はじめに
ICCモントリオールでの3日間の断食祈祷会の二日目の夜、ルナット・ヤオ牧師は通常の教えを語ったのではありませんでした。彼女は会衆を、長い祈りと礼拝の時へと導きました。そこには一つの明確な流れがありました。隠れた場所に入ること、そこで覆いのない顔でとどまること、そして父の臨在が、二度と消えることのない火を燃え上がらせるままにすることです。以下は、彼女が教会のために声に出して語った力強い言葉を、順を追ってまとめたものです。
メッセージの構成
1. 「御国が来ますように」:この夜のただ一つの願い
- 出発点は、イエスご自身が私たちに教えられた祈りです。「天にいます私たちの父よ……御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6:9-10)。
- 「御国が来ますようにとは、あなたの統治が確立されることを意味します。聖霊がすべての場所を占めることを意味します。神の御霊が支配権を握られることです。」
- 「今日、私たちには他の願いはありません。今日、私たちには他の渇きはありません。ただあなたの御国を。」会衆は、ただ一つのこと、すなわち御霊による神の支配だけを求めて声を上げるよう招かれます。
- ルナットはイエスの言葉を思い起こします。「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になる。わたしが行かなければ、慰め主はあなたがたのところに来ないからである」(ヨハネ16:7)。パラクレートス(慰め主)は、神の民の中に座し、住み、支配するために遣わされました。この夜の祈りは、ただこれだけです。「パラクレートスよ、支配権を握ってください。」
2. 覆いのない顔:覆いも気を散らすものもなく入る
- 「私たちは覆いなしに、あなたの臨在に入りたいのです。私たちは自分に覆いをかけたままでいたくありません。私たちは、見せかけも、気を散らすものも、肉も、すべての重荷も持って来たくありません。私たちはそれらを置きます。」
- この祈りの時全体を支える聖句は、第二コリント3章18節です。「私たちはみな、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡のように映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。」
- 「あなたの足もとに、私たちはあなたの臨在に入ることを、あなたの心につながることを、今夜あなたの声を聞くことを、あなたの源につながることを、霊において上ることを妨げるかもしれないものを置きます。」一つひとつ、重荷が名指しされ、戸口に置き去りにされます。
- その渇望は、会衆から立ち上る一つの告白となります。「私は渇いています。あなたの臨在に渇いています。鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、私の魂もあなたを慕いあえいでいます」(詩篇42:2)。
3. 「もう一つの次元」:昨日まで知っていたものから出る
- 合言葉のように繰り返される呼びかけがあります。「私たちを昨日の次元から連れ出してください。私たちをもう一つの次元へと導き入れてください。」つながり、親密さ、深さ、知識、近づきやすさの、もう一つの次元です。
- 「私たちはもはや、昨日あなたを知っていたのと同じようにあなたを知りたくありません。私たちはあなたと一つに溶け合い、あなたと浸透し合い、あなたと一つになりたいのです」。それはイエスがこう言われたのと同じです。「わたしは父と一つである」(ヨハネ17:21)。
- ルナットは、モーセの叫びを思い起こします。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(出エジプト33:18)。そしてこの驚くべき言葉です。「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」(出エジプト33:11、民数記12:8)。今夜求められているのは、まさにこの次元です。神の顔を見ること、その声を聞くこと、その臨在を経験すること。ただ神がそこにおられると「知っている」だけではなく。
- 「私たちは、あなたが花婿であることをただ知りたいのではなく、花婿との関係を生きたいのです。私たちは、あなたが神であることをただ知りたいのではなく、この神との親密さを生きたいのです。」
4. 親密さの部屋:イエスが叩いておられる、あなたは入らせているか
- 「イエスはこう言われます。わたしは戸を叩いている。あなたはすでにわたしを中に入れましたか。あなたはこの隠れた場所に入りましたか」(黙示録3:20、マタイ6:6)。
- この親密さの部屋の中では、一つの確かなことが起こります。私たちは、神の心、神の願い、神の御心を知るようになります。「私たちは、あなたの心臓の鼓動を聞きたいのです。あなたの心のため息を、この季節のため息を、この国民のため息を、この民のためのあなたの心の燃える願いを聞きたいのです。」
- そこはまた、聖化の場所でもあります。「この世界には、あなたの臨在ほど私を清めることができるものは何もありません。だからこそ、私は今夜、この場所にいることを選びます。あなたお一人が、あなたの御言葉によって、私を聖なるものとし、私を清め、私を洗い、私を分け隔ててくださる場所です」(エフェソ5:26-27、御言葉によって清められる花嫁への言及)。
- ルナットは、私たちがキリストを知る前どのような者であったかを思い起こします。「昨日まで、私は神から離れ、イスラエルの中に市民権のない者だと言われていました。私は失われた者で、何の価値もありませんでした。しかしあなたは、私を貴重な宝物のように見てくださいました」(エフェソ2:12-13)。
5. 「私が犠牲です」:何も惜しまずに自分を差し出す
- 祈りはここで、一つの献身へと移っていきます。「今日、あなたは私が子羊や雄牛を祭壇に持ってくることを期待しておられません。私が犠牲です。今日、犠牲となるのはこの私です。」
- その根底にある聖句は、ローマ12章1節です。「あなたがたの体を、聖なる、神に喜ばれる、生きた犠牲として献げなさい。」「私たちは自分の心を、生きた犠牲として、芳しい香りの犠牲として献げます。」
- 会衆から立ち上る繰り返しの言葉。「私は自分を完全に差し出します。あなたは私を用いることができます。何も惜しまずに。私のいのちを取ってください。私の心を取ってください。私のいのちはあなたの手の中にあります。主よ、あなたの願いが私のうちに現れるのを見たいのです。」
- 「あなたが最初に、ご自分を与えてくださいました。今日は私の番です、主よ、あなたに自分を与える番です。愛が現れるとは、自分を与えることです。」
6. 家に火を持ち帰る:イエスを愛する者として知られること
- この時は、祝福の祈りをもって締めくくられます。「私たちの一人ひとりが、この恵み、この火を携えて出て行くように祈ります。それぞれが、この渇きを家に持ち帰りますように。この渇きがさらに燃え上がり、私たちが毎回、隠れた場所へ行くことができますように。」
- 「私たちが、隠れた場所の男女となりますように。ここICCモントリオールにいる私たちについて、こう言われますように。彼らはイエスを愛する者たちだ、と。それが私たちのしるしとなりますように。」
- ここでルナットは、第一の戒めを引用します。「心を尽くし、精神を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)。隠れた場所で問われているのは、まさにこのことです。この愛を、絶えることのない探求とすることです。
- 「ここを去るとき、私たちはあなたの臨在から離れるのではありません。なぜなら、あなたは私たちの心の中に、私たちのいのちの中におられるからです。」
覚えておきたいポイント
- あなたが今日できる最も根本的な祈りは、主の祈りにあるものです。「御国が来ますように」、すなわち、あなたの人生において聖霊がすべての場所を占めてくださるようにという祈りです。
- あなたは覆いをつけたまま神の臨在に入ることはできません。重荷、気を散らすもの、肉、見せかけを置く必要があります。そうしなければ、あなたはそこにいても、つながっていないのです。
- 神が差し出しておられるのは、神が誰であるかを「知る」ことではなく、神との親密さを生きることです。栄光を見たモーセがさらにそれを求め続けたように、その都度さらに深くなっていく次元です。
- 隠れた場所は、居心地の悪い場所ではありません。そこはイエスが入るために戸を叩いておられる場所であり、御言葉によってあなたを清められる場所であり、あなたが神にとって本当は誰であるかを語ってくださる場所です。
- 今日の本当の犠牲は、もはや動物ではありません。それはあなた自身です。何も惜しまずに、自分を完全に差し出すことです。なぜならキリストが最初にご自分を与えられたからです。
自分自身への適用
- もし今夜、神にただ一つの願いを伝えるとしたら(ルナットが会衆と共にしたように)、それは何でしょうか。あなたは、自分の人生において「あなたの御国」だけを求める用意ができていますか。それとも、他の願いがその場所を取り戻してしまっていますか。
- 祈りに入るとき、あなたが身にまとっている覆いとは、具体的に何でしょうか。重荷、気を散らすもの、肉、見せかけでしょうか。今週祈り始める前に、それらを声に出して名指しし、イエスの足もとに置いてください。
- あなたが最後に「親密さの部屋」に入り、ただ神と共にいる以外の目的を持たずに一人でいたのはいつでしたか。仕事の約束を確保するように、今週、確かな時間を確保してください。
- 「私は何も惜しまずに、自分を完全に差し出します。」あなたが惜しんでいる領域(お金、人間関係、野心、時間、体)はありませんか。それを今日、祭壇の上に置いてください。
- もしあなたが、自分の地域、仕事、家族の中でただ一つのしるしによって認識されるとしたら(「あの人はイエスを愛する者だ」)、それはすでに現実になっていますか。そのしるしが明らかになるために、何を変える必要がありますか。
引用された聖句
- マタイ 6:9-10・主の祈り、御国が来ますように
- マタイ 6:6・あなたの部屋に入り、隠れた場所であなたの父に祈りなさい
- ヨハネ 16:7・わたしが去っていくことはあなたがたの益になる
- ヨハネ 17:21・彼らが一つになるように、あなたと私が一つであるように
- 第二コリント 3:18・覆いのない顔で栄光を見つめ、御姿に変えられる
- 詩篇 42:2・鹿が谷川の流れを慕いあえぐように
- 出エジプト記 33:11・主が顔と顔を合わせてモーセに語られた
- 出エジプト記 33:18・モーセ、どうかあなたの栄光を見せてください
- 民数記 12:8・わたしは彼と口から口へと語る
- 黙示録 3:20・見よ、わたしは戸の外に立って叩いている
- エフェソ 2:12-13・あなたがたはかつてキリストから離れていたが、今は御血によって近づけられた
- エフェソ 5:26-27・御言葉によって清められる花嫁
- ローマ 12:1・あなたがたの体を生きた犠牲として献げなさい
- マルコ 12:30・心を尽くして神である主を愛しなさい
よくある質問
ルナット・ヤオが語る「隠れた場所」とは何ですか。
それは、マタイ6章6節でイエスが用いておられるイメージです。「祈るときは、自分の部屋に入り、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」この説教の中で、隠れた場所とはまず第一に地理的な場所ではありません。それは心の姿勢であり、父と二人きりで、見る人もなく、気を散らすものもなく、ただ神と交わりに入りたいというシンプルな願いを持つことです。ルナットは、そこでこそ御言葉が私たちを清め、臨在が私たちを変え、聖霊が私たちを燃え上がらせると語ります。
「覆いのない顔で神の臨在に入る」とはどういう意味ですか。
この表現は第二コリント3章18節に由来します。それは、モーセが神と語った後に自分の顔にかけていた覆いを指しています(出エジプト34:33-35)。キリストにあっては、この覆いは取り除かれています。私たちは、見せかけなく、宗教的な姿勢の後ろに隠れることなく、重荷や気を散らすものの重さを背負うことなく、神に近づくことができます。ルナットはこれを非常に具体的に適用します。神の心につながることを妨げるすべてのもの(肉、気を散らすもの、重荷)をイエスの足もとに置くことで、栄光から栄光へと変えられていくのです。
「御国が来ますように」と、具体的にどう祈ればよいですか。
ルナットは、主の祈り(マタイ6:10)とパラクレートスの約束(ヨハネ16:7)に基づいてこれを説明します。神の御国が来るように求めるとは、あなたの個人的な人生、あなたの家族、教会、国民の中で、聖霊がすべての場所を占めてくださるように求めることです。それは、自分が支配者であることをやめ、御霊が座し、住み、支配してくださるようにすることです。具体的には、これはこの叫びに言い表すことができます。「パラクレートスよ、支配権を握ってください」。心が本当にそれに同意するまで、繰り返すのです。
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