はじめに
変化の速い世の中で、道徳の基準が季節ごとに移り変わっていく中、あなたのクリスチャンとしての生き方は、いつのまにか周りの人たちと同じになってしまいがちです。ルネ・ウアンジ牧師は、ローマ人への手紙12章1〜2節と、サムソンの両親の物語(士師記13章)から、ひとつのシンプルな召しを思い起こさせてくれます。それは、神があなたを聖別されたということです。あなたの違いは、美的な選択でも、信心深いオプションでもありません。それは、人々が神を見、神への恐れを感じ、神の愛を味わうための通り道なのです。この記事では、このアイデンティティに立ち返り、率直にこう自分に問いかけてみましょう。「私の生き方を通して、キリストが見えているだろうか」と。
メッセージの構成
1. マノアとその妻 ― 神がどなたであるかを知る
- 士師記13章で、不妊の女性が、白い衣をまとった人と出会い、息子を授かると告げられます。彼女は急いで夫マノアに知らせ、マノアもその人と出会うことになります。
- マノアは主の使いに名を尋ねます。答えは「私の名は不思議です」。あらゆる名にまさる、偉大で、全能で、威厳に満ち、栄光に満ちた名です。
- マノアがいけにえを献げると、御使いは炎の中に入り、天へと昇っていきます。その瞬間、マノアとその妻は悟ります。「私たちは神を見た」と。
- クリスチャンとしての区別の出発点は、まさにこの啓示です。神がどなたであるかを知り、恐れをもってひざまずき、この出会いによって人生が変えられるままにすることです。
2. 神への恐れが失われつつある ― 取り戻さなければならない
- 神の家に入るとき、私たちは普通の場所に入るように入るのではありません。恐れとおののきをもって入るのです。
- この恐れが、ますます失われつつあります。自分が誰の前に立っているかを測ることなく、教会に来てしまう。神は私たちが想像もできないことをなさることができるのです。
- アフリカのある言語では「教会に行く」とは言わず、「神の家に行く」と言います。つまり、神の臨在の中に入る、すべてが神の光の前でかき消される場所に行く、ということです。
- その臨在の中に入ったなら、入ったときと同じ姿で出てくることはできません。何かが必ず起こるはずなのです。
3. 違いへの召し ― もはやこの世に倣ってはいけない
- ローマ人への手紙12章1〜2節。あなたのからだを、生きた、聖い、神に喜ばれるいけにえとして献げること ― それがあなたの理にかなった礼拝です。そして続きます。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心の一新によって自分を変えなさい。」
- 私たちはキリストの大使です(コリント人への手紙第二5章)。大使は他の人々と同じようにふるまいません。行く先々で自分の国を代表しているのです。
- それは具体的なところから始まります。話し方、人を見る目、他者への配慮、自分自身への向き合い方、同僚や同級生、隣人の間でのふるまい方です。
- 自分に問うべき問い。この世のどんな影響を自分の生活に取り入れてしまっているだろうか。他の人をまねるやり方、画面で見るもの、YouTubeやテレビに合わせてしまう生き方 ― 神はあなたを心の一新へと招いておられます。
4. 塩と光 ― あなたの味、人々が見る神
- マタイの福音書5章14〜16節。あなたは地の塩、世の光です。あなたは周りの人々に別の味を与えるため、また家にいる人々を照らすために造られています。
- 周りの人々がこう思えるようでなければなりません。「あの人の知恵はどこから来るのだろう」「あの人の平安はどこから来るのだろう」「どうして彼はののしらないのだろう」「どうして彼女はねたまないのだろう」「どうして彼は人を見下さないのだろう」「どうして彼女は批判しないのだろう」と。
- 「小さなキリスト、キリストに倣う者」 ― これこそ「クリスチャン」という言葉そのものの意味であり、弟子たちが主のように生きていたために、アンティオキアで初めてそう呼ばれたのです。
- もし塩が味を失えば、もう何の役にも立ちません。私たちのクリスチャンとしての生き方に、もはや際立った味がなければ、私たちのあかしは崩れてしまいます。
5. 隣人への愛 ― もっとも具体的な試金石
- ガラテヤ人への手紙5章14節。「律法の全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つの言葉で全うされるのです。」
- 15節。「気をつけなさい。互いにかみ合い、食い合っているなら、互いに滅ぼされてしまいます。」
- クリスチャンとしての区別は、私たちの家族や教会の内側に、憎しみや、ねたみ、争い、軽蔑、批判、分裂があるときに崩れ去ります。兄弟に対して憎しみを抱きながら、神を恐れていると主張することはできません。
- 肉のわざは明らかです(ガラテヤ人への手紙5章19〜21節)。不品行、偶像礼拝、敵意、争い、ねたみ、いさかい、分裂、そねみ……これらすべては、「小さなキリスト」というアイデンティティとは相容れないものです。
6. 礼拝とは求めに来ることではなく、献げに来ること
- 神に礼拝を献げるとは、神をあがめ、ほめたたえ、礼拝することです。まず「主よ、私を祝福してください」と言いに来ることではありません。
- あなたは、その週に神がなしてくださったことで満たされて教会に来て、それを兄弟姉妹の中で注ぎ出すのです。ともに、栄光と誉れと力と権威と威厳を神に献げるのです。
- もしあなたが、配偶者や子どもたち、兄弟に対する軽蔑の思いを抱いたまま教会に来るなら、あなたは神のわざではなく、分裂させる者のわざを行っていることになります。あなたは自分自身に嘘をついているのです。
- 自分自身を捨てることが、この区別の中心にあります。イエスはご自分の赦しに条件をつけませんでした。「赦すけれど、それに見合うかどうかは明日考える」とは言われませんでした。ただ愛し、赦されたのです。
7. どの器にもふさわしい場所がある ― あなた自身の姿で仕えなさい
- ある家には、金の器、銀の器、木の器、土の器、素焼きの器があります。どれもみな役に立ち、それぞれの場所を持ち、みな主人の栄光のために有用です。
- 自分にふさわしくない場所を取ってはいけません。自分にできないことを、できると偽ってはいけません。牧師は、自分は何でも作れる料理人だと言っていた若い女性の話でこれを説明します。ある日、日本からの代表団のために寿司を用意するように頼まれた彼女は、魚を前に二時間も動けずに立ち尽くしていたのです。
- あなたの区別は謙遜を通して実現します。神が召してくださった場所で、神が与えてくださったもので仕えなさい。人前に出ることを求めるのではなく、忠実であることを求めなさい。
- あなたがすることは、神のためにしなさい ― 自分のためでも、人に見られるためでも、自分にできることを証明するためでもなく。
まとめのポイント
- あなたのクリスチャンとしての違いは、ひとつの出会いから始まります。マノアのように、あなたの人生が変わるためには神を見る必要があるのです。
- 神への恐れとは、後ずさりするような怖さではなく、認める者としての敬意です。この恐れがなければ、あなたの礼拝は空っぽです。
- あなたは、行く先々で ― 職場でも、学校でも、家庭でも、近所でも ― キリストの大使です。あなたの違いこそが、あなたのあかしなのです。
- 「小さなキリスト、キリストに倣う者」 ― これがクリスチャンであるということです。バッジではなく、イエスに似た生き方です。
- もし愛と平安と柔和さがあなたの家族と教会の中に見えないなら、あなたのメッセージは外に届きません。区別は家庭から始まるのです。
個人への適用
- 今週、時間を取ってローマ人への手紙12章1〜2節をゆっくり読み返し、自分にこう問いかけてみましょう。「気づかないうちに取り入れてしまったこの世の影響は何だろうか」と。
- 祈りや礼拝の時間に入るとき、マノアのように ― 誰の前に立っているかを思い起こしながら、恐れをもって ― 入ってみてください。それによって何が変わるかを書き留めてみましょう。
- 自分の生き方がまだ際立っていない具体的な領域(話し方、職場でのふるまい、画面との付き合い方、反論されたときの反応の仕方など)をひとつ見つけてください。その点について、神に心を新しくしてくださるよう願い求めましょう。
- あなたの家族や教会の中に、あなたが抱えている争いや、ねたみ、批判はないでしょうか。今日、それを手放し、赦し、条件なしに祝福することを決めましょう。
- 神があなたに与えてくださった、神の教会の中での場所はどこでしょうか。与えられていない場所を取ろうとせず、謙遜をもってそこで仕えましょう。
引用聖句
- ローマ人への手紙12:1-2(中心テキスト)
- 士師記13章(マノアと主の使い)
- コリント人への手紙第二 5:20(キリストの大使)
- マタイの福音書 5:13-16(塩と光)
- ガラテヤ人への手紙 5:14-21(愛の律法と肉のわざ)
- 使徒の働き 11:26(弟子たちがアンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれた)
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よくある質問
ローマ人への手紙12章2節の「この世と調子を合わせてはいけません」とはどういう意味ですか?
この世と調子を合わせるとは、自分の考え方、話し方、行動を、周囲の世の中の型に合わせてしまうことです。パウロはそれとは反対に、心の一新、つまり神のことばによって私たちの内なる反応が少しずつ作り変えられていくことを呼びかけています。具体的には、あなたの反応、選択、娯楽、野心が、単なる社会的な習慣として従っているものから、少しずつ区別されていくべきだということです。これは頑なさではなく、信じていることと実際に生きていることの一貫性です。
なぜ牧師は神への恐れを強調するのですか?
聖書における神への恐れとは、暴君に対する恐怖ではなく、聖く、威厳に満ち、全能であるお方の前で覚える畏敬の念です。マノアとその妻は、自分たちが神を見たことに気づき、ひざまずきます。説教者は、この恐れが私たちの群れの中でますます弱まっていると指摘します。市場に行くような感覚で教会に来てしまっているのです。この恐れを取り戻すことは、神の臨在の中に入るときに自分が何をしているのかという意味を取り戻すことであり、そこから何を持って出て行くかを変えるのです。
傲慢にならずに「世の光」であるにはどうすればよいですか?
光であるとは、世の中を上から見下ろして裁くことではなく、日常のふるまいの中に、愛し方、話し方、赦し方をにじませることで、他の人々がその源を知りたいと思うようにすることです。マタイの福音書5章16節にはこうあります。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。それは彼らがあなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるためです。」目的は自分を目立たせることではなく、あなたの日常の生き方を通して神を見えるようにすることなのです。
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