はじめに
Église Évangélique Paris Métropole の断食と祈りの週の最後の朝です。この日のテーマは一文に集約されます。「仕え、キリストを宣べ伝えるために集う」。朗読されたのはペテロの第一の手紙2章9〜12節です。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王の祭司、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」
この箇所は、神が私たちを、恵みを受けるためだけでなく、神の素晴らしいみわざを宣べ伝えるためにも召してくださったことを思い起こさせます。私たちの賜物も、役割も、責任も異なりますが、だれもが神のわざの中に自分の場所を持っています。「私たちは競争しているのではありません」。補い合って仕えるよう召されているのです。
この最後の黙想で、説教者はイエスが弟子たちとともに過ごされた二つの場面に目を留めます。十字架の前の最後の食事(ヨハネによる福音書13章)と、復活の後の湖のほとりでの出会い(ヨハネによる福音書21章)です。そこから二つの鍵を引き出し、それぞれの鍵の中にさらにもう一つの鍵があると語ります。「鍵の中の鍵」です。
メッセージの流れ
1. 教会として集まるとは、ともにいることです
- 神は私たちを、ご自分が選び、イエスが救ってくださった民としてくださいました。それが私たちを教会として集まる者にしています。
- 教会として集まるとは、それぞれが自分の環境や日常の中で別々に過ごすことではありません。集うとは、「その言葉のとおり」、本当にともにいることです。
- 「集い」ということばには、単数の一致と、複数の広がりがあります。私たちは皆でともに、一つの集いを形づくっているのです。
- 集いは、互いのために働くことで支えられます。そこには二つの現実が関わります。奉仕と、ほかの人も私たちとともに集うようになるためのキリストへの証しです。
2. 第一の鍵:イエスが仕えられたように仕える
- 過越の祭の前、イエスはご自分の時が来たことを知っておられます。弟子たちとの最後の食事の席で、地上に残された時間のために最も大切な教えを残されます。
- イエスは手ぬぐいを取って腰にまとい、水をくんで、弟子たちの足もとにひざまずいて洗い始められます。ペテロは戸惑います。「主よ、あなたが私の足を洗われるのですか。あなたがなさることではありません。」イエスは答えられます。「わたしにさせなさい。」
- 12節で、イエスは問いかけられます。「わたしがあなたがたにしたことがわかりますか。」説教者は、その時点では弟子たちは何が起きているのか本当には理解していなかったと考えています。
- 14節で、その説明が示されます。「もしわたしが、主であり、師であるのに、あなたがたの足を洗ったとすれば、あなたがたもまた互に足を洗い合うべきである。」イエスはすべきことを語るだけでなく、それを示し、弟子たちが同じようにするよう導かれました。
- 聖書は、御霊の賜物の多様さについても語っています。神はすべての賜物を一人に与えられたのではありません。一人ひとりに与え、ともに互いに仕え合うようにしてくださるのです。
3. 鍵の中の鍵:最後まで貫かれる愛
- このもう一つの鍵は、最初の節にあります。イエスはご自分の者たちを愛し、「最後まで愛し通され」ました。地上での時間の最後まで貫かれる愛です。
- 「神が歩ませてくださる人たちへの愛があるから、私は仕えることができる。」イエスが弟子たちに持っておられたような愛に満ちた集いの中では、ほかの人に仕えることが易しくなります。
- 弟子たちは、自分たちの中でだれが一番偉いのかをイエスに尋ねました。答えは、一番偉い者とはほかの人に仕える者だということでした。そして、そばにいる人たちへの愛があれば、あなたはこの仕える者の役割の中でいっそう満たされます。
- 愛がなければ、仕えることは難しくなります。「人の長所を見るよりも、欠点のほうをよく見てしまう」のです。受けたものよりも、足りないもののほうに目が向くようになります。
- 仕えるとは、別の場所を望んでいたとしても、神が置いてくださった場所を受け入れることでもあります。説教者は、神の召しを受けて最初に任された仕事が教会の広間の掃除だったという牧師の話を紹介します。その人はそれを喜んで行い、掃きながら神をほめたたえていました。
- 「主よ、今いるところで、喜びと情熱をもってあなたに仕えたいのです。」
4. 第二の鍵:あなたがたは人間をとる漁師になる
- イエスは死んで復活されましたが、弟子たちはイエスが前もって語っておられたにもかかわらず、起きたことのすべてをまだ本当には分かっていません。師はもういません。彼らは動揺し、以前の仕事である漁に戻ります。
- 一晩中、何もとれません。経験豊かな漁師であるはずの彼らが、手ぶらで帰ってきます。
- イエスが来て、何かとれたかと尋ね、網を反対側に打つよう言われます。彼らは150匹を超える大量の魚を引き上げ、網が重くて引き上げにくいほどでした。
- そして彼らは、その声が師のものだったと気づきます。この奇跡は、イエスがすでに語られたことばに呼応しています。あなたがたは魚をとる漁師だが、わたしはあなたがたを人間をとる漁師となるよう召す、ということばです。
- 主との交わりのこの時、彼らは自分たちの使命を思い起こします。イエスの口を通して語られる説教者のメッセージはこうです。「わたしはあなたがたを救った。それはあなたがたが水路となるためである」。ほかの人を家に連れ戻す人です。あなたがたは家にいますが、そこに一人きりでとどまるためではありません。
- 「あなたがたは受けました。そして、受けたものをほかの人に与えることが使命です。」
5. 鍵の中の鍵:神のペースで進む
- 隠されたもう一つの鍵は、神のことば、御霊、そして神のタイミングに導かれて進むことです。漁の豊かさは、弟子たちが師のことばに導かれたから与えられました。「網を打ちなさい。」その時が来ていたのです。
- ときに私たちは疑います。「あの人は信じないだろう。あの人は一度福音を聞いたことがあるから、キリストのもとには来ない。」しかし、神のことばの響きが「網を打ちなさい、行きなさい、恐れずにその人に話しなさい」と告げるなら、従うことができます。
- レッテルを貼られること、「熱狂的な人」だと思われることを恐れているかもしれません。説教者は答えます。「心配はいりません。」それが心の中の神のことばの響きなら、網を打ちましょう。そうすれば、その人も神の恵みと愛を知ることができます。
- 伝道に召されているのは一部の人だけだと感じることがあります。しかし、私たち一人ひとりが神の集いと神の家の一員であるからこそ、「私たちは皆召されており、皆が福音を分かち合う使命を持っている」のです。
- 「私たちが受けたメッセージ、死んで復活されたキリストのメッセージほど美しいメッセージはありません。」
6. 神が置かれた場所で光となる
- ともしびは、隠すためにともすのではありません。照らすために高いところに置きます。私たちはそのような光であり、輝いてキリストを知らせる使命を持っています。
- それは同僚のもとで実践されます。同僚が私たちの生き方を通してキリストを見て、キリストに仕えたいと思うようになるためです。家族、身近な人たち、近所でも、私たちの生き方と振る舞いを通して実践されます。
- 説教者は、カメルーンの人里離れた地域で戸別訪問の伝道をしたときのことを語ります。フランス語を話さない一人の女性が耳を傾け、嫁たちが通訳をしなければなりませんでした。彼女は、通訳は要らない、言われていることは分かる、と答え、イエスに心をささげました。その晩のうちに、彼女は嫁たちを送り、「私にバプテスマを授けて、始めたことを最後までしてください」と来てもらうよう頼みました。バプテスマについては、だれも彼女に話していなかったのにです。兄弟たちが行って、彼女にバプテスマを授けました。
- 説教者の結論です。神は人の心の中で働いておられます。私たちは落胆せず、心がキリストに引き寄せられるのを見たい人たちのために祈り続けるべきです。
- 「忘れないでください。あなたがたは光です。光は輝くためにあります。」世が闇の時を過ごしている今、私たちはいっそう輝きたいのです。
心に留めたいこと
- 教会は、別々の人生の寄せ集めではありません。互いに仕え合い、キリストを証しするために、ともにいるのです。
- イエスは弟子たちの足を洗って模範を示されました。仕えることは教えであるだけでなく、倣うべき手本です。
- 私たちは愛するとき、本当に仕えることができます。愛がなければ、欠点と足りないものしか見えなくなります。
- 信じる者は皆、人間をとる漁師として召されています。一部の人だけではありません。
- 福音を宣べ伝えることは、神のことば、御霊、そして神のタイミングに導かれるとき、実を結びます。
個人への適用
- あなたは教会を、本当にともにいる集いとして生きていますか。それとも、それぞれが別々に生きていますか。
- 教会の中で、まず欠点に目が向いてしまい、仕えるのが難しい人はだれですか。
- 期待していた場所ではなくても、神があなたを置かれた場所で、喜んで仕えることができますか。
- 神が話すよう求めておられると感じるのに、「最初から見込みがない」と思っている人はいませんか。
- 今週、あなたはどこで輝く必要がありますか。職場、家族、近所のどこでしょうか。
引用された聖句
- ペテロの第一の手紙2章9〜12節
- ヨハネによる福音書13章1〜17節
- ルカによる福音書22章24〜27節
- コリント人への第一の手紙12章4〜11節
- ヨハネによる福音書21章1〜14節
- マタイによる福音書4章19節
- マタイによる福音書5章14〜16節
よくある質問
ヨハネによる福音書13章で、イエスはなぜ弟子たちの足を洗われたのですか。
最後の食事の席で、イエスは弟子たちにすべきことを語るだけでなく、それを示されました。「もしわたしが、主であり、師であるのに、あなたがたの足を洗ったとすれば、あなたがたもまた互に足を洗い合うべきである」(ヨハネによる福音書13章14節)。互いに仕え合うという、倣うべき模範です。
教会において、愛と奉仕にはどのようなつながりがありますか。
ヨハネによる福音書13章1節は、イエスが弟子たちに仕える前に、ご自分の者たちを「最後まで」愛し通されたと語ります。説教者によれば、これは最初の鍵の中に隠されたもう一つの鍵です。私たちは愛するからこそ、本当に仕えることができます。愛がなければ、人の長所よりも欠点に目が向き、仕えることが難しくなります。
ヨハネによる福音書21章の奇跡の大漁は、伝道について何を教えていますか。
一晩中何もとれなかった後、弟子たちはイエスのことばに従って網を打ち、150匹を超える魚を引き上げます。そして、人間をとる漁師となる召しを思い起こします。説教者はそこから、神のことばと御霊に導かれ、神のタイミングで福音を宣べ伝えるという教訓を引き出します。