コリント人への第二の手紙4章:器はもろくても、宝は変わらない

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はじめに

「私たちは強さに憧れます。成功する人、困難を乗り越える人に憧れます。けれども、弱さは私たちを落ち着かない気持ちにさせます」。これは、Église Évangélique Baptiste de Paris-Centre で語られた、コリント人への第二の手紙4章のメッセージの冒頭の言葉です。この章は礼拝の中で全文が朗読されました。

遅かれ早かれ、だれもが自分の弱さに出会います。病気、家庭の試練、失望などです。そのとき、クリスチャンであるかどうかにかかわらず、問いが生まれます。力が尽きたとき、何に頼ればよいのでしょうか。すべてがうまくいくことに左右されない希望は、どこにあるのでしょうか。

パウロは、自分が設立したコリントの教会に手紙を書いています。使徒としての彼の権威を疑う人たちがいました。反対と苦しみに満ちているように見えるこの人に、感心しなかったのです。メッセージは栄光に満ちているのに、それを伝える人にはまったく栄光がありません。パウロは一つのたとえで答えます。土の器に納められた宝です。この対比は偶然ではありません。神はこのようにして、ご自身を知らせることを選ばれたのです。

メッセージの構成

1. 神の慈しみによって受けた務め

  • パウロは最初から、落胆しないと断言します(1節)。なぜでしょうか。使徒としてのこの務めを、神のあわれみによって受けたからです。自分で作り出したものでも、自分の力で得たものでもありません。それは恵みです。
  • もっと広く言えば、これがキリスト者の忍耐を支える第一の原動力です。「もし私の人生が自分の能力にかかっているなら、私はいつも高ぶりと落胆の間を行き来するでしょう。しかし、私の人生が神の慈しみに支えられているなら、私がよろめくときでも、私の人生は持ちこたえることができます」。
  • この確信は、福音の伝え方に表れています。彼は神の言葉を曲げず、神の前で一人ひとりの良心に語りかけます(2節)。
  • コリントの他の人たちは、自分を売り込み、人に喜ばれるようにメッセージを調整することに長けていました。私たちも人を説得したいとき、同じことをします。喜ばれることを前面に出し、心にさわることは黙ってしまうのです。神の愛と赦しを語るのはやさしいことです。しかし、私たちはみな罪人であり、造り主に責任を負うことなく、自分で善と悪を決めたがっていると語るのは、もっと難しいことです。
  • 「もしよりよく生きるための助言が少しあれば十分だったのなら、なぜイエスは死ななければならなかったのでしょうか」。手直しされた福音は、もはや良い知らせではありません。だれも救わないメッセージです。

2. 神の光だけが取り除く盲目

  • 福音がこれほど良い知らせなら、なぜこれほど多くの人が受け入れないのでしょうか。パウロは、3章でモーセについて用いた覆いのイメージを再び取り上げます。
  • 4節で、パウロはこの盲目を、この世の神、つまり神の敵であるサタンのしわざとしています。パウロは、信じない人に知性がないと言っているのではありません。問題はまず情報の不足ではなく、盲目です。「目の見えない人は、光について説明されても見えるようにはなりません。目を開いてもらう必要があるのです」。
  • 6節は、聖書の最初のページに私たちを連れ戻します。世界は闇に包まれ、神が語り、光がありました。この同じ神が、私たちの心に光を輝かせてくださいます。
  • ですから、クリスチャンになるとは、神やイエスについての意見を変えることだけではありません。私たちの存在の最も深いところで行われる、神の創造のみわざです。イエスを、もしかすると立派な人物と見ていた人が、イエスが本当はどなたなのか、そして十字架が、神が私たちを御自身と和解させるために開かれた道であることを知るのです。
  • この光は、イエス・キリストの御顔に神の栄光を現します。神がどのような方かを知るには、すべての人から退けられた人々をイエスが迎え入れ、病人をいやし、偽善を暴かれる姿を見る必要があります。しかし、神がどれほど悪を重く見ておられるか、罪人への愛がどこまで及ぶかが最もはっきり分かるのは、十字架においてです。

3. 自分ではなく、イエス・キリストを宣べ伝える

  • 4節の盲目と6節の光の間にあって、5節は要となっています。パウロは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝え、イエスのためにコリントの人々のしもべであると語ります。
  • コリントの人々は、説教者が与える印象を気にしていました。しかしパウロは、自分が宣べ伝える方の前に身を引きます。福音の力は、それを語る人の雄弁さによるのではありません。
  • 「どれほど賜物に恵まれた説教者でも、人の心に信仰を生み出すことはできません。心を開くのは神です。目を開くのは神です。信仰を生まれさせるのは神です」。
  • 弟子としての私たちの責任は、イエス・キリストについて、ゆがめることなく、聞く人を操ることなく、忠実に語ることです。あとは主のものです。
  • 自分はクリスチャンではないと考えている人に、説教者は一つの問いを投げかけます。あなたのイエス・キリストについての考えは、何に基づいていますか。受け取ってきたキリスト教のイメージでしょうか。クリスチャンと過ごして経験したことでしょうか。それとも、福音書がイエスについて何と語っているか、時間をかけて読んだことがありますか。キリスト教は、組織に感心することを求めているのではありません。一人の方を見るよう招いているのです。

4. 土の器の中の宝

  • 7節には、この章の中心となるイメージがあります。宝とは福音、すなわちイエス・キリストにおける神の栄光の光です。土の器とは、パウロと、彼と共に仕える人々のことです。
  • 説教者は説明します。この章の「私たち」は、まずパウロと使徒たちを指しています。神は彼らに、福音を宣べ伝え、教会を設立することをゆだねられました。12節でパウロは「私たち」と「あなたがた」を区別しています。私たちは使徒ではありません。しかし、ある意味でこの真理はすべての信者にも当てはまります。すべてのクリスチャンは同じ光を心に受け、この宝をもろい体に宿し、あかしをするよう召されているのです。
  • 「何世代にもわたって受け継がれてきた、非常に価値のある宝石を持っていると想像してください。少し動いただけで破れそうな、傷んだ古い段ボール箱にしまうことは、まずないでしょう。金庫に入れるはずです。ところが、神は段ボール箱を選ばれたのです」。
  • パウロの時代、土の器はどこにでもありました。役に立つけれどもありふれていて、安価で、簡単に割れ、一度使っただけで捨てられることも多く、すぐに取り替えられるものでした。神はこのような器に宝を納められました。疲れ、反対、苦しみ、疑いにさらされる、弱い者たちです。
  • なぜでしょうか。節の終わりがそれを語っています。この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。こうして、宝の価値と器の価値が混同されることはありません。賜物が大切でないという意味ではありません。パウロは教養のある人でした。しかし、彼のメッセージに価値を与えていたのは、イエス・キリストでした。

5. 試練の中で支える力

  • 8節と9節で、パウロは四つの対比を並べます。四方から圧迫されても窮することなく、途方にくれても行きづまらず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びないのです。
  • 「使徒パウロは超人ではありません」。彼は、途方にくれることもあり、自分に起こっていることが分からないこともあると認めています。神の力が自分を試練から守ってくれるとは言わず、試練の中で支えてくれると言っているのです。
  • 私たちは、信仰が病気や失敗や失望から守ってくれたらと願います。しかし、聖書の言葉はそのようなことを約束していません。そして多くの場合、私たちの力が尽きたまさにそのときに、神の力は最もはっきりと現れ、神の臨在は最も確かに感じられるのです。
  • 10節から12節で、パウロは、イエスのいのちが現れるために、自分がいつもイエスの死を身に負っていると説明します。イエスは、この世の権力者のようにみわざを成し遂げられたのではありません。軍隊を起こさず、政治的な力を求められませんでした。へりくだり、仕え、苦しみ、十字架の上で死なれたのです。
  • まさにそこで、救いは成し遂げられました。罪のないお方が、私たちの罪が受けるべきさばきを身に負い、そして父が彼をよみがえらせたのです。「これがキリスト教の逆説です。神は、完全な弱さと思えるものの中で、ご自身の力を現されました」。
  • パウロは、自分の苦しみがキリストの苦しみと同じ価値を持つと主張しているのではありません。イエスの死は唯一のものであり、私たちの罪を負われたのはイエスだけです。しかし、十字架につけられた主に仕える人は、主の歩まれた道を歩むのです。

6. 目に見える成果で測らずに仕える

  • 私たちは、成功を目に見える成果で測りがちです。仕えることに犠牲が伴ったり、目に見える実を結ばなかったりするとき、どうなるでしょうか。仕えるとは、イエス・キリストの足跡に従って人を愛することであり、ときには、いや、しばしば、見返りなしに与えることを意味します。
  • だからといって、疲れ果てることが忠実さの証拠であるかのように、自分をすり減らすべきだというのではありません。「残念ですね。私はしばしば、とても忠実になってしまいそうですから」と、説教者はユーモアを交えて語ります。しかし、弱さや困難は、神がおられない証拠ではありません。
  • このことは、互いを見る目も変えます。神は、私たちの奉仕を、それが与える印象では測られません。教会のために忠実に祈る高齢の方、苦しんでいる人を定期的に気にかけるクリスチャン、聖書クラブの先生として毎週根気よく子どもたちに聖書を教える人。どれも華々しいことではありません。「大切なのは器ではなく、宝です」。
  • そして、クリスチャンではない方へ。弱く、不完全で、ときには期待外れのクリスチャンがいるからといって、彼らが伝えているメッセージが無効になるわけではありません。キリスト教はまさに、イエスが、ご自分を必要とする人々を救うために来られたと語っているのです。

7. 復活に基づく希望

  • 13節で、パウロは詩篇116篇を引用します。「わたしは信じた。それゆえに語った」。詩篇の作者が苦難の中にあったように、パウロも信じているから語り続けます。彼の確信は楽観ではありません。事実に基づいています。
  • 主イエスをよみがえらせた方は、主に属する人々をもよみがえらせ、「あなたがたと共に」御前に立たせてくださいます(14節)。この希望は使徒たちだけのものではありません。復活は象徴ではありません。イエスは本当に死に渡され、本当にいのちに帰られたのです。パウロはコリント人への第一の手紙で、キリストがよみがえらなかったのなら、信仰は土台をすべて失うと説明していました。
  • 彼の将来は、成功にも、計画にも、人の承認にも、さらには生き延びる力にさえもかかっていません。そして、この希望は彼を内側に閉じこもらせません。彼がすべてを耐え忍ぶのは、恵みがより多くの人に及び、感謝があふれるためです(15節)。希望は奉仕を養います。
  • 16節で、パウロは再び、落胆しないと語ります。外なる人は、年齢や病気や消耗によって衰えていきます。しかし、内なる人は日ごとに新しくされていきます。それは鉄の意志ではありません。体が弱っていくときでさえ、信じる人々をイエス・キリストの姿に変えてくださる聖霊のみわざです。
  • できることが減り、人に頼らなければならなくなったとき、私たちのいのちの価値は小さくなるのでしょうか。パウロは、そうではないと答えます。「キリスト者の人生の最後の年月は、肉体の衰えであるだけではなく、備えの時なのです」。
  • 17節で、パウロは「このしばらくの軽い患難」と語ります。彼は後に、打たれたこと、投獄されたこと、死の危険、すべての教会への心づかいについて語る人です。彼は比べています。私たちの苦しみには終わりがありますが、約束された栄光には終わりがありません。天秤にかければ、重さは比べものになりません。聖書は病気や不正や死を良いものとは決して呼びません。しかし、これらの現実は、神が約束を果たされるのを妨げることはできないのです。
  • こうしてパウロは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます(18節)。仕事も、計画も、健康も、お金も、家族も大切です。しかし、そのどれも永遠ではありません。もし私たちの将来が本当によみがえられたキリストの手の中にあるなら、過ぎ去るものを確保することに人生を費やす必要はありません。自分に仕えるのではなく人に仕え、犠牲が伴っても愛し、そして将来を確信をもって見つめることができます。「神が私たちに何を用意しておられるかを知っているからではなく、私たちがだれのものであるかを知っているからです」。

要点

  • 神は福音という宝を土の器にゆだねられました。それは、測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことを示すためです。
  • 不信仰は霊的な盲目です。「光あれ」と言われた神だけが目を開くことができます。私たちの役割は、イエス・キリストをゆがめることなく忠実に宣べ伝えることです。
  • 神の力は、私たちを試練から免れさせるのではなく、試練の中で支えてくださいます。
  • 神は私たちの奉仕を、それが与える印象では測られません。器にひびが入っていても、宝は少しも価値を失いません。
  • 私たちの希望は、死んでよみがえられたイエス・キリストにあります。死さえも壊すことのできない土台です。

個人への適用

  1. 今日、あなたの希望は何に支えられていますか。健康、能力、成功でしょうか。それとも、死んでよみがえられたイエス・キリストでしょうか。
  2. 実際よりも強く見せなければならないと感じていませんか。神の前で自分の限界や疲れ、落胆を認めたら、何が変わるでしょうか。
  3. 自分の信仰について話すとき、心にさわることは黙って、喜ばれることだけを残したくなりませんか。
  4. 目に見える成果のない、目立たない奉仕のうち、神はどれを忠実に続けるようあなたを招いておられますか。
  5. もしあなたがクリスチャンではないなら、イエスについてのあなたの考えは何に基づいていますか。福音書がイエスについて何と語っているか、時間をかけて読んだことがありますか。

引用された聖句

よくある質問

土の器の中の宝というイメージは、何を意味していますか。

宝とは福音、すなわちイエス・キリストの御顔にある神の栄光の光です。土の器とは、使徒パウロと、彼と共に仕える人々のことで、ありふれたもろい人間です。神がこの対比を望まれたのは、測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことを示すためです(コリント人への第二の手紙4章7節)。

なぜこれほど多くの人が福音を受け入れないのですか。

コリント人への第二の手紙4章4節によれば、この世の神、つまりサタンが、信じない者たちの思いをくらませています。説教者は、問題はまず情報や知性の不足ではなく、霊的な盲目であると語ります。「光あれ」と言われた神だけが、目を開くことができます。

パウロは、なぜ自分の苦しみを「軽い」と呼べるのですか。

比べているからです。私たちの苦しみは、たとえ何年も続いても終わりがあります。神が約束される栄光には終わりがありません。天秤にかければ、永遠の重い栄光は、私たちが通るすべてのことを上回ります。だからといって苦しみが良いものになるわけではありませんが、苦しみは神が約束を果たされるのを妨げることはできません。

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