あなたに目を留められるイエス

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はじめに

レビは収税所に座っています。彼の町では、誰も彼に目を向けようとしません。ローマのために税を取り立て、相場をつり上げ、その差額を自分の懐に入れているからです。彼には「協力者」「裏切り者」「汚れた者」という烙印が押されています。その日、イエスはわざわざ彼のところまで出て行かれました。ただ一瞥するだけでは終わりません。まるで心の底まで知り尽くした相手を見つめるように、注意深く、レビに目を留められたのです。そして彼を招かれました。

これは、2025年10月26日に神戸キリストグローリー教会(Kobe Christ Glory Church)で北山師がルカ5:27-32から語った説教です。この説教は、あなたをある一点に招き入れようとしています。それは、あなたが何かを変えるに、イエスの目はすでにあなたに留められていた、ということです。あなたがようやく背筋を伸ばしたから主が気づかれたのではありません。主が先にあなたを見てくださったからこそ、あなたは今日、立ち上がることができるのです。

説教の構成

1. イエスは明確な目的を持って出て行かれる:あなたを捜すために

27節にはこうあります。「その後、イエスは出て行かれた。」ただ空気を吸いに出たのではありません。気晴らしに散歩をされたのでもありません。はっきりした目的があります。ルカは数節先の32節でそれを示しています。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

北山師は、これがザアカイの場合と同じ動きだと指摘します。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)。サマリアの女性の場合も同じです。イエスは「サマリアを通って行かなければならなかった」のです(ヨハネ4:4)。いつでも、イエスは一人の名前を心に抱いて出て行かれます。今日、あなたの名前もそのリストの中にあります。

北山師は強調します。イエスがレビを召されたのは、もう一人働き手が欲しかったからではありません。「弟子が一人足りないから、この人にしよう」と考えられたのでもありません。主は弱く、烙印を押され、望みもなく、資格もないレビを先に愛されました。その愛こそが、召しを引き起こしたのです。

2. イエスはありのままのレビに「目を留められる」

27節で「見た」と訳されているギリシア語は、「ちらりと見た」という意味ではありません。じっと見つめる、長く見つめる、という意味です。人をそのように見つめるとき、私たちは普通、何らかの反応や、しるしや、答えを期待しています。

ここでは違います。イエスはレビを見つめられますが、レビは動きません。すぐには回心しません。彼は収税所に座ったまま、税の徴収を続けています。もしかしたら、通行人から金を取り立てている最中かもしれません。イエスに向かう仕草も、態度の変化も何もありません。それでもイエスは彼に「わたしについて来なさい」と言われます。

つまり、イエスはレビの人生が変わったから召されたのではありません。人生が変わることができるように召されたのです。ヨハネはこれをはっきりと書いています。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命した」(ヨハネ15:16)。キリストのまなざしが先にあり、あなたの応答はその後にあるのです。

北山師は、聖書学校で出会った友人、専修さんのエピソードを語ります。専修さんは、少年鑑別所の中で、母親が差し入れてくれた聖書を読んでイエスと出会いました。彼の心を動かした箇所はこうでした。「あなたはわたしの目に高価で尊く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。イエスは「出所したら救ってあげよう」とは言われませんでした。まさにその独房の中で彼に出会い、そこで彼に目を留め、信仰へと導かれたのです。あなたに対しても同じです。イエスはあなたが座っている、まさにその収税所まで来られます。あなたが思い描く次の段階までではありません。

3. レビは立ち上がり、すべてを捨ててイエスに従う

28節。「すると彼は、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」聖書の中で「立ち上がる」は、しばしば復活や新しい出発のイメージとして使われます。レビの新しい出発は、春の絵葉書のような甘いものではありません。それには代価が伴います。「すべてを捨てて。」

これは単なる転職ではありません。レビが手放したのは、収入であり、地位であり、人脈であり、安定であり、そして何よりも、古いアイデンティティです。パウロはこう言い表しています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5:17)。

北山師は率直に問いかけます。あなたの中に、まだどこか古い生活への未練は残っていないでしょうか。口には出せない懐かしさはないでしょうか。救われた者の正直な答えは、救いの喜びです。そしてその喜びには、もはや後悔の入り込む余地がありません。「古いものは過ぎ去った」のです。

4. レビは自分の家をイエスのために差し出す

29節。「レビは自分の家で盛大な宴会を催し、大勢の取税人などが彼らと共に食卓に着いていた。」ギリシア語の原文には、文字通り「レビは自分の家を主のために用いた」とあります。つまり、彼は自分の持っているものをイエスの働きのために差し出したのです。救われた者としての最初の行動が、伝道のための食事会でした。

北山師は、神戸での実践に話を広げます。家庭集会、ママズカフェ(Mom's Café)、子ども食堂、神戸CCCのメンバーがノンクリスチャンの学生を招く毎月の「コーヒータイム」、その日曜日に開催された青年たちの「チャーチミール」。すべてが同じことを語っています。誰もが料理できるわけではありません。誰もが自宅に人を招けるわけではありません。しかし、誰もがイエスのために差し出せる何かを持っています。

牧師自身も例を挙げます。子ども食堂を始めたいと発表したとき、彼自身には料理の腕はまったくありませんでした。それでも、他の人たちが立ち上がり、今では毎週彼に代わって料理をしてくれています。彼はまた、台湾、続いて韓国からの学生伝道チームの来訪についても語り、こう静かに付け加えます。私は彼らの言葉を話せません。でも私の役割は、彼らと共にいて、共に食事をし、彼らの体調に気を配ることです。それが私の持っているものの用い方です。

レビの食卓には、料理する人、給仕する人、招く人、迎えるホストが必要でした。役割はさまざまでも、目的はただ一つ、イエスを紹介することです。

5. 神の働きに伴う反対

30節。「パリサイ人とその律法学者たちは、イエスの弟子たちにつぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは取税人や罪人などと食事をするのか。』」神の働きが前進するところには、必ずと言っていいほど反対が起こります。北山師ははっきりと言います。聖書の中で、神の働きと反対は、ほとんど常に一組になって現れるのです。城壁を再建するネヘミヤの前には嘲る者たちが現れ(ネヘミヤ4章)、その攻撃は石ではなく、心の動機そのものを狙います。種を蒔く人のたとえでは、「悪い者」が来て蒔かれた種を奪い去ります(マタイ13:19)。

北山師は前の週に起きた出来事を語ります。CCCの学生二人が、西宮北口の近くである青年に伝道し、「四つの霊的法則」を用いて福音を伝えていました。その青年は心を開きかけていて、二人はこれから一緒に招きの祈りをしようとしていました。まさにそのとき、見知らぬ女性が近づいてきて、その青年に話しかけ、彼の頭に手を置いて何かの呪文のようなものを唱え始めました。それから彼女は二人の学生の方を向き、あなたたちのためにも祈りましょうと申し出ました。二人は丁重に断りました。「いいえ、結構です。私たちはイエスを信じていますから。」種は奪われてしまったかに見えました。

ここで心に留めるべきことを、北山師はこう語ります。反対は神の働きに対して何の権威も持っていません。それは働きを止めることができないのです。イエス御自身も、非難を受けたときに引き下がることなく、むしろご自分の使命をより明確に語られました。

6. 率直に語られるイエスの使命

31〜32節。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」パリサイ人たちは、汚れた人々から距離を置くことこそが聖さだと信じていました。イエスはその前提を覆されます。聖さとは、愛することなのです。

そして弟子たちには、明快な命令を与えられます。「あなたも行って、同じようにしなさい」(ルカ10:37)。教会とは、その主の足跡をたどって歩む群れです。誰も見向きもしない人々のもとへ出て行き、その人々にイエスのまなざしを注ぐ群れなのです。

心に留めたいポイント

  • イエスはレビが変わるのを待ってから目を留められたのではありません。彼が変わることができるように、先に目を留められたのです。
  • 「立ち上がる」ことと「従う」ことは、古い職業だけでなく、古いアイデンティティを手放すことです。
  • 救われた者は恵みを自分だけのものにしません。レビが自分の家を開いたように、あなたも自分の持っているものを開くのです。
  • 神の働きの中で、それぞれの役割は違っても、目的はいつも同じです。それは、イエスを紹介することです。
  • 忠実な前進に伴う反対は、失敗のしるしではなく、種がすでに蒔かれたことのしるしです。
  • あなたが今日していることは無駄になりません。レビはローマのために帳簿をつけていましたが、神はそれを用いて、彼にマタイの福音書を書かせられました。

個人へのアプリケーション

  1. 今、イエスがあなたの中で目を留めておられる「収税所」はどこでしょうか。自分にふさわしくない、まだ準備ができていない、変われていないと感じる場所はどこですか。
  2. 安心感があるからという理由で、まだ握りしめているものは何でしょうか。主が「それを手放して立ち上がりなさい」と言っておられるのに。
  3. あなたがすでに持っているもの(家、賜物、習慣、ノート、能力)の中で、今週イエスのために差し出せるものは何でしょうか。
  4. 最近、あなた自身、職場、家庭で、福音を分かち合おうとする働きが反対によって妨げられたのはどんなときでしたか。あなたはどう応えたいですか。引き下がりますか、それともイエスのように踏みとどまりますか。
  5. もし最前線に立つことができないなら、今、あなたの教会で進められている働きのために、どんな「祈りの持ち場」を担いたいですか。

引用された聖句

よくある質問

イエスのもとに来る前に、まず生活を変えなければならないのでしょうか。

いいえ、そうではありません。北山師は強調します。レビは召される前に何も変えていませんでした。彼はまだ収税所に座ったままでしたが、そこにイエスが目を留められ、「わたしについて来なさい」と言われたのです。変化が召しの条件なのではなく、召しの結果として変化が起こるのです。

パリサイ人たちが避けているのに、なぜイエスは「罪人」と食事をされるのですか。

32節でイエス御自身が語られるように、罪人を招いて悔い改めさせることが、イエスの使命だからです。パリサイ人たちは、汚れた人々から離れることが聖さだと考えていました。しかしイエスは、人を愛することこそが神の聖さの核心であることを示されます。

伝道の働きが反対によって妨げられたとき、どうすればよいでしょうか。

引き下がらないことです。北山師は、聖書の中で神の働きと反対はほとんど常に一緒に現れると語ります。反対には、神の計画に対する権威はありません。イエスがパリサイ人たちに対してそうされたように、自分の使命を明確にし、愛し続けることで応えるのです。

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