序論
ヨハネ8.12で、イエスは時代を超えて語りかける宣言をされます。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」この言葉は詩的なスローガンではありません。これは診断です。光は闇が隠しているものを明らかにし、イエスが語られるとき、人間の心の本当の状態が完全な明るみのもとにさらされるのです。
スティーブ・ジョブズの話を知っている人もいるでしょう。2003年、検査によって膵臓に腫瘍が見つかりました。それは進行が最も遅く、最も治療しやすい種類のものでした。それにもかかわらず、彼は九か月もの間、医師たちが勧める手術を拒み続けました。彼は食事療法や代替療法など、別の道を選びました。ようやく決断したときには、がんはすでに広がっていました。そして彼はそれによって亡くなりました。彼は後にこう語っています。「体を切り開かれたくなかったのです。」医師は彼の敵ではありませんでした。診断は攻撃ではなく、憐れみでした。あなたを蝕んでいる病に向き合うことを拒むのは、極めて危険なことです。
これはまさに、イエスがヨハネ8章で群衆に語られたことです。イエスの周りにいた多くの人々が「イエスを信じた」とあります(ヨハネ8.30)。しかし、心を見抜かれるイエスは、彼らの信仰が見せかけにすぎないことをご存じでした。そこでイエスは、患者を愛する医師のように、厳しくも明晰な診断を下されます。イエスは、偽りの弟子に見られる四つの症状を明らかにされます。これらの症状は、あなたを断罪するためのものではありません。あなたの目を覚まさせ、本当に光へと向き直るよう招くためのものです。
メッセージの構成
1.偽りの弟子は主の言葉を聞かず、それに従わない
- イエスはヨハネ8.37ではっきりとこう言われます。「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。」ギリシア語の原文は、その言葉を受け入れるための場所、余地が心の中にもはやないことを示唆しています。
- 物がぎっしり詰まってこれ以上何も入らない冷蔵庫のように、偽りの弟子の心は、自分の意見や、自己正当化や、高慢でいっぱいになっています。
- 群衆は自分たちを正当化するためにアブラハムを父として持ち出します(ヨハネ8.39)が、イエスはこう答えられます。「もしあなたがたがアブラハムの子どもたちであるなら、アブラハムのわざを行うはずです。」しかしアブラハムは、理解できないときでさえ信じ、そして従いました(創世記15.6、ヘブル11.8、17〜19)。
- 真の弟子は、御言葉が自分のうちにとどまるままにし、それを守り、それに従おうとします。それは彼が完全だからではなく、彼の告白と生活の間の隔たりが日ごとに縮まっていくからです。
2.偽りの弟子は主を愛さない
- イエスはヨハネ8.42でこう答えられます。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神から出て来たのであり、神のもとから来たのだからです。」
- 父を愛することと御子を愛することは切り離せません。神を愛していると言いながら、父が遣わされたイエスを拒むことはできません。
- 真の弟子の愛は完全ではありませんが、成長していきます。良い日にも悪い日にもキリストを愛し、倒れたときには悔い改め、自分を救ってくださった方を喜ばせようとします。
- ペテロのことを思い起こしてください。彼はイエスを三度否定しましたが、よみがえられた主は彼に三度尋ねられました。「あなたはわたしを愛していますか」(ヨハネ21.15〜17)。ペテロはそれに答え、歩み続け、ついにはこう書き記すまでになりました。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(第二ペテロ3.18)
3.偽りの弟子は別の父、すなわち悪魔を愛する
- イエスの下す判決は容赦ないものですが、明晰です。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」(ヨハネ8.44)
- 中立の立場は存在しません。エペソ2.1〜2はこれを裏づけています。キリストを持たないすべての人は、生まれながらに空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいます。
- この父性を裏づける二つのしるしがあります。一つは分裂です(ギリシア語のディアボロスは「間に投げ込む者」、すなわち告発し、中傷し、不和の種をまく者を意味します)。もう一つは偽りです(悪魔はエバに「あなたがたは決して死にません」と嘘をつきました、創世記3.4)。
- 第一ヨハネ3.8〜10はこれを繰り返し語っています。罪を行う者は悪魔から出た者であり、義を行う者は神から生まれた者です。実がその父を明らかにするのです。
4.偽りの弟子は主を信じない
- イエスはヨハネ8.45〜47でこう結論づけられます。「わたしが真理を話しているのに、あなたがたはわたしを信じません。」ピラトでさえこう認めています。「私はこの人に何の罪も見出さない。」(ヨハネ19.6) そしてローマの百人隊長は十字架のもとでこう告白します。「まことに、この人は正しい方であった。」(ルカ23.47)
- キリストの真理は明らかですが、かたくなな心はそれを受け入れることを拒みます。偽りの弟子は、光の前に置かれてもなお、闇を選ぶのです。
- 良い知らせがあります。あなたがその招きを聞くことができる限り、道はまだ残されています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1.12)
心に留めたいポイント
- イエスは世の光です。イエスが照らされるのは断罪するためではなく、御もとに来る者を救うためです。
- 信仰の告白だけでは十分ではありません。従順と、愛と、真理と、信頼という実際の実こそが、本当の試金石です。
- 偽りの弟子は御言葉が自分のうちにとどまることを許しません。真の弟子は、日ごとにその御言葉のための場所を作ります。
- 神を愛することとイエスを愛することは切り離せません。御子を拒むことは、父を拒むことです。
- 中立の立場は存在しません。あなたは神の父性のもとを歩むか、悪魔の父性のもとを歩むか、そのどちらかです。
- 倒れたペテロのような者でも、再び忠実な僕となることができます。恵みは、罪が壊したものを立て直します。
- これらの症状を認めることは断罪ではありません。それは、悔い改めて信じるようにという緊急の招きなのです。
自分への適用
- 神の言葉を読んだり聞いたりするとき、それを受け入れるための場所がまだあなたの心にありますか。それとも、自分自身の言い訳でいっぱいになっていますか。
- あなたがキリストについて告白していることと、実際に生きていることの間の隔たりは、時間とともに縮まっていますか、それとも変わらないままでしょうか。
- 自分の人生を振り返るとき、あなたは自分自身を愛する以上にイエスを愛していると正直に言えますか。
- あなたの日々の生活の中に、別の父性を裏づけるような実、すなわち偽り、分裂、真理を拒む姿勢はありませんか。
- 今日、あなたはイエスをあなたの救い主、あなたの主として受け入れたいと願っていますか。それとも、光を拒み続けたいと思っていますか。
引用聖句
- ヨハネ8.12〜20(新改訳)
- ヨハネ8.30〜47(新改訳)
- ヨハネ20.31(新改訳)
- ヨハネ1.12(新改訳)
- ヨハネ14.15(新改訳)
- ヨハネ21.15〜17(新改訳)
- 創世記15.6(新改訳)
- ヘブル11.8〜19(新改訳)
- エペソ2.1〜2(新改訳)
- 第一ヨハネ3.8〜10(新改訳)
- ルカ23.47(新改訳)
- 第二ペテロ3.18(新改訳)
よくある質問
イエスが「わたしは世の光である」と言われるのは、どういう意味でしょうか
ヨハネ8.12で、イエスはご自分が真理といのちと導きの唯一の源であると宣言しておられます。イエスに従う者は、もはや罪と無理解の闇の中を歩みません。その人は、その存在全体を照らす神との生きた交わりである、いのちの光を持っているのです。
自分が真の弟子であるか、偽りの弟子であるかは、どうすれば分かるのでしょうか
真の弟子は御言葉を聞き、キリストを愛し、真理を愛し、イエスを信じます。偽りの弟子は、信じていると言いながらも、従うことを拒み、本当には主を愛さず、偽りを好み、キリストに信頼を置きません。人生の実が、心の根を明らかにするのです。
自分の人生に偽りの弟子の症状のいくつかを認めたとしても、救われることはできるのでしょうか
はい、できます。イエスがあなたを招いておられる限り、救いの道は残されています。自分の罪を認め、心から悔い改め、キリストがあなたのために死んでよみがえられたことを信じることです。神は、御子を受け入れる者を新しく生まれさせると約束しておられます(ヨハネ1.12〜13)。
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