はじめに
ペンテコステの日のエルサレムの街角にいる自分を想像してみてください。ある家の窓から、あなたの母語で神をほめたたえる声が聞こえてきます。通りかかった人に何が起きているのかと尋ねると、こう返ってきます。「神がついに、世界をご自身の支配のもとに連れ戻したと告げているんだ。」
これは、パリのÉglise Connexionで語られ、使徒の働きの連続講解の一部となっているメッセージの冒頭です。説教者は率直に問いかけます。神が治めておられるなら、それは今日どのような姿をしているのか。彼自身、この秋は「これまででもっとも大変な部類」だったと打ち明けます。「神が治めている? それなら、どこか別の国に公式訪問中なのでは」と思いたくなるかもしれません。
その答えは使徒の働き2章にあります。イエスは主でありキリストとして天から治めておられ、御霊によって人々を神のもとに連れ戻しておられます。メッセージは二つの良い知らせで構成されています。イエスの普遍的な支配がすでに始まっていること、そしてイエスの普遍的な招きが発せられていることです。
メッセージの流れ
1. 神は世界をご自身の支配のもとに連れ戻された。でも、それはどんな姿なのか
- これはキリスト教の中心的な主張です。イエス・キリストを通して、神は地上にご自身の支配を打ち立て、世界をご自身の権威のもとに戻されました。
- 説教者は、頭に浮かぶイメージを挙げていきます。シャンゼリゼ通りでの巨大なミサ、十字架や「キリストは王」というプラカードと民族主義的な演説が入り混じったデモ行進、健康も仕事も人間関係も整っていて人生が微笑んでくれているような状態、あるいは会場が満員で影響力も絶大な、「大成功」している教会などです。
- こうしたイメージを前にして、多くの人がずれを感じます。「自分の人生はあまりコントロールされているように思えない。かなり放っておかれている気がする。」
- この問いを抱くのは、私たちが最初ではありません。使徒の働きは、1世紀の半ばにテオフィロに宛てて書かれました。教会が弱く、異論を唱えられ、迫害され、使徒パウロが獄中にいた時代です。テオフィロはきっと思ったはずです。「これが地上における神の支配なのか。もっと違うものを期待していた。」
2. 御霊に満たされるとは、イエスについて語ること
- 昇天の前、イエスは弟子たちに、聖霊が彼らに臨んで自分について証しできるようになるまで、エルサレムで待つように言われました。ペンテコステに、その約束は実現しました。彼らは他の言語で神の大きなみわざを告げ知らせたのです。
- 説教者は、御霊に満たされるとは並外れた体験をすることだと考えられていた教会で育ったと語ります。その体験は「必ずしもイエスと深く結びついてはいなかった」そうです。ところが、ペテロが聖霊に満たされたとき、彼は聖書を説き明かしながらイエスという方について語りました。「それが、御霊が私たちにさせてくださることです。」
- ペテロは場を和ませようとはしません。群衆にこう告げます。あなたがたは、そのみわざによって神から来た方と示されたその人を殺したのだ、と。説教者は笑いながら話します。あまりクリスチャンではない聴衆に語るとき、聴衆を殺人者呼ばわりして始めたことはほとんどない。「こんにちは、人殺しの皆さん」のようには、と。
- キリストはイエスの名字ではありません。この言葉は「油注がれた者」を意味し、神が油注ぎによって王として任命された方のことです。
3. 復活は、イエスがキリストであることを証明する
- ペテロは、千年前にダビデが書いた詩篇16篇を引用します。神は、ご自分が選んだ王を墓の中で朽ちるままにしておくには、あまりにも善であり、あまりにも力ある方だ、ということです。
- けれどもダビデは死に、その墓は今も残り、その体は確かに朽ちました。神はダビデに、サムエル記第二7章で、子孫の一人が永遠の王座に就くと約束しておられました。つまりダビデは、キリストの復活について語っていたのです。
- ペテロと他の弟子たちはその証人です。彼らは、死んだ後に生きておられるイエスを見ました。
- 歴史を通じて、多くの人が自分をメシアだと名乗ってきました。コヴェントリー・シティというサッカークラブの元ゴールキーパーのように滑稽な場合もあれば、ラエリアン・ムーブメントの創始者のように危険な場合もあります。イエスが違うとどうして分かるのでしょうか。それは、告げられていたとおりに復活されたからです。
4. イエスは主であり、父の右に座しておられる
- イエスが本当に王なら、その王座はどこにあるのでしょうか。目には見えません。ペテロはこう答えます。御霊が注がれたことは、イエスが天で主であることを示している、と(使徒の働き2:33)。
- 詩篇110篇で、ダビデは私たちを天の王座の間へと導きます。「主はわが主に言われる、『わたしがあなたのあだを あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』。」父とイエスは対等であり、どちらも「主」と呼ばれています。
- ケイト・ミドルトンがウィリアム王子と結婚したとき、彼女は王室の名前とそれに伴う権威を受けました。イエスは、神と同じ名である「主」を受け、同じ権威を受けられます。
- 旧約聖書では、御霊を注ぐのは主ご自身とされています。ペテロは、御霊を注いだのはイエスだと告げます。イエスはイスラエルの最大の王をはるかに超える方です。
- イエスが天におられるというのは、不在である、あるいは遠くにおられるという意味ではありません。共和国大統領が国家の最高権威であるように、天の王座は宇宙で最高の権威であり、イエスはそこに座しておられます。
- 聖書は、神が世界をご自身の善くあわれみ深い支配のもとに連れ戻される計画を語っています。人間は、「創造主に中指を立てる」ことを選び、独立を宣言しました。その結果は至る所にあります。争い、壊れた人間関係、不正です。
5. すばらしく、同時に恐ろしい福音
- キリスト教のメッセージは、よくこうまとめられます。イエスはあなたを愛し、あなたのために死に、ご自身との関係に招いておられる。これはすべて真実です。けれども、教会史上最初の説教は別のことを語っています。「神はあなたがたが十字架につけたこのイエスを、主またキリストとしてお立てになったのである」(使徒の働き2:36)。
- 「イエスが私たちの人生を少し良くしてくれる、という話ではありません。好むと好まざるとにかかわらず、イエスは主である、という話なのです。」
- 1世紀において、「福音」という言葉は、新しいローマ皇帝の即位のような、大規模な体制の変更を告げるものでした。それはすばらしいことです。イエスは、私たちの世界にとって最善を願う良き主だからです。しかし、イエスに敵対する人々にとっては恐ろしいことです。
- 説教者は『マトリックス』の結末を例に挙げます。主人公は殺されますが、生き返り、救世主であることが明らかになります。皆が喜びますが、敵対していた者たちは、自分たちの日々が数えられていることを悟るのです。
- そこで群衆はこう問います。「兄弟たちよ、わたしたちは、どうすべきであろうか」(使徒の働き2:37)。私たちはイエスを十字架につけたわけではありませんが、皆イエスに反逆してきました。説教者は、10代のとき、自分は王であるイエスの前にひざをかがめておらず、自分勝手に生きていたと気づいたことで、キリスト教信仰の意味が分かり始めたと語ります。
6. イエスの普遍的な招きが発せられた
- 説教者の印象では、先ほど触れたデモ行進は、敵対する人々に対して攻撃的で、ときには暴力的な言葉を使うことが多く、まるでキリスト教的な価値観に戻ることが仕返しをすることであるかのようです。「イエスは違います。その権威は絶対であり、その恵みも絶対です。敵対する者を踏みつぶすのではなく、手を差し伸べられます。」
- 悔い改めとは、間違った方向に進んでいたことに気づき、引き返すことです。「うっかり屋」の説教者は、ときどき地下鉄で方向を間違え、降りて反対方向に戻るそうです。ある晩には、同じ夜に二度「悔い改めた」こともあるといいます。
- イエスにおいては、それは、イエスのために生きる代わりに自分のために生きてきたことを認めることです。「頭から冠を外して、イエスの足もとに置く」のです。バプテスマとは、陣営を替えたことを公に表明することです。
- その見返りに、イエスは赦しを与えてくださいます。この群衆は、神と等しいと宣言された方を殺した人々でした。「これ以上ひどいことは難しい」ほどですが、それでも赦しが差し出されています。
- イエスは聖霊の賜物も与えてくださいます。「王であるイエスは、私たちをご自身の宮殿にしようと申し出ておられます。」イエスは私たちの内に住み、私たちを変え、ご自身の代弁者としてくださいます。
- その約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、遠くにいるすべての人にも与えられています(使徒の働き2:39)。「悪すぎる人はいません。遠すぎる人もいません。」
7. 今日のイエスの支配:王による恩赦の時代
- すでにクリスチャンである人にとっても、この招きは一生にわたるものです。イエスが今日治めておられるなら、今日こそ私が悔い改め、その赦しをつかむ日です。「私たちは毎日それを生きています。」
- 軍隊も、旗も、政治綱領もありません。神が世界をご自身の支配のもとに連れ戻されるのは、人々が悔い改めてイエスを信じるときです。それは、イエスが王座に着いておられるという客観的な現実であり、同時に、人生の操縦桿をイエスに委ねるという内面的な現実でもあります。
- イエスがすべてを正しく整える日が来ます。それまでの今は、王による恩赦の時代を生きています。アパルトヘイト時代に、自らの罪を公に認めた人々に恩赦を与えたネルソン・マンデラのように、イエスは強制ではなく和解によって世界をご自身のもとに連れ戻されます。「イエスは、人々の心を勝ち取るために赦されるのです。」
- イエスの権威は、私たちの同意に左右されません。あなたの同僚も、直属の上司も、隣の部屋の人も、いつかは王であるイエスに答えることになります。
- この支配は、新聞の一面を飾りません。誰かがバプテスマを願い出ても、報道番組が取材に来ることはありません。けれども、誰かが悔い改めて信じるたびに、イエスの支配は地上に来ています。社会を通してキリスト教的な価値観に戻ることの危うさは、「表面的な道徳主義」になってしまうことです。一方イエスは、その人全体を変えるために心を勝ち取られます。
- この支配に、いつも人生が微笑んでくれることを期待していると、信仰が揺らぐことになります。イエスが、人々がその恵み深い権威の前にひざをかがめるように導くことで治めておられると理解するなら、家族の中でも、教会でも、友人や同僚との間でも、その支配に参加する機会がどこにでも見つかります。
- 説教者は、長い間メッセージの不完全なバージョンを信じていたと認めます。神は私たちを愛し、イエスは死んで、復活し、天に昇り、再び来られる、というものです。問題は、このバージョンが語らないこと、つまりイエスが今日何をしておられるかです。「再臨を待つあいだ、私たちは漂流させられているのではありません。イエスは決して私たちを離れたことがありません。」
- この秋は、この教会にとっても、パリの他の教会にとっても大変なものでした。けれども、イエスはコントロールを失ってはおられません。イエスの十字架刑を要求した3000人が一日で態度を変えられたのなら、立ち直れない人など一人もいません。「主の腕は短くありません。」
- この夏、説教者は以前の牧師に悩みを打ち明けました。特に、野心的で不確かなことだらけの教会開拓の計画についてです。その牧師はお茶を一口飲んでから、こう答えたそうです。「今年も、イエスはまだ王座におられると信じているよ。」
要点
- 聖霊に満たされるとは、まず、ペンテコステのペテロのように、聖書を説き明かしてイエスについて語ることです。
- 復活と昇天を通して、神はイエスを主またキリストとされました。その権威は、認めるかどうかにかかわらず絶対です。
- 福音は体制の変更を告げています。イエスを受け入れる人には良い知らせであり、イエスに敵対する人には脅威です。
- イエスは敵対する者を踏みつぶさず、手を差し伸べられます。赦し、御霊の賜物、そして遠くにいるすべての人への約束です。
- イエスの支配は静かに、一人また一人の人生を通して進みます。私たちの人生が複雑なときでも、イエスは今も王座におられます。
自分への問いかけ
- あなたはイエスの支配に何を期待していますか。困難のない人生、勝利に満ちた教会、政治的な影響力、それとも、イエスに向かう人々の心でしょうか。
- あなたは友人に福音をどのように説明しますか。あなたの説明は、イエスが今日、王座から何をしておられるかを語っていますか。
- あなたの人生の中に、冠をイエスの足もとに置かず、まだ自分でかぶっている領域はありますか。
- どの人や状況を、立ち直れないと思っていますか。イエスの死を要求した3000人の回心は、あなたにとって何を変えますか。
- 今週、どの場所(家族、教会、職場、近所)で、イエスの支配が前進することに参加できますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
使徒の働き2章の「神はこのイエスを主またキリストとされた」とはどういう意味ですか。
キリストはイエスの名字ではなく、神が王として油を注がれた方を指す言葉です。復活と昇天を通して、神はイエスにご自身と等しい権威を委ねられました。イエスは今日、天から治めておられ、その権威は私たちの同意に左右されません。
なぜ福音は、良い知らせであると同時に恐ろしい知らせでもあるのですか。
1世紀において、「福音」という言葉は、新しい皇帝の到来のような体制の変更を告げるものでした。イエスは世界にとって最善を願う良き主ですから、これは良い知らせです。しかしイエスに敵対する人々にとっては、最高の権威に逆らうことになるので恐ろしいことです。
今日のイエスの支配はどのような姿をしていますか。
軍隊も、旗も、政治綱領もありません。イエスの支配は、人が態度を変えてイエスを信じるたびに前進します。私たちは王による恩赦の時代を生きています。イエスは、すべてを正しく整える日が来るまで、人々の心を勝ち取るために赦してくださいます。