はじめに
ナオミは、夫もなく、息子もなく、手ぶらでベツレヘムに帰ってきます。彼女は「ナオミ(『快い』という意味)」と呼ばれることを拒み、「マラ(『苦い』という意味)」と呼んでほしいと願います。神様が自分を苦しめられた、と彼女は言うのです。その隣には、モアブ人の若いやもめルツがいます。彼女は、まだよく知らなかったこの神様に、自分の人生を結びつける決断をします。そして、物語は大きく動き出します。今回のモメンタムの礼拝では、ルツ記を1章ずつたどりながら、ひとつのシンプルな真理を分かち合います。それは、信仰によって落ち穂拾いを続けるなら、神様は最後に、あなたの受けた恥を二倍にして返してくださり、あなたのちっぽけな人生を、はるかに大きな計画の中に組み込んでくださる、ということです。
メッセージの構成
1. マラ、人生が崩れ落ちるとき
- エリメレクは飢饉のためにベツレヘムを離れ、妻ナオミと二人の息子マロンとキルヨンを連れてモアブに行きます。彼はそこで亡くなります。息子たちはオルパとルツをそれぞれ妻に迎えますが、二人ともやがて亡くなってしまいます。わずか数節のうちに、ナオミはすべてを失います。夫と二人の子どもです。
- ベツレヘムに帰ってきたとき、村の女性たちは彼女だとほとんど気づきません。「これはナオミではありませんか」と言われると、彼女はこう答えます。「私をナオミ(快い)と呼ばないでください。マラ(苦い)と呼んでください。全能者が私をひどく苦しめられたからです」(ルツ記1章20節)。
- ナオミは弱い女性ではありません。三度の死を経験してきた女性です。彼女は絶望し、見捨てられたように、忘れられたように、無価値になったように感じています。神様に対する怒りさえ抱いています。そして、それをそのまま口にするのです。
- もしかしたら、あなたも今、名前を変えたい気持ちでいるかもしれません。あなたは、自分の名前で呼ばれたくない季節に入っているかもしれません。その名前が、もう自分にはない喜びを思い出させるからです。聖書は、そんなナオミを裁きません。ありのままの彼女を、名前まで含めて受けとめてから、立ち上がらせていきます。
2. ルツ、寄り添う異邦人の信仰
- ナオミは二人の嫁に、それぞれの実家に帰るようにと勧めます。オルパはナオミに口づけをして去っていきます。けれどもルツは、しっかりと寄り添います。「私に、あなたを見捨てて帰るようにと言わないでください。あなたの行かれる所に私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ記1章16~17節)。
- ルツには、人間的な保証など何もありません。異邦人であり、やもめであり、子どもも将来もありません。それでも彼女は、貧しく、年老いて、打ちひしがれた姑について行き、イスラエルの神を自分の神とすることを選びます。
- これこそが信仰です。すべてがうまくいっているときの心地よい確信ではありません。先のことが何も見えないときに、それでも寄り添っていく決意なのです。
- ルツのこの信仰は、彼女を救いの歴史の中へと導いていきます。彼女はダビデ王の曾祖母となり、さらにのちには、イエス様の系図に連なる一人となります(マタイの福音書1章5節)。この系図には四人の異邦人女性が登場しますが、ルツはそのひとりです。自分は神様に選ばれるにふさわしくないなどと、決して思い込まないでください。
3. 落ち穂拾いとは、動き出す信仰のこと
- ベツレヘムに着いたルツは、座り込んで嘆いたりしません。畑に出て落ち穂を拾い始めます。刈り取り人の後ろに残された穂を拾い集めることは、律法によって、貧しい人や異邦人に許されていたことでした。
- 落ち穂拾いは、屈辱的な仕事です。何百回、何千回も身をかがめなければなりません。誰にも顔を知られず、感謝されることもありません。疲れる仕事です。単調な仕事です。それでもまさにそこで、ルツの信仰が、日々の具体的な行動として鍛えられていくのです。
- 私たちのクリスチャン生活も、しばしばこれと似ています。あなたは今日、聖書を読んでいますか。今朝、祈りましたか。疲れているときも、人生が厳しいときも、誰も気づいてくれないときも、日曜日に礼拝に来ていますか。落ち穂拾いとは、日常の中で信仰によって忍耐し続けることなのです。
- あなたはこう心に決めることができます。「前の晩は早く休むようにしよう。教会で仕える者になろう。周りの人を大切にしよう。身近な人たちを愛そう」と。これが落ち穂拾いです。拍手されることのない、日々の小さな従順の一歩一歩が、神様がなさろうとしていることの土台を整えていくのです。
4. ボアズ、出会いに来られるイエス様のひな型
- ルツが落ち穂を拾っているとき、彼女はまだ知りませんでしたが、その畑は、亡くなった夫の親族であるボアズのものでした。ボアズは彼女に目を留め、守り、養い、働き手たちにわざと穂を落としておくようにと命じます(ルツ記2章)。
- ボアズは「ゴエル」、すなわち贖い主となります。彼には、一族の畑を買い戻し、家名を絶やさないためにルツを妻とする権利と責任がありました(ルツ記3~4章)。彼は代価を払います。異邦人の女性を自分の家に迎え入れます。ナオミの家を再び立ち上がらせます。
- ボアズは、イエス様のひな型です。彼は贖いをなす近親者ですが、イエス様は人となられた、私たちを贖うための近親者です(ヘブル人への手紙2章14~15節)。ボアズは自分の財産で代価を払いましたが、イエス様はご自身の血で代価を払われました。ボアズは異邦人の女性を迎え入れましたが、イエス様は諸国の民を、ご自分の花嫁である教会として迎え入れてくださいます(エペソ人への手紙5章25~27節)。
- あなたが落ち穂拾いをしているあいだ、あなたはイエス様を見つめています。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」(ヘブル人への手紙12章2節)。あなたは虚しい場所で落ち穂を拾っているのではありません。イエス様の畑で、その眼差しのもとで拾っているのです。
5. 恥の代わりに与えられる二倍の祝福
- 物語の終わりに、ルツはオベデを産みます。オベデは、ダビデ王の父となるエッサイの父です(ルツ記4章17節)。かつてマラと呼ばれていたナオミは、今、孫を腕に抱いています。近所の女性たちは「ナオミに男の子が生まれた」と言います。消してほしいと願ったあの名前が、彼女のもとに戻ってくるのです。
- 「あなたがたの恥の代わりに二倍の分を得、辱めの代わりに彼らはその割り当てを喜び楽しむ。それゆえ彼らはその地で二倍の分を所有し、永遠の喜びが彼らのものとなる」(イザヤ書61章7節)。
- 神様は、あなたが失ったものをただ返してくださるだけではありません。二倍にして返してくださるのです。恥を喜びに、虚しさを受け継ぐべき財産に、壊れた物語をメシアの系図へと変えてくださいます。今あなたが「マラ」の季節として生きているものが、あなたをはるかに超える計画の土台となり得るのです。
- これは、あなたの肉による子どもたちについても言えることですが、あなたの霊的な子どもたちについても同じです。「私は独身だから、子どもを持つことは決してないだろう」と思うかもしれません。しかし、あなたには霊的な子どもたちがいます。次の世代に、教会の子どもたちに、あなたの周りの若者たちに種を蒔くことができるのです。神様は、世代から世代へと、ご自分の計画を成し遂げてくださいます。
覚えておきたいポイント
- あなたには、神様に「マラのように感じている」と正直に言う権利があります。神様はそれであなたを軽んじることはありません。むしろ、あなたがいるところまで、探し出しに来てくださいます。
- 信仰とは、まず何よりも感情ではありません。それは、「あなたの神は私の神です」と告げたルツのような、寄り添う決意です。
- 落ち穂拾いとは、拍手されることのない日々の従順を続けることです。疲れているときも、聖書を読み、祈り、礼拝に来て、仕え、愛してください。
- あなたが落ち穂を拾っているあいだ、あなたのゴエルであるイエス様は、あなたを見ておられます。代価を払い、世話をし、贖い、ご自分の家に迎え入れてくださいます。
- 神様は決して少しずつしか返してくださらない方ではありません。あなたにも、あなたの世代にも、永遠に至るまで、二倍にして返してくださいます。
個人的な適用
- 今日、私は自分の名前の代わりに、どんな名前で呼ばれたい気持ちだろうか。取り繕わずに、神様に正直に伝えたいことは何だろうか。
- 今週、私はどこでルツに倣うことができるだろうか。先が何も見えないときにも神様に寄り添い、それを言葉にして言い表すこと。
- 今、神様はどの畑で私に落ち穂拾いをするようにと求めておられるだろうか。聖書、祈り、奉仕、礼拝への出席など、どんな小さな従順の繰り返しを求めておられるだろうか。
- 私の周りにいる誰を、具体的に愛すべき「近親者」として見つめることができるだろうか。年上の人、若い人、教会のある家族、孤立している同僚など。
- 神様が二倍にして返すと約束されるとき、私は本当は何を信じているだろうか。恥を喜びに変えてくださると期待しているだろうか、それとも、最後の言葉はマラのものだと思って生きているだろうか。
引用された聖書箇所
- ルツ記 1章 ・ ナオミがマラとなり、ルツが彼女に寄り添う
- ルツ記 2章 ・ ルツがボアズの畑で落ち穂を拾う
- ルツ記 3章 ・ ナオミがルツに助言し、ルツがボアズのもとへ行く
- ルツ記 4章 ・ ボアズが贖い、ルツと結婚し、オベデが生まれる
- イザヤ書 61:7 ・ 恥の代わりに与えられる二倍の分
- ヘブル人への手紙 12:1-2 ・ イエス様に目を留め続ける
- マタイ 1:5 ・ イエス様の系図に連なるルツ
- エペソ 5:25-27 ・ 贖われた花嫁である教会
- エレミヤ書 29:11 ・ 平安のための計画であり、災いのためではない
よくある質問
ナオミのように、神様に対して怒っていると言ってもよいのでしょうか。
聖書は、あなたに感じていることを押し殺すようにとは求めていません。ナオミは、自分は苦しんでいる、それは神様のせいだ、とはっきり口にしています。主はそれで彼女を退けたりはせず、耳を傾けてくださり、ルツやボアズ、そしてやがて生まれてくる子どもを通して、静かに背後で働き始めてくださいます。あなたの心の真実を、それがどんなに辛いものであっても、神様に伝えてください。すべてを乗り越えてベツレヘムに帰ってきたナオミのように、神様との対話にとどまり続けてください。
具体的に、日々の生活の中で「信仰による落ち穂拾い」とはどのようなものでしょうか。
それは、繰り返される目立たない小さな一歩のことです。何も感じられなくても聖書を開くこと、朝起きたときにたとえ二分でも祈ること、疲れていても礼拝に来ること、気づかれなくても仕えること、難しい人を愛すること、誰も見ていないところで惜しみなく与えること。ルツは一日に何百回も身をかがめて穂を拾い集めました。あなたのクリスチャン生活も、多くの場合、この日常的な従順の中で形づくられていきます。そのあいだも、あなたの贖い主の眼差しは、あなたから離れることがありません。
なぜボアズはイエス様のひな型として描かれるのでしょうか。
それは、ボアズが担った三つのことを、イエス様が十字架の上で担われたからです。ボアズは近親者でしたが、イエス様は人となり、私たちの兄弟となってくださいました(ヘブル人への手紙2章14~15節)。ボアズは贖いの代価を払いましたが、イエス様はご自身の血で代価を払われました(ペテロの手紙第一1章18~19節)。ボアズは異邦人の女性を家に迎え入れ、妻としましたが、イエス様は諸国の民を、ご自分の花嫁である教会としてくださいました(エペソ人への手紙5章25~27節)。ルツ記は、単に美しい家族の物語ではありません。それは福音の予表です。神様は、あなたが失われたと思っていたものを贖うために、あなたのもとに近づいてくださるのです。
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