はじめに
ヨハネ6章は、シンプルでありながら戸惑わせることば、食べるを中心に展開します。イエスは五千人を養われたばかりで、こう宣言されます。「わたしはいのちのパンです。」41節から71節にかけて、前日に満腹させられた群衆がつぶやき始めます。多くの弟子たちが離れて行きます。それでも、この難解な箇所の中心には、イエスがすべてのクリスチャン生活の鍵を差し出しておられます。イエスを信じるとは、決して尽きることのないパンとして、日々イエスを味わうことなのです。
この説教は、この箇所を一歩ずつイエスと共にたどり、群衆がなぜそこでつまずいたのか、「イエスの肉を食べ、血を飲む」とはどういう意味なのか、そして今日あなたが、自分の努力にも、その時々の感情にも左右されない、神との生きた関係にどうすれば入っていけるのかを理解するための助けとなるものです。
説教の構成
1. つぶやき:私たちの先入観が耳をふさぐとき(41-42節)
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われるのを聞いて、つぶやきます。彼らはイエスの父ヨセフを知っており、母も知っています。この人が、どうして天から来たなどと言えるのでしょうか。
問題は、このみことばの神秘そのものではありません。問題は、彼らがこのみことばに何を持ち込んでいるかです。彼らは、自分たちの持つ情報、常識、先入観からイエスのことばを判断しています。「そんなことはあり得ない」と考えた瞬間、扉は閉ざされてしまいます。
これは私たちにも起こることです。私たちは「いや、そんなふうにはならないはずだ」と思いながら聖書を読んでしまいます。自分自身の経験を通してみことばをふるいにかけるとき、私たちはそこでつまずき、前に進めなくなります。もし神が私たちに水の上を歩けと言われるなら、少なくとも試してみるべきです。もし神が私たちに愛し、赦せと言われるなら、問うべきは「それは現実的だろうか」ではなく、「私はそれに聞き従うだろうか」なのです。
2. 父が引き寄せる:選びと私たちの応答(43-44節)
イエスはこう答えられます。「わたしを遣わした父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのところに来ることはできません。」この節は目のくらむような節です。すぐにこう考えてしまいます。もし神が私を選んでいなかったらどうしよう、と。
神が誰を選ばれたのか、私たちには分かりません。それは神の知恵であり、私たちの領分ではありません。もしそれが分かってしまえば、私たちはもう何もしなくなってしまうでしょう。私たちに分かっているのは、私たちの側の役割、すなわち応答することです。神の選びと人間の応答は対立するものではなく、共に働くものです。私たちは選びを見極めることはできませんが、父の愛に応答するために最善を尽くし、他の人々もそれに応答するように祈ることはできます。
私たちの誰も、誰かを救うことはできません。私たちはできることをして、その責任は神におゆだねします。もし私たちが他者の救いの重荷を背負ってしまうなら、それは告発者に開かれた扉となってしまいます。私たちの役割は、与えられたもので最善を尽くすことです。
3. 父から学ぶ:謙遜をもって聞く(45-46節)
イエスは預言者たちのことばを引用されます。「彼らはみな神によって教えられる」(イザヤ54:13、エレミヤ31:34)。神から来られた方以外、誰も神を直接見た者はいません。ですから、聞くべきはイエスなのです。そしてイエスは聖書を通して語られます。旧約聖書、福音書、そしてイエスご自身が教えられた使徒たちの手紙を通して。
父から学ぶとは、そのみことばをねじ曲げずに聞くことです。忠実な牧師がすべきことは、みことばをありのままに説明することであり、自分自身の欲求を正当化するために利用することではありません。そして一人で聖書を読むあなたにとっては、一日五分で十分です。ただし、正直な問いをもってそこに来ることが条件です。主よ、あなたはこの箇所を通して私に何を語りたいのですか、と。
使徒2:42において、初代教会は使徒たちの教え、交わり、パン裂き、祈りに専念していました。この四つの働きは、あなたが父から学び、御霊が示してくださったことを分かち合う助けとなるために存在しています。礼拝のあとに兄弟姉妹どうしで分かち合うことは、神が私たちを互いを通して教え続けてくださる、実際の場なのです。
4. わたしはいのちのパンです:永遠の関係の約束(47-51節)
「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」永遠のいのちとは、単なる長さのことではありません。それは関係のことです。それは、子どもが父を呼ぶように神を呼び、決して終わることのない親密さの中で、息子として、娘として神に呼ばれることです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった、とイエスは言われます。マナは、いかに奇跡的なものであっても、いのちを与えることはできませんでした。しかし天から下って来たパン(イエスご自身)は、永遠のために朽ちることのないからだを与え、そして何よりも、決して消えることのないこの父との関係を与えてくださるのです。
5. 肉を食べ、血を飲む:新しい契約のことば(52-59節)
ユダヤ人たちは論争します。この人はどうして自分の肉を私たちに食べさせることができるのか、と。イエスは引き下がるどころか、さらに踏み込んでこう言われます。「あなたがたは、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、自分たちのうちにいのちを持たないのです。」
この表現は象徴的なものです。サマリアの女に語られた水が御霊を表す象徴であったのと同じです。肉とは、私たちの罪を負うために引き渡され、打たれ、十字架につけられたイエスのからだのことです。血とは、十字架で流された血であり、エレミヤ31章で告げられ、ヘブル8章で語り直された新しい契約の証印です。食べ、飲むとは、イエスを最も深いところで受け入れることであり、その十字架があなたの信仰の日ごとの糧となるように委ねることです。
6. 「このことばはひどい」:先入観が犠牲を拒むとき(60-66節)
多くの弟子たちがつぶやきます。「このことばはひどい。」ギリシア語の原語は「スクレーロス」であり、硬い、耐え難い、彼らの耳にはほとんど冒涜のように響くことばです。彼らは「分からない」と言っているのではありません。「拒否する」と言っているのです。
なぜでしょうか。それは彼らが、ローマを打倒し、イスラエルをただちに回復させるメシアを待ち望んでいたからです。自らを犠牲にし、自分の肉と血を差し出すメシアは、彼らの夢とは似ても似つかないものでした。そこで彼らは去って行きます。
イエスは彼らにこう答えられます。「いのちを与えるのは霊です。肉は何の役にも立ちません。」言い換えれば、私たちの努力も、宗教的なパフォーマンスも、それだけでは神との関係を築くことはできません。信仰によって受け取られた御霊こそが、私たちのうちに住み、この関係を成長させてくださるのです。私たちはその間、自分の力で持ちこたえようとし、失敗します。そしてしばしば、その失敗の中で御霊はこうささやかれます。「あなたがうまくいかないのは、わたしに助けを求めていないからだ」と。
7. ペテロの告白:私たちはだれのところに行きましょうか(67-71節)
イエスは十二人の方を向いてこう言われます。「あなたがたも離れて行きたいのですか。」これは不安からではなく、彼らに委ねられた選択です。信仰は決して押しつけられた義務ではありません。それは、感謝と喜びに動かされた自由な応答なのです。
ペテロがグループを代表してこう答えます。「主よ、私たちはだれのところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知っています。」ペテロは、群衆が拒んでいたことを理解していました。価値あるものはただ一つ、イエスとの関係、イエスが与えてくださる永遠のいのちだけなのです。
イエスは、十二人のうちの一人がご自分を裏切ることを明かして締めくくられます。イエスは初めからユダのことを知っておられました。それでも最後まで、ほかの弟子たちと同じ機会をユダにも与え続けられたのです。これは解き明かすことのできない神秘です。しかし、ユダはあなたの歩む道を決めるものではありません。ユダはユダ、あなたはあなたです。
覚えておきたいポイント
- イエスに耳を傾けることは、自分の先入観を手放すことから始まります。あなたが自分の常識でみことばを判断し続ける限り、あなたはそのみことばの扉の外にとどまり続けるでしょう。
- 信仰は確信に先立ちます。確信しているから信じるのではありません。あえて信頼したからこそ、確信するようになるのです。
- 父から学ぶことは、私たちの空想の中ではなく、みことばの中で行われます。始めるには、本物の問いを携えた一日五分で十分です。
- 永遠のいのちは長さではなく、関係です。それは、今日すでに、父から息子や娘として呼ばれることです。
- 「肉を食べ、血を飲む」とは、十字架を日ごとの糧として受け取ることです。それは新しい契約に生きることです。心に書き記された律法、親密な関係、赦された罪です。
個人的な適用
- 今、あなたの聖書の読み方をふるいにかけている個人的な先入観は何でしょうか。少なくとも一週間、それを脇に置く用意はありますか。
- あなたは本当にイエスに何を期待しているでしょうか。困ったときの助けでしょうか、永遠の保険でしょうか、それとも日々の関係でしょうか。
- 「主よ、あなたは私に何を語りたいのですか」という正直な問いを携えた、一日五分のみことばの時間は、今どうなっているでしょうか。
- 御霊に助けを求めずに、自分自身の力で持ちこたえようとしている領域がないでしょうか。
- ペテロのように、今日あなたはこう言い直すことができるでしょうか。「主よ、私たちはだれのところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます」と。
引用された聖句
- ヨハネ6:41-71・説教された箇所
- ヨハネ4章・サマリアの女、生ける水
- イザヤ54:13・「彼らはみな主によって教えられる」
- エレミヤ31:34・新しい契約
- ヘブル8章・成就した新しい契約
- 使徒2:42・初代教会の四つの働き
- ヘブル11:1・「信仰は望んでいる事がらを保証し」
FAQ
イエスの「肉を食べる」「血を飲む」とは、具体的にどういう意味でしょうか。
これは、サマリアの女に差し出された生ける水と同じように、象徴的な表現です。イエスの肉を食べるとは、十字架に引き渡されたそのからだを、あなたの人生の土台として受け取ることです。血を飲むとは、流された血によって結ばれた新しい契約に入ることです。具体的には、みことばを読むこと、祈ること、聖餐を通して、十字架が日々あなたの信仰を養い続けるようにすることです。
神が引き寄せてくださるのなら、私にはまだ責任があるのでしょうか。
はい、あります。選びの神秘は神に属し、応答する責任は私たちに属します。神が誰を選ばれたのか私たちには分かりませんが、自分が何をすべきかは分かります。みことばを聞き、信じ、従い、他者のために祈ることです。自分の分を果たし、神の分は神におゆだねすることです。
ヨハネ6:66の弟子たちのように離れて行かないためには、どうすればよいでしょうか。
弟子たちが離れて行ったのは、自分たちの思い描く大きさのメシアを待ち望んでいたからです。神がしてほしいと願うことにではなく、神が実際に約束してくださったことにしっかりととどまってください。キリストが十字架であなたのためにしてくださったことに繰り返し立ち返ることで感謝と喜びを養い、あなたのそばを共に歩む兄弟姉妹たちに励まされてください。
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