はじめに
3月1日のこの日曜日、ユディト姉妹は前夜に起きた歴史的な出来事、イスラエルとアメリカによるイランへの共同攻撃から、メッセージを語り始めました。彼女は、古代ペルシャであるイランが昔からイスラエルの民に敵対してきたこと、そしてこのニュースが、ハマンというアガグ人がユダヤの民を滅ぼそうとしたところから救い出されたことを記念するプリムの祭りの直前に起こったことに触れました。そこから彼女はこう学びを引き出しました。神様はご自分のやり方で、決して時を誤ることなく、歴史の中にご計画を織り込んでおられるのです。「くじは、ひざの上に投げられるが、事はすべて主が定める」(箴言16:33)。
この導入のあと、彼女はイザヤ書14:13-15から取られたメッセージの核心に入っていきました。「あなたは心の中で言った。『私は天に上り、私の王座を神の星々よりも高く上げ……いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに、穴の底に落とされる」。
彼女のテーマはこうです。「高慢、それはあなたを神と人から引き離す罪である」。それは盗みや嘘のように誰の目にも明らかな罪ではなく、静かで見えにくい罪です。しかし、それでも神様があなたの人生に建てようとしておられるものを、根こそぎ壊してしまうのです。
メッセージの構成
1. 高慢、すべての罪の根
ユディトはその源をさかのぼります。アダムの堕落の前に、サタンの堕落がありました。イザヤ書14章は、栄光に満ちた者として造られながら、神様より高く上ろうとした存在を描いています。その結果、サタンと三分の一の御使いたちが天から落とされました。罪の一番最初の根、それは神様より上に立とうとするこの意志なのです。
アダムとエバも、同じ落とし穴に落ちました。蛇はこう約束しました。「あなたがたの目が開かれ、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを」(創世記3:5)。禁じられた実は美しく、美味しそうで、賢くなれそうな魅力がありました。しかし、心が本当に渇望していたのは実そのものではなく、独立でした。自分で判断し、自分で決め、神様なしでやっていきたいという願いだったのです。
善悪を知る木は、思考の領域、つまり神様からの独立に関わるものだと彼女は言います。いのちの木は、霊の領域、つまり神様への依存に関わるものです。エデン以来、すべての人はこの二つのどちらかを選ばなければならないのです。
2. 聖書が「高慢」と呼ぶもの
聖書的な高慢とは、単に胸を張って威張ることではありません。それは、あなたの人生における神様の主権とご性質を拒むことです。丁寧であってもなくても、「ありがとう、でも自分でやっていけます。必要になったらまた呼びます」と言うことです。自分自身でかじ取りをしようとすることなのです。
その警告は厳しいものです。「高ぶる心を持つ者はみな主に忌み嫌われる。確かに、罰を免れない」(箴言16:5)。そして、「高ぶりは破滅に先立ち、傲慢の霊は倒れに先立つ」(箴言16:18)。反対に、ヤコブ4:6はこう告げています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者には恵みを与えられる」と。
ユディトは、パスカルのこの言葉を引用しました。「高慢とは、人間の状態の根底にある惨めさを無視することである」。自分を過大評価するのも高慢ですが、自分を過小評価し、絶えず自分を貶め続けることも、同じ罪のもう一つの顔なのです。この二つのベクトルは、同じ方向、すなわち「自分が中心」という方向を指しています。
3. 高慢はあなたと神様との関係を壊す
神様はあなたに無理強いをなさいません。あなたの代わりに車のブレーキを踏むこともなさいません。神様は語られますが、それは静かな声で、聞こうとする者に対してです。多くの人が後になってこう不満を言います。「どうして私を止めてくれなかったのですか」と。しかし神様は語っておられたのです。本当の問題は、それを聞こうとしなかったことにあります。ヨブ記35:12-13はこう言っています。高ぶる者は叫んでも答えを受けられません。神様が彼らに耳を傾けられないからです。
ユディトは、自己吟味のない人生を、ブレーキのないスポーツカーに例えます。「ランボルギーニが欲しいのですか。どうぞ、あなたのものです。ただし一つだけ問題があります。ブレーキが利かないのです」。そんな車で時速200キロを出したいと思う人はいないでしょう。それなのに、霊的には、多くの人がまさにそのように生きています。コリント人への手紙第二13:5は、自分が信仰にとどまっているかどうか、自分自身を吟味するようにと私たちに求めています。
4. 高慢はあなたと人との関係を壊す
あなたが兄弟を裁くとき、あなたは自分をその人より上に置いています。あなたが裁判官になっているのです。ローマ14:4は問いかけます。「あなたはいったい何者なのか。他人のしもべをさばくとは」。そしてイエス様ははっきりと言われます。「さばいてはいけません。あなたがたがさばかれないためです」(マタイ7:1)。
ピリピ2:3-5は、その論理をひっくり返します。「何事も自己中心や虚栄からではなく、へりくだって、それぞれ自分よりも他の人がすぐれていると思いなさい」。これは、相手の過ちに目をつぶれということではありません。その過ちを自分で裁くのではなく、祈りをもって神様の前に運びなさいということです。
赦すことを拒み、傷を証拠品のように取っておくこと、「あそこで傷つけられたから、もう教会には行かない」と言うこと。これもまた高慢の一つの姿です。傷ついた人は自分の中で裁判を繰り返し、正しい者の役割を保ち続け、自分を閉じ込めてしまいます。
5. 高慢はあなたと自分自身との関係を壊す
箴言26:12はこう警告します。「自分の目に自分を知恵ある者と見る人を見たか。彼よりも、愚か者のほうにまだ望みがある」。何でも知っていると思っている人は、人とのつながりを絶ち、もう何も学ぼうとせず、自分だけの小さな世界に閉じこもってしまいます。その人の周りでは、やがて誰もが取るに足らない存在に見えてきます。本人も気づかないうちに、孤独を選んでしまうのです。
6. 高慢の十四の具体的な顔
ユディトは、日常の中で高慢を明らかにする十四の兆候を一つひとつ取り上げていきます。自分自身を吟味してみましょう。
- 神様の栄光を盗むこと。神様がなさったことを、自分の栄光にしてしまうこと。「わたしは、わたしの栄光を他の者に与えない」(イザヤ42:8)。
- 自己中心。賜物を、人を育てるためではなく、自分を満足させるために使うこと(ペテロ第一4:10)。賜物は天国への切符ではありません。マタイ7:21-23がそれを強く思い起こさせます。
- 常に要求すること。忍耐のなさ、絶え間ない権利の主張。もう何も待たない信仰。「これは自分が受けるべきものだ」という「当然の権利」という病は、貪欲と同じくらい人を引き離します。
- 優越感、あるいは劣等感。どちらも高慢です。ローマ12:16。「自分自身を知恵ある者と考えてはいけません」。
- 装われた皮肉。本当のことを言う勇気を持つ代わりに、「冗談めかした」小さな一言で傷への仕返しをすること。それは勇気ではなく、むしろ勇気のなさの表れです。
- 批判と裁き。「ですから、主が来られるまでは、何についても先走って裁いてはいけません」(コリント第一4:5)。
- 忍耐のなさ。コリント第一13:4-5。「愛は寛容であり……自分の利益を求めない」。
- 貪欲。「あらゆる貪欲に対して、よくよく警戒しなさい」(ルカ12:15)。
- かたくなな心。「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい」(ローマ12:14-15)。関係を断ち切り、無関心の中に閉じこもること。それはすでに、大きくなりつつある高慢の根です。
- 学ぶことを拒むこと。エレミヤ7:24は、もはや聞き従わず、自分自身の計画に従って歩む民の姿を描いています。誰一人として、注意を受けるには自分は大きすぎる、という者はいません。
- 赦さないこと。傷をトロフィーのように大事に育て、恨みの中に自分は正しいと思い込むこと。
- 人の目を気にして生きること。神様の目ではなく、人の目のために生きること。パウロはこう書いています。「もし私が今でも人に喜ばれようとしているなら、私はキリストのしもべではないでしょう」(ガラテヤ1:10)。
- おべっか。下心を持って人をほめること、相手を操れるかどうかを試すこと。それは励ましではなく、罠です。
- 自己憐憫。「私はこんなにかわいそうなのに……」。自分の傷を神様に委ねることを拒み、それを自分で養い続けること。ユディトは告白します。司法試験に何度も落ち続けた年月の中で、彼女は「世界チャンピオン級の自己憐憫」に陥っていたと。彼女がそこから抜け出せたのは、神様に不平を言うのをやめ、その傷を神様に委ねたときでした。
それぞれの症状には、同じ処方箋があります。それを認めること、告白すること、そしてキリストに向き直ることです。
7. へりくだりへの道
へりくだりとは、自分を卑下することではありません。神様が見ておられる真実を認めることです。すなわち、神様なしには、自分は何もできないということです。ガラテヤ2:20は、この姿勢をこうまとめています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。これは魔法の言葉ではありません。毎日新たにすべき決断です。自分の考えを手放し、キリストに従うことを選ぶという決断です。
ユディトはエペソ4:13-15の比喩を思い起こさせます。すべてにおいて、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長すること。そしてヘブル6:1。「キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか」。恵みによって生きるとは、戦うことなく恵みの中に安住することではありません。私たちは罪と戦います(必要ならば血を流すまで)。なぜならキリストが私たちに実を結ぶようにと召しておられるからです。
具体的に、彼女はよく祈るための一つの祈りの言葉を提案します。「主よ、私の罪を示してください。あなたが語られることを聞き入れる勇気を私に与えてください。私の感情と行いを、あなたの御言葉に従わせる助けをください。私はあらゆる高慢を捨てます。私を助けに来てください」。
覚えておきたいポイント
- 高慢はすべての罪の根です。サタンの堕落もアダムとエバの堕落も、同じ仕組みです。神様なしでやっていこうとする意志です。
- 聖書的な高慢とは、神様の主権を拒むことです。それは単に威張ることではなく、自分だけで自分の人生を導こうとすることです。
- 高慢は三つの関係を同時に壊します。神様との関係、人との関係、そして自分自身との関係です。この罪はあなたを孤独にします。
- 高慢には目立たない顔があります。皮肉、おべっか、自己憐憫、聞くことの拒絶、性急な裁き。追い求めるべき兆候の数々です。
- 自分を過小評価することもまた高慢です。本当にへりくだった人は自分のことを語らず、キリストを見つめます。
- へりくだりは日々の決断です。自分の考えを手放し、キリストに従い、自分の声ではなく神様の静かな声を選び取ることです。
- サタンはへりくだった人には手出しできません。サタンは高慢な人にはおだてて操りますが、へりくだった人を倒すことはできないのです。
あなた自身への適用
- 高慢の十四の顔のうち、今週のあなたに最も正直に当てはまるのはどれですか。時間を取って、それを神様の前で名前を挙げてみましょう。
- 最近、拒んでしまった指摘や注意、訂正はありませんか。その人のところに戻って、感謝を伝えることはできますか。
- 何か月も、あるいは何年も抱えている恨みはありませんか。それを神様に委ねることを妨げているものは何ですか。
- 今、神様はどんなことについて、静かな声であなたに語りかけようとしていますか。たとえ小さなことでも、聞き取ったことを書き留めてみましょう。
- 神様はあなたにどんな賜物を委ねられましたか。それは本当に人を育てるために用いられていますか、それとも何よりまず自分を満足させるためのものになっていますか。
引用された聖句
- イザヤ14:13-15・「いと高き者のようになろう」とした者の堕落
- 創世記3章・アダムとエバ「あなたがたは神のようになる」
- 箴言16:5・高ぶる心は主に忌み嫌われる
- 箴言16:18・「高ぶりは破滅に先立つ」
- 箴言16:33・「事はすべて主が定める」
- 箴言26:12・自分の目に知恵ある者
- ヨブ記35:12-13・高ぶる者の叫び
- イザヤ42:8・「わたしの栄光を他の者に与えない」
- エレミヤ7:24・もはや聞き従わない民
- マタイ7:1・「さばいてはいけません」
- マタイ7:21-23・「わたしはあなたがたを全く知らない」
- ルカ12:15・「あらゆる貪欲に警戒しなさい」
- ローマ12:14-16・祝福すること、共に泣き共に喜ぶこと
- ローマ14:4・「あなたはいったい何者なのか、他人のしもべをさばくとは」
- コリント第一4:5・「先走って何も裁いてはいけません」
- コリント第一13:4-5・自分の利益を求めない、寛容な愛
- コリント第二11:30・「自分の弱さを誇ろう」
- コリント第二13:5・「自分自身を吟味しなさい」
- ガラテヤ1:10・神に喜ばれるか、人に喜ばれるか
- ガラテヤ2:20・「もはや私が生きているのではない」
- エペソ4:13-15・キリストの身丈にまで成長すること
- ピリピ2:3-5・自分よりも他者をすぐれた者と見るへりくだり
- テサロニケ第一5:16-18・喜び、祈り、感謝
- ヘブル6:1・成熟を目指して進むこと
- ヤコブ4:6・神は高ぶる者を退けられる
- ペテロ第一4:10・人に仕えるための賜物
- ヨハネ第一1:8・もし罪がないと言うなら
よくある質問
高慢とは、単に自尊心の問題ではないのですか。
いいえ、違います。聖書において高慢とは、まず神学的な問題です。あなたの人生において神様が神様であることを拒むこと、自分だけでかじ取りをしようとすることです。だからこそ、それはあらゆるところに隠れています。自己中心の中にも、自己憐憫の中にも、人を裁くことの中にも、人の目を恐れることの中にも。
自分がだめな人間だと感じるなら、それはへりくだっているということですか。
それも違います。絶えず自分を貶め、「自分には何の価値もない」と思い込むことも、やはり自分自身にスポットライトを当てていることに変わりありません。へりくだりは自分ではなくキリストを見つめます。自分の弱さを認めるのは、神様の力を受け取るためであって、その弱さに居座るためではありません。
注意を受けたと感じるとき、それが本当に神様が語っておられるのかどうか、どうすればわかりますか。
神様の声は柔らかく、しかし明確であり、御言葉と調和し、それに従うとき平安をもたらします。その声はしばしば周りの人々を通して、時にはあなたが最も好きではない人を通して届きます。もし何かの指摘が本当に心に触れたなら、それを言った人を攻撃するのではなく、神様の前にその指摘を持って行きましょう。神様からの多くの注意は、高慢がまず拒んでしまうような「人間を介した回り道」を通してやって来るのです。
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