わたしがあなたがたを愛したように:イエスの新しい戒め(ヨハネ13:34〜35)
アガペ教会、ジュディットによる説教、2026年2月1日。日本語で行われた礼拝のフランス語訳を、フランス語圏の読者のために牧会的な調子で翻訳したもの。
はじめに:イエスの最後の言葉
もし聖書全体の中から、たった一つの言葉を選ばなければならないとしたら、あなたはどれを選びますか。この問いはめまいがするほど大きく、正直なところ、私たちはよく「選べない」と答えてしまいます。けれども、イエスご自身は選ばれました。十字架を目前にした過越の食事(私たちが最後の晩餐と呼ぶもの)の間に、イエスは弟子たちに別れの言葉を残されました。一種の遺言です。そして、そこでイエスが何よりも繰り返し語り、弟子たちすべて、そしてすべてのクリスチャンに、何よりも心に留めてほしいと願われた言葉、それがこれです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るようになります。」(ヨハネ13:34〜35 LSG)
イエスの心は、そこにあります。死を前にしてイエスの心を占めていたのは、私たちがイエスのために何か偉大なことを成し遂げるかどうかではなく、後に残していく私たちが、互いにどう愛し合うかということだったのです。
説教の構成
1. この戒めの何が「新しい」のか
隣人を愛するという戒めは、新しいものではありません。レビ記19:18にはすでにこうありました。「あなたは自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛さなければならない。」そしてイエスご自身も、最も大きな戒めについて尋ねられたとき、この箇所を引用されます。では、何が新しいのでしょうか。
それは、愛し方の基準にあります。旧約聖書は「自分自身のように」と言いました。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。これはもはや、自己愛の尺度ではありません。キリストの愛の尺度です。そしてこの基準は、前者をはるかに超えています。
2. 「イエスが愛されたように」愛する:足を洗うこと……そして十字架
この箇所のすぐ前、ヨハネ13:4〜11で、イエスは弟子たちの足を洗われます。主人がしもべの仕事をされるのです。そしてイエスはこう加えられます(ヨハネ13:14〜15)。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」当時、埃だらけの道をサンダルで歩いていた時代には、足を洗うことは汚れ仕事でした。イエスはそれをなさいました。
しかし、この場面はそこで終わりません。この食事の後、イエスは十字架へと向かわれます。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、こういう意味でもあります。自分のいのちを与えるところまで。ピリピ2:6〜8はそれをこうまとめています。「キリストは、神の御姿であられるのに……ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。……自分を低くして、死にまで従い、それも十字架の死にまで従われました。」そしてイエスはヨハネ15:13ではっきりとこう言われます。「友のためにいのちを捨てること、それよりも大きな愛は、だれも持っていません。」これが、その基準です。
3. さばくのではなく、覆うこと
弟子たちの汚れた足は、象徴的に、私たちの弱さ、失敗、肉、未熟さでもあります。それを相手の中に見たとき、あなたはどうしますか。第一コリント13章は、愛が寛容であり、親切であり、いらだたず、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶと語っています。箴言10:12はこう付け加えます。「愛はすべてのそむきの罪をおおう。」
相手の弱さを覆うこと、その肩に手を置くこと、励ますこと、ともに歩むこと、その人のために祈ること。それが、あなたが招かれていることです。さばくことではありません。マタイ7:1「さばいてはいけません。それは、あなたがたがさばかれないためです。」ローマ14:4「他人のしもべをさばくあなたは、いったい何者ですか。」唯一の裁き主は主イエスです。あなたは、その日が来るのを待つ間、愛するようにと召されているのです。
4. 一万タラントの負債
あの、非情なしもべのたとえを思い出してください。一万タラントとは、途方もない金額です。今日で言えば、何億円にも相当します。それが、神の前にある私たちの負債です。イエスはそれを十字架で帳消しにしてくださいました。それでも、そのことを忘れれば、私たちはわずかな負債のために隣人の首を絞め上げ、たとえ話の中のように、結局は牢に入れられてしまう危険があります。あなたが自分を「赦された罪人」であると覚えている限り、あなたは愛することができます。それを忘れたとたん、あなたは頑なになってしまいます。
5. 兄弟を愛することは、神を愛すること
第一ヨハネ4:20〜21「もしだれかが『わたしは神を愛している』と言いながら、自分の兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。」神を愛することと、私たちの兄弟姉妹、隣人を愛することは、同じコインの両面です。なぜでしょうか。それは、神ご自身が彼らを愛しておられるからです。彼らを愛さないことは、御父の御心に、そして彼らの内に住んでおられる聖霊に、逆らうことになります。イエスは、あなたがうまくいかないあの兄弟のためにも死なれました。あなたの彼への嫌悪感は、御父の御心に触れているのです。
6. 愛は選択であって、感情ではない
「愛は感情ではなく、意志です。」もしあなたが愛したい気持ちになるのを待っているなら、あなたは決して愛することができないでしょう。この世はあなたにこう言います。「自分らしくあれ。自分の感情に耳を傾けろ。」福音はあなたにこう言います。自分を律しなさい、みことばに従いなさい、愛することを選びなさい、その一歩を踏み出しなさい。そうすれば聖霊が、内側からその力を与えてくださいます。気持ちが伴わないまま愛することは、偽善ではありません。それは信仰であり、成熟です。逆に、自分の感情のままに生きることは、「本物である」ことではなく、未熟であることなのです。
7. 源:あなたの内に注がれた聖霊
この愛を、あなたは自分自身で作り出すことはできません。ローマ5:5「神の愛は、私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に注がれているからです。」あなたがキリストを受け入れたとき、聖霊があなたの内に住むために来られました。そしてガラテヤ5:22〜23は、この御霊の実の第一のものが愛であることを思い起こさせます。あなたのクリスチャン生活は、回心の後に自動的にあなたを変えてしまう魔法ではありません。それは、ともに回る二つの車輪です。内側から語りかける御霊と、従うことを決断し、その行いをなし、その一歩を踏み出すあなた自身です。
8. 「互いに愛し合いなさい……さもなければ」
もう一つの、より厳粛な側面もあります。マタイ7:21〜23「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」多くの人はこう言うでしょう。「私たちはあなたの名によって預言をし、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行いました。」すると主はこう答えられます。「わたしはあなたがたを全く知らない。不法を行う者たち。わたしから離れて行きなさい。」ここで言う不法とは、単に大きなスキャンダラスな罪だけを指すのではありません。悔い改めないこと、赦さないこと、主の愛をもって愛さないこともまた、それに含まれます。
山上の説教はこう続きます(マタイ7:24)。「だから、わたしのこれらのことばを聞いて行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえられます。」聞くこと、そして実行に移すこと。ヤコブ2:26もこれを裏づけます。「たましいのない身体が死んだものであるのと同じように、行いのない信仰も死んだものです。」この行いとは、何よりもまず、具体的な愛の行為なのです。
要点のまとめ
- 新しいのは、愛の基準です。もはや「自分自身のように」ではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」、十字架に至るまでです。
- 愛は覆います。相手の弱さをさばくのではなく、覆うのです(箴言10:12)。
- あなたは赦された罪人です。それを忘れれば頑なになり、それを覚えていれば、あなたはあわれみ深くなります。
- 愛することは意志であって、感情ではありません。決断し、その一歩を踏み出しなさい。あとは御霊が内側から働いてくださいます。
- 兄弟を愛することは、悔い改めや赦しと同じように、御国に入るための条件です(マタイ7:21〜23)。
個人的な適用
- 今週、私にとって愛することが難しい人は誰ですか。その人の「足を洗う」とは、具体的にどういうことでしょうか。
- 私は、キリストが私のために帳消しにしてくださった、あの計り知れない負債を忘れていないでしょうか。この記憶は、私を傷つけた人々を見る目を、どのように変えるでしょうか。
- 私は、愛したい「気持ち」になるのを待っているのでしょうか、それとも、従順と信仰によって愛することを決断しているのでしょうか。
- 私は御霊が私を変えてくださるのを許しているでしょうか、それとも、その内なる語りかけを押し返しているでしょうか。
- もし今日イエスが私にこう尋ねられたら、「あなたはこの世で、わたしの兄弟姉妹たちのために何をしたか」と。私は何と答えられるでしょうか。
引用聖句
- ヨハネ13:34〜35 · 新しい戒め
- ヨハネ13:4〜15 · 足を洗うこと
- ヨハネ15:12〜13 · 友のためにいのちを捨てること
- レビ記19:18 · 隣人を自分自身のように愛すること
- 第一コリント13章 · 愛の章
- 箴言10:12 · 愛はそむきの罪をおおう
- マタイ7:1、21〜24 · さばくな、御父のみこころを行いなさい
- ローマ14:4 · 他人のしもべをさばくあなたは何者か
- 第一ヨハネ4:20〜21 · 神を愛することは兄弟を愛すること
- ローマ5:5 · 御霊によって注がれた神の愛
- ガラテヤ5:22〜23 · 御霊の実
- ピリピ2:6〜8 · キリストのへりくだり
- マタイ24:12 · 多くの人の愛が冷える
- ヨハネ1:5 · 光は闇の中に輝く
- ヤコブ2:26 · 行いのない信仰は死んでいる
よくある質問
ヨハネ13:34は旧約聖書を廃棄するのですか。
いいえ。イエスは「あなたは自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛さなければならない」(レビ記19:18)を取り除かれるのではありません。イエスはそれを成就し、さらに先へと進め、新しい基準、すなわち十字架に至るまでのご自身の愛を定められるのです。
自分が好きになれない人々をも愛さなければならないのですか。
はい、あなたがイエスを本気で受け止めるなら。聖書的な愛は感情ではなく選択です。何も感じなくても、あなたは愛の行為を実行することができます。まさにそこから、御霊があなたの内で働き始めるのです。
「恵みによって救われている」ことは、愛することを免除してくれるのですか。
いいえ。恵みはその入り口においてあなたを救います。しかし、マタイ7:21〜23、ヤコブ2:26、ヨハネ13:34〜35は明確です。生きた信仰は従順と愛を生み出します。「愛すること」は道徳的な選択肢ではなく、御国の律法なのです。
今週のための祈り
主イエスよ、あなたは十字架に至るまで私を愛してくださいました。今日、私は、たとえ心が抵抗しても、愛することを選びます。あなたの御霊を私の内に注いでください。さばくのではなく覆うことができるように、支配するのではなく仕えることができるように、あなたが帳消しにしてくださった負債を思い出すことができるように、私を造り変えてください。私を真の弟子としてください。私の愛によって、すべての人が、私があなたのものであることを認めますように。アーメン。
注:説教の中で語られた「レビ記19:8」という参照は、正しくはレビ記19:18(隣人愛についての本当の節)に訂正されています。
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