創世記31章:隠す人、すべてを与える神

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はじめに

東京の上野の森キリスト教会では、数週間にわたってヤコブの物語を読み進めています。今週の日曜日、牧師が取り上げたのは創世記31章、ヤコブが伯父ラバンのもとから逃げ出す場面です。メッセージの題は「隠す人、すべてを与える神」です。

牧師によれば、この物語は出エジプトの原型です。奴隷にされた民がエジプトを出て、約束の地へと歩みます。けれども、そこには気になる点がひとつあります。ラケルが父の家を出るとき、父の偶像をこっそり持ち出したのです。牧師は、この行いは旧約聖書全体で繰り返され、新約聖書でも、使徒ペテロが信仰によって救われることを理解したのに、割礼を求める人々に気を遣って身を引いた場面に見られると語ります。

牧師は最初に、コロサイ人への手紙1章13節で話の中心を示します。「神は、わたしたちを暗やみの力から救い出して、その愛する御子の支配する国に移して下さった。」わたしたちを救うのは父なる神ご自身です。神の教えでも、力でも、律法でも、神の「何か」でもありません。

メッセージの流れ

1. ラバンのもとでの20年、出エジプトの先取り

  • ヤコブは伯父のもとに20年とどまりました。ラケルを妻にするために7年、レアを与えられたためにさらに7年です。
  • その後ラバンは、家畜で報酬を受け取ることを認めますが、ヤコブの群れが増えるたびに報酬を変えます。聖書によれば10回です。牧師は「ラバンはずる賢い人です」と要約します。それでも神はヤコブを祝福し、財産は増えていきます。
  • やがてラバンの息子たちは、ヤコブが父のものをすべて奪ったと責めます。かつてヤコブを両手を広げて迎えたラバンは、いまでは冷たく敵意のある態度をあらわにします。ヤコブは虐げられます。
  • そのとき、主が直接ヤコブに語りかけます。「あなたの先祖の地、あなたの親族のところへ帰りなさい。わたしはあなたと共にいるであろう。」レアとラケルも賛成します。父はわたしたちを売り、そのお金まで食いつぶしたからです。ヤコブは、ラバンが羊の毛を刈りに出かけている間に出発します。
  • 型は出エジプトと同じです。ヤコブはラバンのもとに身を寄せ、歓迎され、やがて虐げられました。うめく彼を、神は旅立ちへと促します。
  • イスラエルの12部族は飢饉を逃れてエジプトへ行きます。ヨセフのおかげで、はじめは手厚く迎えられました。400年のあいだに増え広がると、エジプト人は恐れを抱いて彼らを虐げます。主は彼らのうめきを聞き、奴隷の地から連れ出されます。
  • 牧師はこの物語をわたしたちの生活に当てはめます。人は自然に、目に見える安心を求めます。その平穏と引き換えに、わたしたちが神のかたちに造られた尊い存在であることを忘れてしまうことがあります。自分を生かしている枠組みを揺さぶる勇気がなく、心の中で少しずつ死にかけていると感じるようになります。
  • その背後には、神に頼ると言いながら別のものにもすがりつく、二心があります。人は自分の力だけでこの力に抵抗することはできません。だから神ご自身が出エジプトを成し遂げてくださる必要があるのです。
  • 「うまく説明できなくてもかまいません。」苦しみが言葉にならず、うめきだけが残るとき、神はそばに立ち、すべてをご存じで、解放してくださいます。イエスの十字架は、罪の報酬である死を打ち砕き、わたしたちを捕らえているすべてのものから自由にしてくださいます。

2. ラケルは偶像を隠す

  • 出発のとき、聖書は残念な事実をひとつ記します。ラケルが父のテラピム、つまり家の神々を盗み、こっそり持ち出したのです。
  • 3日後、ラバンは逃亡に気づき、ヤコブに追いついて、なぜ自分の神々を盗んだのかと問いただします。何も知らないヤコブは、のろいの言葉を口にします。あなたの神々が見つかった者は生きていられない、と。
  • ラケルは偶像をらくだの鞍の下に隠し、その上に座って、月のものがあるので立てませんと言い訳をします。牧師はこの光景に、偶像の無力さがすべて表れていると言います。人間のお尻の下に置かれた偶像は、何もできません。
  • なぜ彼女はそれを持ち出したのでしょうか。この家の神々は、家の相続を保証するものと考えられていました。姉妹は、自分たちにはもう父の家に取り分がないと言ったばかりでした。それでもラケルは、父の相続のうちに、自分の人生の保証を求めたのかもしれません。
  • 家長のヤコブは、公に偶像と縁を切ります。しかしラケルの個人の天幕、私的な空間には、偶像が残っています。それは代々受け継がれてきた生き残りの術、人間の知恵と人間の決まりごとです。「人間は主に従うと言いながら、心の内に偶像を隠し持っています。」

3. クリスチャンの偶像

  • 「偶像はクリスチャンには関係ないと思っていませんか。」第二の戒め、「あなたはおのれのために、刻んだ像を造ってはならない」は、神を知らない人に与えられたものではありません。神が救い出したばかりの民に与えられました。解放された人々が陥る誤りを描いているのです。
  • 「神はこういうお方だ」と自分で決め、自分の考え方から出発することは、主を自分が作り上げた像の中に閉じ込めることです。その像は常識から生まれることがあります。牧師は常識を退けません。常識はとても大切です。けれども、それを神に当てはめるとき、偶像になります。
  • 親の信仰から生まれることもあります。両親は毎朝、夜明けに熱心に祈っていたと聞くと、毎日の早朝の祈りが祝福を得る手段になってしまいます。それが神に取って代わるのです。
  • 「神を信頼することと、神が与える力に依存することは、まったく別のことです。」危険は現実にあります。自由にしてくださった神に従いながら、心の奥に自分で作った神の像を隠し持つのです。それを使って力や成功を得ようとし、右へ行くべきか左へ行くべきかを伺い、ほとんど神経症的な信仰にまで至ります。
  • この像は、ラケルの鞍の下の偶像と変わりません。神は、わたしの理解の中に収まるほど小さいお方ではありません。祈るときも聖書を読むときも、目の前におられる神を、あなたがすでに知っていることよりも大きく、深く、近いお方として見つめてください。
  • 哀歌3章23節を引用します。神のまことは朝ごとに新しく、それほどに深いのです。もっとも真実な神の像は今日の像であり、それはわたしたちから出るものではなく、神から与えられるものです。

4. 繰り返される歴史

  • 主を求めながら、偶像と縁を切りきれない。この人間の現実は、聖書全体に流れています。
  • 出エジプトのあと、民は約束の地に入ります。ヨシュアとカレブが指導者として立ち上がり、皆が戦いに出ていきます。しかし私的な天幕には、偶像が隠されたままです。「まさにラケルがしたとおりです。」バアルやアシュタロテは、長いあいだイスラエルの平和を脅かします。
  • ユダの王たちの時代、ヨシヤとヒゼキヤは偶像を取り除く改革を進めます。それでも聖書は、高き所は取り除かれなかったと繰り返し記します。
  • やがてバビロン捕囚が訪れます。苦しみから学んだユダヤ人は偶像を捨てます。けれども新しい偶像が生まれます。律法主義です。神の言葉を人間の律法や規則や理解の中に閉じ込めることも、神の像を刻むことにほかなりません。
  • 新約聖書もこれを免れません。使徒ペテロは福音が異邦人に及ぶのを見て、律法主義から解放されます。ところが割礼を主張する人々に気を遣って、そこに戻ってしまいます。ガラテヤ人への手紙が語るとおりです(ガラテヤ2章)。

5. 律法主義は偶像に対して無力である

  • どうすれば偶像から離れられるのでしょうか。この物語は、律法主義には何もできないことを示しています。
  • ずる賢いラバンを前に、ヤコブは自分の正しさを主張します。あなたは約束を破った。わたしは夏の暑さにも冬の寒さにも耐え、心を尽くしてあなたに仕えた、と。この正義感の延長で、ヤコブは偶像を隠す者は生きていられないと宣言します。牧師はここに、人を裁く律法主義の罪を見ます。
  • いちばん恐ろしいのは、この人間ののろいが現実になりうることです。ラケルは若くして亡くなります。神の家ベテルへ上るときにようやく偶像を手放したのに、最後の息子を産むときに命を落とします。
  • 苦しみの中で、彼女は子を「ベノニ」、すなわち「わが悲しみの子」と名づけます。ヤコブはこの名を改め、「ベニヤミン」と呼びます。牧師はこれを「幸いの子」と訳します。子の存在そのものが置き換えられたのです。
  • ラケルはエフラタへの道のそばに葬られます。「つながりが見えましたか。」ヤコブの正義感、その律法主義が、最も愛した人を断罪し、死なせたのです。しかし、絶望の極みで取り返しのつかない不幸に思えるこの地にこそ、神は救いを置かれます。

6. エフラタからベツレヘムへ

  • イスラエル最初の王サウルは、ベニヤミン族の出身です。その息子ヨナタンは、ユダ出身のダビデと深い友情で結ばれます。この契約のおかげで、ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデ王の食卓で家族の一員として食事をします。
  • その後、王国は分裂します。ヨナタンとダビデのあいだに生まれた愛のきずなによって、ベニヤミンはユダの王国に結びつけられます。北王国はアッスリヤによって滅ぼされます。同じ運命をたどるはずだったベニヤミンは、バビロン捕囚さえ生き延びます。
  • 救い主イエスは、ダビデの子孫としてベツレヘム・エフラタにお生まれになります。約1900年のあいだ、神はラケルの悲しみを負い続け、この場所をイエスの誕生の地として選ばれました。
  • 牧師は、マタイ2章が長いあいだ不思議だったと打ち明けます。ヘロデが命じた幼児虐殺の場面で、マタイはこう書きます。「ラケルはその子らのためになげき、慰めを得ることさえ願わない、子らがもはやいないから」(マタイ2章18節)。つまりイエスの時代、エフラタには、ラケルの悲しみの記憶がはっきりと残っていたのです。
  • 人間の正義は、隠れた罪をあばき、断罪します。牧師は、今日大量殺人を犯す人々はみな、自分の正義を偶像のようにかざしていると指摘します。ラケルはこののろいを受け、エフラタに葬られました。けれども、悲しみの子は、幸いの子となりました。
  • 「これが、イエスの福音の大きな目的です。」苦しみから幸いへと移るアイデンティティが、悲しみの場所ベツレヘムで与えられます。救い主は、あなたのいちばん深い傷の場所にお生まれになります。イエスは命を隠さず、惜しみなく与え、すべてを与えてくださいました。人間の正義はのろいを生みますが、神の正義は十字架に現れ、人への深い憐れみに満ちています。

7. 聖化:わたしたちを贖ってくださった方を見つめる

  • わたしたちはすでに罪の奴隷から解放されています。ですから、聖化の道を歩むとは、気になる罪をひとつずつ取り除いてくださいと神に願うことではありません。
  • 牧師は自分のことを語ります。「長いあいだ、これで苦しみました。隠せば隠すほど、抜け出そうとすればするほど、この罪に支配されているという思いにとらわれました。本当にヒステリックになってしまいました。」
  • 一日の終わりに、牧師はこう祈っていました。「主よ、今日もこの罪を犯しました。これこれの弱さから生じ、こういうしくみで働きます。そういう場所に行かないよう、わたしを守ってください。あなたの力でわたしの内に働き、わたしを変えてください。」けれども、イスラエルの歴史は、人間には結局それができないことを示しています。
  • 約束の地に入ったら偶像を避けられると言うのも、日本の宗教とは縁を切ったからと自分を正当化するのも、たやすいことです。しかし心の奥に隠された罪は偶像となり、やがてわたしたちを支配します。わたしたちを、そうした罪からも解放してくださったのは、わたしたち自身ではなく、イエスです。
  • 解決は神から来ます。聖化とは、次の事実に目を向けることです。わたしはイエスに贖われた、わたしは主のものである、と。悔い改めとは、自分の罪から目をそらして、救い、解放してくださるイエスを見つめ、そこに心を合わせ、そこで信仰を働かせることです。
  • イエスのものであるとは、愛によってわたしたちの王に結ばれることです。ベニヤミンが愛によってダビデ王の家系につながれたのと同じです。「それはわたしたちから出たことではありません。」イエスはわたしたちを友と呼び、友のために命を捨ててくださいました(ヨハネ15章13〜15節)。この愛によって、わたしたちは神の家族として迎え入れられ、神の食卓につきます。

押さえておきたいポイント

  • 公には偶像と縁を切りながら、ラケルのように天幕の中に隠し持つことがあります。
  • 常識や親の信仰からであっても、神を自分の抱く像に閉じ込めるなら、それは偶像を作ることです。
  • 律法主義は偶像から解放しません。それ自体が偶像となり、人を断罪します。
  • エフラタで、神は悲しみの子を幸いの子に変えました。ベツレヘムで、イエスはわたしたちの傷の場所にお生まれになります。
  • 聖化とは、自分の罪を見つめ続けることではなく、わたしたちを贖ってくださったイエスを見つめることです。

個人的な適用

  1. 神への信頼に加えて、あなたは「天幕の中」にどんな目に見える安心を保っていますか。
  2. あなたは神についてどんな像を作り上げ、それはあなたの祈りをどのように狭めていますか。
  3. 霊的な習慣を、祝福を得る手段として使っていませんか。
  4. ある罪との戦いの中で、あなたはその罪と、あなたを贖ってくださったイエスのどちらをより多く見つめていますか。
  5. エフラタがベツレヘムとなったように、あなたはどんな深い傷を救い主にゆだねることができますか。

引用された聖句

よくある質問

創世記31章で、ラケルはなぜ父の偶像を盗んだのですか。

牧師によれば、これらの家の神々は家の相続を保証するものと考えられていました。ところがラケルとレアは、自分たちにはもう父の家に取り分がないと言ったばかりでした。それでもラケルは、この相続のうちに自分の人生の保証を求めたのかもしれません。ヤコブは公に偶像と縁を切りますが、偶像はラケルの私的な天幕に隠されたまま残っています。

クリスチャンにも偶像はありますか。

はい、あります。牧師は、刻んだ像を造ってはならないという戒めが、神がエジプトから救い出したばかりの民に与えられたことを思い起こさせます。神がどなたかを自分で決め、常識や親の信仰の習慣から出発することは、神を像の中に閉じ込めることになります。神の言葉を人間の規則の中に閉じ込める律法主義もまた、偶像です。

創世記31章のこのメッセージによると、聖化とは何ですか。

気になる罪をひとつずつ取り除いてくださいと神に願うことではありません。罪を隠し、抜け出そうとすればするほど、その支配の下に囚われたままになります。聖化とは、自分の罪から目をそらし、ひとつの事実に目を向けることです。イエスがわたしたちを贖ってくださった、わたしたちは主のものである、という事実です。そこに心を合わせ、そこで信仰を働かせるのです。

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