聖書を深く読むための3つのレベル

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はじめに

9月28日の日曜日、礼拝に招かれたゲスト講師が、いつもとは違うものを届けてくれました。普通の説教ではなく、本格的なトレーニングです。テーマは「一人で、あるいは少人数のグループで、聖書をどう深く学ぶか」。通常120時間かかる神学トレーニングを、1時間半に凝縮したものでした。

なぜこのテーマなのでしょうか。実は、多くのクリスチャン、説教をする人でさえ、聖句の表面をなでるだけで終わっていることが多いからです。講師が紹介した統計によれば、教会で説教する人のうち、専門的な訓練を受けているのはわずか5%だそうです。これは、あなたが一人で聖書を読むことを諦めさせるためではありません。むしろ、さらっと読むことと、神の言葉としっかり向き合うことの違いを生む鍵を、あなたに渡すためです。

土台になっている箇所はテモテへの手紙第二 3:16-17です。「聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれたもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは神の人が、あらゆる良い働きのためにふさわしい十分に整った者となるためです。」神がわざわざそれぞれの箇所を、あなたにとって難しく感じる箇所も含めて霊感してくださったのなら、そこにはあなたの人生のための鍵が必ずあるはずです。

説教の構成

1. なぜ聖書を一緒に学ぶのか

第一の理由は、神をもっとよく知るためです。第二の理由は、互いに励まし合うためです。この二つは選択肢ではなく、切り離せないものです。「そう言われているらしいけど、確かじゃない」というような、あやふやなことでは人を励ますことはできません。しっかりとした養いが必要です。教会を建て上げるのは、神の言葉そのものだからです。

講師はこう指摘しました。イエスの弟子たちは、学問としての神学を修めたわけではありません。しかし、三年間イエスと24時間共に過ごし、復活後も40日間、さらにその後は祈りの中で共に歩むという、比類のない集中的な訓練を受けたのです。これを今日そのまま再現することはできません。だからこそ、私たちには御言葉を深く掘り下げるための方法と道具が必要なのです。

2. レベル1(初級):書物全体を知る

最初のレベルは、どのクリスチャンにも手が届くものです。ルールはシンプルです。ある箇所を学びたいなら、まずその箇所が含まれる書物全体を読むこと。マルコの福音書のある一節を黙想したいなら、まずマルコの福音書全体を読みましょう。

ここでの落とし穴は、一つの節だけを切り取り、自分の好きなテーマに何でも結びつけてしまうことです。それを続けると、いつの間にか本文から離れてしまいます。このレベルで目指すのは、次のことを知ることです。

  • その書物の文学ジャンル(物語、書簡、詩、黙示文学など)
  • 歴史的・文化的な背景
  • その書物を貫く主要なテーマ
  • 序論的な問い(著者、執筆年代、宛先、目的)

これらの情報は、しっかりしたスタディバイブルで見つけることができます。それだけでも大きな一歩ですし、多くの誤った解釈は、このレベルの理解だけでも避けられるものです。

3. レベル2(上級):節ごとに本文へ入っていく

第二のレベルは、もっと手間がかかります。特定の箇所を選び、節ごと、言葉ごとに丁寧に学んでいきます。聖書の他の箇所と比較し、並行箇所を探し、可能な範囲でヘブライ語やギリシャ語の原語にまでさかのぼります。

ここで役立つのが、聖書注解書や専門書、神学的な論考です。講師はこう警告しました。「インターネット上の、誰が書いたか分からないブログを鵜呑みにしないでください。」情報源を確かめましょう。著者は誰か明らかにされていますか。牧師や神学者、信頼できる教師でしょうか。ChatGPTやミストラルAI、その他の生成AIを使う場合でも、必ず出典を尋ね、それを自分で確認してください。Google検索だけでは十分ではありません。

4. レベル3(達人):筋の通った、検証済みの一つの考えを提示する

第三のレベルを、講師はシンプルなたとえで説明しました。花束を作るようなものです。まずたくさんの花を摘みます(レベル1)。次に、どれとどれが合うかを選び分けます(レベル2)。そして最後に「花束をまとめる」作業が必要です。つまり、筋が通り、調和のとれた、人に手渡せる花束を仕上げるのです。

このレベルでは、次のことが求められます。

  • その箇所の中心的な考えを見つけ出すこと
  • サブテーマを詰め込みすぎて聴衆を混乱させないこと
  • 複数の注解書やスタディバイブルと照らし合わせて、自分の考えを検証すること
  • 自分が提示しようとしていることが本当に成り立つか確かめること

もし一つの箇所に考えが詰まりすぎているなら、もっと小さな部分に絞りましょう。一章全体をざっと眺めるより、数節をじっくり掘り下げる方が良いのです。

5. 実例:列王記第一19章、荒野のエリヤ

これが実際にどう働くかを示すために、講師は列王記第一19章を取り上げました。疲れ果て、落ち込んだエリヤが荒野へ逃げ込み、死を願う場面です。レベル1にとどまるなら、「落胆した預言者が神に助けられた、良い話だ」で終わってしまいます。しかし、並行箇所(相互テキスト性)を探すと、本文が一気に開けてきます。

ハガルとの並行(創世記21章)。ハガルと同じように、エリヤはベエル・シェバの荒野へ逃げます。ハガルと同じように、彼はしもべを途中に残していきます。ハガルと同じように、彼は離れた場所で死を待ちます。しかし神は、ハガルの子の泣き声を聞かれました。エリヤの場合は、一人の御使いが彼に食べ物を与えますが、神が彼の嘆きを聞かれたとは記されていません。エリヤの祈りの中に、神を喜ばせない何かがあったのです。

ヨナとの並行(ヨナ書4章)。エリヤは祈ります。「主よ、私の命を取ってください。私は先祖たちにまさる者ではありませんから。」これは、後にヨナが語る言葉とほとんど同じです。「私の命を取ってください。生きているより死ぬほうがましです。」二人の落胆した預言者が、神のあわれみを求める代わりに、死を求めているのです。

モーセとの並行(出エジプト記32-33章)。モーセもまた、危機的な瞬間に祈りましたが、その中身は違います。「この民は大きな罪を犯しました。どうか今、彼らの罪をお赦しください。それができないのでしたら、どうか私を、あなたがお書きになった書物から消し去ってください。」モーセは、民のためなら自分が死んでもよいと願っています。一方エリヤとヨナは、自分自身の苦しみに心が向いています。

物語はさらに、同じ響きを持って続きます。エリヤは40日40夜歩き(モーセがシナイ山で過ごしたように)、洞穴に身を隠し、主が彼の「前を通り過ぎ」ます(出エジプト記33章でモーセの前を通り過ぎたように)。そして神が問いかける言葉、「エリヤよ、ここで何をしているのか」は、ハガルに向けられたヘブライ語の言い回しとまったく同じです。同じ言葉、同じ状況、同じ文体です。

これらの並行箇所が教えてくれること、それは、苦しみの中でエリヤが神の声を聞き取れなくなっていたということです。激しい風、地震、火、そして最後に「静かな細い声」があって、ようやく彼は自分の主を認めることができました。そして神は、あわれみをもって彼を退けません。「あなたは一人ではない、バアルにひざまずかなかった者が7000人いる」と思い出させ、後を継ぐ者としてエリシャを立てます。あなたが投げ出したくなるようなときでも、神ご自身は、その働きを続けておられるのです。

6. もう一つの実例:マルコの福音書の唐突な結び

講師は最後にマルコの福音書16:1-8を取り上げました。これは、マルコの福音書の最も古い結びの部分です。女性たちが空の墓を見つけ、白い衣を着た若者が復活を告げますが、本文はこう終わります。「そして彼女たちは墓を出て逃げ去った。震えおののき、正気を失っていたからである。そして彼女たちは、恐ろしさのあまり誰にも何も言わなかった。」

恐れ。おののき。恐ろしさ。そこで終わり。

多くの人は、この結びがあまりにも厳しいと感じ、後になって9節から20節を書き加えました。しかし背景に立ち返ってみると、マルコはこの福音書をおよそ紀元70年頃、ローマで、ペテロの権威のもとに、ネロによって迫害されているキリスト者共同体の中で書いています。そう考えると、この唐突な結びはまったく違う意味を帯びてきます。マルコは、信仰のために命を落とすかもしれないローマのクリスチャンたちにこう語っているのです。「最初の弟子たちでさえ恐れた。しかし主はよみがえられた。主はあなたがたより先に行かれる。主はあなたがたを待っておられる。」

これこそ、深く学ぶことがもたらすものです。本文は、もはや単なる昔の美しい物語ではなく、時代を超えて響き、今日のあなたの状況に語りかけるメッセージになるのです。

覚えておきたいポイント

  • 聖書は魔法の書ではありません。注意深さ、労力、方法が求められます。しっかり学ぶことは、霊性が足りないということではなく、むしろ神をより深く敬うことです。
  • 三つのレベルがあり、一つだけではありません。書物全体を知ること、その箇所に深く入ること、筋の通った検証済みの考えを提示すること。それぞれのレベルが次のレベルの土台になります。
  • 一節だけを切り離して読まないでください。よくある落とし穴は、自分の好きなテーマだけを切り取ってしまうことです。一つの節は、まずその段落、その書物、その文脈の中で理解すべきものです。
  • 聖書の並行箇所を探しましょう。聖書は聖書によって解き明かされます。同じ言葉、同じ状況、同じ祈りが聖書の他の場所にあれば、それが今学んでいる箇所を照らしてくれます。
  • 出典を確かめましょう。信頼できる注解書、スタディバイブル、著者が明確な論考を用いてください。誰が書いたか分からないブログや、確認していない「ChatGPTがこう言った」は避けましょう。
  • 深く学ぶことは、一つの奉仕です。あなたが学びを準備したり、子どもたちに伝えたりするために積み重ねた労力は、共同体全体を養います。それは尊い投資です。

あなた自身への適用

  1. 今週聖書を読むとき、あなたはどのレベルにいますか。レベル1(書物全体を知る)、レベル2(箇所を深く学ぶ)、それともレベル3(伝えるべき筋の通った考えを持つ)でしょうか。
  2. 難しいと感じて避けている聖書の書物はありますか(レビ記、黙示録、預言書など)。今年、それを知るために何ができるでしょうか。
  3. あなたがよく知っている箇所を一つ選んでみてください。聖書の他の場所に並行箇所を探してみましょう。その結びつきから、どんな新しい発見がありますか。
  4. もしあなたが聖書研究を導いたり参加したりしているなら、これから使い始めたい道具は何でしょうか(スタディバイブル、注解書、信頼できる論考など)。
  5. エリヤのように、あなたも今、神の声が聞き取れなくなるような苦しみの季節にいるでしょうか。神の「静かな細い声」は、あなたに何を語りかけていますか。

引用された聖句

よくある質問

聖書を正しく読むために、神学の勉強をしなければなりませんか。

いいえ、そんなことはありません。レベル1は、どのクリスチャンにも手が届くものです。聖書の書物を丸ごと読み、その背景を理解し、中心的な考えを探すこと。レベル2とレベル3にはより多くの道具が必要ですが、少しずつ進んでいけば大丈夫です。講師も指摘していたように、弟子たちは学問としての神学を修めたわけではなく、イエスと共に歩んだのです。大切なのは、時間をかけること、そして自分が語ることをきちんと確かめることです。

ChatGPTなどのAIを、聖書研究の準備に使ってもよいのでしょうか。

はい、道具としてなら構いません。ただし、最終的な情報源としては決して使わないでください。講師ははっきりとこう言いました。「AIには必ず出典を尋ね、それを確認しなさい。」AIは考えをまとめることはできますが、事柄を混同したり、信頼性の低いブログの内容をそのまま引用してしまったりすることもあります。著者がはっきりしている、牧師や神学者、信頼できる教師にまでさかのぼって確かめる責任は、あなた自身にあります。

なぜマルコの福音書には、長い結びと短い結びの両方があるのですか。

それは、マルコの福音書の最も古い写本が8節で終わっているからです。9節から20節はおそらく後になって付け加えられたもので、教会がこの唐突な結びをあまりにも厳しいと感じたためだと考えられます。これは信仰にとって問題にはなりません。二つの結びは、それぞれ真実な何かを伝えているからです。短い結びは弟子たちの恐れと復活の勝利を強調し、長い結びは世界宣教と福音に伴うしるしを強調しています。しっかり学ぶとは、この違いに戸惑うことではなく、なぜ二つの版が存在するのかを理解することなのです。

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