はじめに
その日は、女性のための断食と祈りの第5日目、金曜日の夜、ICCモントリオールの女性キャンプの前夜のことでした。サンドリーヌ・ビアルタがマイクを取り、長い一週間の労働に疲れてやって来た人々にシンプルな問いを投げかけます。「あなたは主にこう言えますか。『わたしは自分を整えたいです』と。」
その夜の「ティーチ&プレイ」のメッセージは、二つの聖書箇所を軸に組み立てられます。マリアとマルタがイエスを自分たちの家に迎える場面(ルカによる福音書10章38〜42節)、そして兄弟ラザロの死に直面するマルタの場面(ヨハネによる福音書11章)です。二つの場面、二人のマルタ、そして一つの同じ教え。それは良い部分を選び、そして信じて神の栄光を見るということです。
もしあなたが終わりの見えない競争の中にいるなら、もし無数の緊急事項に心が引き裂かれているなら、このメッセージはあなたのためのものです。
メッセージの構成
1. マリアのように良い部分を選ぶ
サンドリーヌは、よく知られたあの場面から語り始めます。マルタは奉仕のために動き回り、マリアはイエスの足もとに座ります。イエスはこう答えられます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに心を配って、思い煩っている。しかし、必要なことはただ一つである。マリアは良い部分を選んだ。それを彼女から取り上げてはならない。」
説教者は強調します。月曜から金曜まで働く人々にとって、その日は一週間の最後の日でした。忙しい一日、忙しい一週間、たくさんの心配事、疑問、重荷を抱えています。しかしイエスはこう言われます。「わたしたちが心配すべきことはただ一つです。マリアのようにすること。良い部分を選ぶことです。」
具体的には、こんな祈りになります。「わたしは疲れを忘れたいのです。わたしは自分の重荷を忘れたいのです。わたしは自分の心配事、予定、頭の中を占めているすべてのものを忘れたいのです。わたしは自分の頭を休めたいのです。わたしはただ場所を空けたいのです。今夜、わたしはただ自分の心を整えたいのです。」
2. 御臨在から汲み取りに来ること
この心の整えから、第二の姿勢が生まれます。それは汲み取ることです。サンドリーヌは、このメッセージ全体を貫く賛美「わたしは汲みに来ました」を取り上げ、それをマリアに当てはめます。「彼女は信仰を汲み取りました。彼女は熱心さを汲み取りました。彼女は知識を汲み取りました。彼女は神の愛を汲み取りました。彼女は神の真実を汲み取りました。彼女は聖さを、聖化を、祈りの霊を、信仰の霊を汲み取りました。」
そして、あなたに関わる問いが投げかけられます。「わたしの姉妹よ、あなたは何を汲み取りたいですか。わたしの兄弟よ、今夜あなたは何を汲み取りたいですか。」源は豊かであり、決して枯れることがありません。恵みは用意されています。御霊は用意されています。
サンドリーヌはこうまとめます。「あなたが祈ることをやめれば、あなたの持っているものは尽きてしまいます。しかしわたしは汲み取ることをやめられません。なぜなら、主なしにはわたしは何者でもないと知っているからです。」
3. 信じて神の栄光を見る
メッセージの第二の部分はヨハネによる福音書11章40節で開かれます。ラザロは死んで、すでに四日間葬られていました。マルタは「終わりの日」に復活があると信じています。イエスは彼女にこう答えられます。「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見ると、わたしはあなたに言わなかったか。」
マルタがまだ持っていなかった啓示、それはイエスが単に神の子であるだけでなく、いのちそのものであるということです。イエスは、望む者に、望む対象に、いのちを与えることができます。そして今夜も、同じ言葉がひとりひとりに語られています。サンドリーヌは自分の名前を直接その言葉の中に入れます。「サンドリーヌよ、もしあなたが信じるなら、神の栄光を見ると、わたしはあなたに言わなかったか。」あなた自身の名前をそこに置いてみてください。
4. 栄光を呼び求め、御霊に息吹かせる
サンドリーヌは、栄光が神ご自身の人格に結びついていることを思い起こさせます。すなわち、神の聖さ、偉大さ、豊かさ、力、権威、輝き、光です。かつて神は幕屋に、神殿に、契約の箱の中に住んでおられました(出エジプト記25章8節)。今日、神は信じる者の心の中に住んでおられます。ですから神の栄光はすでにあなたの内にあり、それが現れるように祈る必要があるのです。
その求めは具体的なものになっていきます。「わたしはあなたの栄光を、わたしの人生に、わたしの家庭に、わたしの家族に、わたしの子どもたちに、わたしの教会に、この国に見たいのです。」栄光を見せてほしいと求めたモーセのように、また場所が揺れ動くまで祈った初代教会のように(使徒言行録4章31節)です。
祈りの時の最後の部分は、聖霊への直接の招きです。「この場所に息を吹きかけてください。あなたの教会に息を吹きかけてください。このキャンプに息を吹きかけてください。」
5. 尊いお方への礼拝
メッセージは、エロヒム、ヤハウェ、アドナイへの長い礼拝の時をもって締めくくられます。それは無から万物を創造された神、永遠に治められる方、その御座がとこしえに立てられている方です。サンドリーヌはダビデのイメージを取り上げます。「わたしの手が熟練した書記の筆のようになり、わたしの最も美しい詩を主に語れますように。」(詩篇45篇2節)
そして、この締めくくりの言葉です。「これはあなたの臨在の終わりではありません。わたしたちはそれを家に持ち帰り、わたしたちの家族や家庭をも燃え立たせます。」
覚えておきたいポイント
- ただ一つのことが必要です。良い部分を選ぶとは、世の緊急事項が魂のただ一つの緊急事項を窒息させることを拒むことです。
- 祈りはパフォーマンスではなく、源です。そこに来て汲み取るのです。信仰、熱心さ、愛、聖化、祈りの霊を汲み取ります。
- 神の栄光を見ることは、信じることから始まります。「信じるなら見る」のであって、順序が逆になることは決してありません。
- キリストがあなたの心に住んでおられるなら、栄光はすでにあなたの内にあります。あなたが求めているのは、それが外に現れることです。あなたの人生に、家族に、教会に。
- 祈りの中で神があなたに与えてくださるものは、あなたと共に旅をします。あなたは手ぶらで帰るのではありません。あなたは主の臨在を家に持ち帰るのです。
個人への適用
今週、十分ほど時間を取って、次の問いに正直に答えてみてください。
- ここ数日、あなたはマルタ(そわそわして落ち着かない)に似ていますか、それともマリア(座って整えられている)に似ていますか。イエスの足もとに座ることを妨げているものは、具体的に何ですか。
- もし今夜汲み取りに来るとしたら、あなたは何を優先して求めますか。もっと信仰でしょうか。もっと愛でしょうか。もっと忍耐でしょうか。それを神の前で名づけてみてください。
- どの領域で、神の栄光が現れるのを見たいと願っていますか。あなた個人の人生、家庭、家族、教会、あなたの国でしょうか。それを書き出し、そのために具体的に祈ってください。
- 祈りの時から出るとき、あなたは何を「家に持ち帰り」ますか。あなたが今受け取ったばかりの臨在で、身近な人々をどう燃え立たせることができますか。
- あなたが許容してしまっている罪があり、それが神の栄光がそこに現れることを妨げていませんか。今日、それを告白し、手放す決断をしてください。
引用された聖句
- ルカによる福音書10章38〜42節・マリアは良い部分を選ぶ。
- ヨハネによる福音書11章25〜26節・「わたしは復活であり、いのちである。」
- ヨハネによる福音書11章40節・「もし信じるなら、神の栄光を見る。」
- ヨハネによる福音書6章68節・「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます。」
- 出エジプト記25章8節・「彼らはわたしのために聖所を造る。わたしは彼らの中に住む。」
- 出エジプト記33章18節・モーセ「どうか、あなたの栄光をわたしに見せてください。」
- ヨシュア記10章12〜13節・太陽が止まる。
- 列王記下20章11節・神はヒゼキヤのためにアハズの日時計の影を後戻りさせる。
- イザヤ書6章5節・「わたしは災いだ。わたしは滅ぼされる。」
- 使徒言行録4章31節・彼らが集まっていた場所が揺れ動いた。
- ヨハネの黙示録4章10節・24人の長老たちがひれ伏す。
- 詩篇16篇11節・「あなたの御前には満ちあふれる喜びがある。」
- 詩篇45篇2節・「わたしの舌は熟練した書記の筆のようだ。」
よくある質問
「良い部分を選ぶ」とはどういう意味ですか。
ルカによる福音書10章で、イエスは、奉仕に忙しくするマルタよりも、自分の足もとに座って耳を傾けるマリアの姿勢を評価しておられます。「良い部分を選ぶ」とは、日々の正当な緊急事項よりも、主との交わりを優先させると決めることです。それは奉仕を軽んじることではありません。奉仕が御臨在の場所を奪ってしまうことを拒むことなのです。
「もし信じるなら、神の栄光を見る」とありますが、状況が行き詰まっているように見えるとき、どう信じればいいのでしょうか。
ヨハネによる福音書11章の場面は、ラザロの死から四日後、すべてが終わったように見えるときに起こります。マルタは「終わりの日」の復活を信じています。イエスは彼女に、ご自分が「今」いのちであると信じるように求めておられます。ここでの信仰とは、困難の現実を否定することではありません。キリストがその困難よりも大きな方であると認め、行動してくださるように求めることです。信仰は目に見えることに先立つのであって、決してその逆ではありません。
なぜサンドリーヌはこれほど「汲み取る」ことについて語るのですか。
源のイメージはメッセージ全体を通して繰り返されます。それは二つのことを伝えています。まず、神は尽きることのないお方であるということ。神の恵みは枯れることがありません。次に、源に来ることをやめれば、クリスチャン生活は空っぽになってしまうということです。昨日受け取ったものだけでは、今日には足りません。祈りとは、毎日井戸の中へと降ろす、あのつるべなのです。
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