ねられた務めを受け取っていますか。
- 教会生活では、望んだ奉仕がいつも与えられるとは限りません。「私は賛美チームで歌いたかった、バンドで演奏したかった……それなのにトイレ掃除を任されるのか」。あるいは、「どうして私がグループのリーダーをしなければならないのか。ただのメンバーなら、ずっと気が楽なのに。どうしてこんな重い責任を負うのか」。説教者は、そんな経験が一度もないかと会衆に率直に問いかけ、自分自身についてはきっとあると答えます。
- 彼は、自分の賜物や情熱や状況について話すことは良いことだと認めます。また、疲れ果てるまですべてを引き受ける必要はありません。しかし彼は、別の問いを立てるよう招きます。「私は何をしたいのか」ではなく、「どうすれば神に仕えられるのか」です。
- 私たちは、認められるために仕えるのではなく、称賛されるためでも、能力を証明するためでもありません。主ご自身に仕えるために仕えるのです。説教者は自分の教会の牧師たちの名を挙げて、こう語りさえします。誰々牧師に認められたり褒められたりするために仕えるのではありません。それぞれが、与えられた場所と立場で自分の務めを忠実に果たすのを見て、喜んでくださるのは主です。
- 彼は、コロサイ人への手紙3章23節を読みます。「何をするにも、人に対してするのではなく、主に対してするように、心からしなさい。」誰もあなたを評価しなくても、どの牧師もあなたを褒めなくても、誰も一言かけてくれなくても、神はあなたの働きを知っておられます。
- 誰も見ていないところでささげたいけにえ、小さく目立たなく見える奉仕。神はそれをご存じです。「それで十分ではありませんか」と説教者は問いかけます。主がご存じなら、それだけで、自分の願いだけにこだわらず、喜びと忠実さをもって仕え続けるのに十分なのです。
7. どこで仕えるかではなく、誰のために仕えるか
- 結びに、説教者は歴代志上24章に並ぶ名前に戻ります。ほとんど知られていない祭司たちとレビ人たち。それでも彼らは、それぞれの役割の中で、神への礼拝を支える奉仕に忠実に、真剣に加わった人たちでした。
- あなたの信仰の歩みも同じです。誰もが人々の前に立つ必要はありません。誰もが同じことをする必要もありません。大切なのは、他の人より目立つことでも、重要な役割を手に入れることでもありません。大切なのは、神が今日あなたに委ねてくださる場所と務めと役割において、主のために忠実であることです。
- その場所は、あなたの家庭かもしれませんし、職場、学校、あるいは教会かもしれません。自分が選んだ場所ではないかもしれません。それでも、そこで喜びと感謝をもって主に仕えることができます。なぜでしょうか。主がその働きを見ておられ、ご存じだからです。
- 説教者がこの朝、心に刻むよう勧めた言葉はシンプルです。大切なのは、どこで仕えるかではなく、誰のために仕えるかです。
- 彼はまた願いを語ります。この日のすべての働きが、主にささげる最善のいけにえ、ささげものとなりますように。
- 続く祈りでも、同じ調子が響きます。祭司たちとレビ人たちが、それぞれ自分の分を担い、つぶやくことも不平を言うこともなかったので、礼拝が整えられたことを思い起こします。そして、一人ひとりが委ねられた務めに忠実に仕えること、誰も他の人と比べたり、自分の望む奉仕だけを求めたりしないこと、人の目には小さく見えることさえ忠実に果たせるよう、御霊が力と喜びと感謝を与えてくださること、そして、ただ主の御名だけがあがめられることを願い求めます。
心に留めたいこと
- 神のみわざの中で、一人ひとりに役割が与えられています。祭司たちは、礼拝を支えるために、定められた順に交代で仕えました。
- 神にささげる奉仕で、重要でないものはありません。一つの体の部分のように、すべてが必要です。自分の役割を他の人と比べないでください。
- くじは神の主権を表していました。「すべての定めは主から来る」のです。奉仕は、私たちの願いだけで決めるものではありません。
- 本当の問いは「何をしたいか」ではなく、「どうすれば神に仕えられるか」です。認められるためでも、称賛されるためでも、能力を証明するためでもなく仕えます。
- 神は、誰も見ていないところでのあなたの行いもご存じです。大切なのは、どこで仕えるかではなく、誰のために仕えるかです。
私たちへの問いかけ
- 今、教会で、家庭で、職場や学校で、神はあなたにどんな奉仕、務め、責任を委ねておられますか。
- 自分の役割を他の人と比べて、引け目を感じたり、逆に自分のほうが重要だと思ったりすることはありませんか。その比べる思いを、神の前で言い表してください。
- 望んでいたものと違うために、しぶしぶ果たしている奉仕はありませんか。それを今日、主から与えられたものとして受け取るには、どうすればよいでしょうか。
- あなたは本当は誰のために仕えていますか。認められるため、褒められるため、目に留まるためですか、それとも主のためですか。今日の一つの具体的な務めを思い浮かべながら、コロサイ人への手紙3章23節をもう一度読んでください。
- 誰の目にも触れない小さな務めのうち、神がご存じであることを思いつつ、今週喜んで果たせるものは何ですか。
鍵となる聖句
よくある質問
歴代志上24章で、なぜ祭司たちはくじで分けられたのですか。
旧約聖書で、くじは単なる偶然のゲームではありませんでした。人間の好みに左右されるべきでない決定のとき、その選択を神の主権にゆだねるために用いられたのです。箴言16章33節はこう語ります。くじはひざにまかれるが、そのすべての定めは主から来る。ですから、祭司たちの職務は、好みや人間関係や力関係によってではなく、神が決められることを認めて定められました。
今日の教会でも、奉仕をくじで決めるべきですか。
いいえ。説教者は、この箇所をそのように理解してはならないと明言しています。私たちには神の御言葉があります。それを基準とし、祈り、ともに語り合うことで、知恵をもって見分けるのです。決定的な問いは別のところにあります。あなたは、どんな心、どんな姿勢で、委ねられた奉仕を受け取っていますか。
教会の中に、他より重要な奉仕はありますか。
奉仕ごとに責任は違いますが、神にささげる奉仕で重要でないものはありません。コリント人への第一の手紙12章に描かれた体のように、それぞれの部分に異なる役割があり、すべてが必要です。大切なのは、あなたが就いている役割ではなく、それを神の前でどれだけ忠実に果たしているかです。
任された奉仕が、望んでいたものと違う場合はどうすればよいですか。
自分の賜物や情熱や状況について話すことは良いことですし、疲れ果てるまですべてを引き受ける必要もありません。ただ、説教者は別の問いを立てるよう勧めます。「何をしたいのか」ではなく、「どうすれば神に仕えられるのか」です。何をするにも、人に対してするのではなく、主に対してするように、心からしなさい(コロサイ人への手紙3章23節)。たとえ誰も気づかなくても、神はその働きをご存じです。