はじめに
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」詩篇46篇のこの言葉は、あちこちで目にします。壁にも、コーヒーカップにも、ノートの表紙にも、しおりにも、Tシャツの背中にもあります。説教者として招かれたPeter牧師は、オーストラリアのRyde Baptist Churchで何を語るべきか神に尋ねました。返ってきた答えは、このとても有名な一節でした。
Peter牧師は2005年にオーストラリアへ来ました。3年前にGood and Faithful Community Churchを設立しました。ミャンマー人のコミュニティから生まれた、若い教会です。この日は、その月を安息日の休みにささげている教会で語ります。
牧師は休みから語り始めるのではなく、その反対のもの、さまよう者の落ち着きのなさから始めます。そして、神は創造のときも十字架においても、すべてを成し遂げられたこと、そして今日もなお、私たちを神の安息へ招いておられることを示します。
メッセージの流れ
1. カイン、休みのない最初のさまよう者
- カインとアベルは、それぞれ供え物をささげます。神はアベルの供え物を受け入れ、カインの供え物は受け入れませんでした。カインはねたみから弟を殺します。聖書に記された最初の殺人です。
- 宣告が下ります。「あなたは地上の放浪者となるでしょう。」カインは答えます。「わたしの罰は重くて負いきれません。〔…〕わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません」(創世記4:12-14)。
- 牧師の説明によれば、さまよう者とは、決まった場所も定まった家もなく、あちこちを移り歩く人のことです。内なる探求、逃避、そして心の奥深くにある霊的な落ち着きのなさに駆り立てられています。
- 現代にも、さまよう者はたくさんいます。「神の臨在と神の備えを認めることができないなら、あなたは休みのない者になります。」そこで人は、神の恵みを物質的なもので置き換えようとします。人間関係、お金、権力、仕事、成功を求める競争です。その結果は、平安も、休みも、満足もありません。
- それを表に出さない人もいます。外から見れば穏やかでも、内側ではざわついているのです。牧師は、隣の人にこう言うように会衆を促します。「休みのないさまよう者にならないでください。」
2. 休みは創造の一部である
- 牧師は創造の日々を振り返ります。闇から分けられた光、空、海と草木のある地、太陽と月と星、魚と鳥、そして6日目の動物と人間です。
- 7日目に、神は休まれます。ご自分が造ったものをご覧になり、それは非常によかったのです(創世記1:31、2:2-3)。
- 「神は疲れ果てておられたのでしょうか。私はそうは思いません。くたびれておられたのでしょうか。まったく違います。」神は全能の神です。神が休まれたのは、創造が完成していたからです。仕事は終わり、成し遂げられていました。創造は「休みを含めて」与えられたのです。
- 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)。牧師は、礼拝で歌った賛美を思い起こさせます。私たちの肺にあるのは神の息なのです。
3. 人間の最初の日は、休みの日だった
- 神は赤ちゃんを造られたのではなく、大人の男を、次に大人の女を造られました。男はすでに働ける状態でした。それなのに、造られた翌日、彼の最初の丸一日は休みの日だったのです。
- 休むとは、ただ横になって眠ることではありません。神がこう語られるのを聞くことです。「あなたのために、すべてを成し遂げた。必要なものはすべて備える。わたしの造ったものを楽しみ、休みなさい。」
- 新しい職場での初日を想像してみてください。意気込んで出社すると、上司に「休みなさい」と言われます。「そんなことは起こりません。」けれども神との間では起こるのです。
- 神はすべてをひとりで成し遂げられました。もし助手が必要だったなら、初日に人を造り、淡水魚と海水魚を分けたり、草木に水をやったりするのを手伝わせたでしょう。そうなれば、人は手柄の一部を自分のものにしたはずです。
- 神の安息とは、神の力に、権威に、備えに、臨在に、そして神が私たちのために成し遂げてくださったわざの中に、安らぐことです。
4. 「すべてが終った」:贖いの安息
- 創世記3章で、不従順によって罪が世に入ります。人は聖なる神の臨在を離れなければなりませんでした。
- しかし神は、すでに贖いの計画を告げておられます。女の子孫が蛇の頭を踏み砕き、蛇は彼のかかとを傷つける、というものです(創世記3:15)。牧師にとって、これは十字架で成就しました。そこでサタンはかかとを傷つけ、復活において、その頭は踏み砕かれたのです。
- 十字架の上で、3つの言葉が人の運命を永遠に変えました。「すべてが終った」(ヨハネによる福音書19:30)。痛みと恥と苦しみのただ中で、イエスは、地上に降りてこられた使命が成し遂げられたと宣言されます。
- 罪のために、ただ一度だけいけにえをささげたのち、イエスは神の右に座られました(ヘブル人への手紙10:12)。「仕事が終われば、座ることができます。」イエスは完全ないけにえであり、永遠に大祭司です。
- 創造のときと同じように、神はすべてをひとりで行われました。私たちの負債、罪の報酬を支払い、死に立ち向かって、それに勝利されたのです。「私たちは何も返していません。」私たちは信仰によって、その恵みを受け取ります。
- 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(コリント人への第二の手紙5:17)。創造の型にならえば、新しい創造があるたびに、休みがそのあとに続きます。
5. マタイ6章の順序を逆にしてはいけない
- あなたはこう反論するかもしれません。「この世では生き延びなければならないし、お金も必要です。ほかの人たちの成功を見てください。」牧師は答えます。神はそれをご存じです。あなたを造り、回復させ、贖ってくださったからです。
- 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイによる福音書6:27)。だれにもできません。そして、ご自分の御子さえ惜しまずに与えてくださった神は、御子とともにすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか(ローマ人への手紙8:32)。
- 牧師は、2002年から2003年ごろの出来事を語ります。ミャンマーからオーストラリアへの留学ビザの申請を準備し、ネットカフェでメールを書いていたころのことです。いとこは「no worries」と返信し、次に、迎えに行くという意味で「no sweat」と書いてきました。アメリカ英語と「no problem」に慣れていた牧師は、「no sweat」を寒い天気の話だと思い込んでいたそうです。
- 「no worries」はオーストラリアの暮らしの一部ですが、神の原則でもあります。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな」(マタイによる福音書6:33-34)。
- 問題は、私たちがこの言葉を逆にしてしまうことです。「まずこれらのものを求めなさい。そうすれば、神の国と神の義は添えて与えられるであろう。」神が与えようとしておられるものを先に求めると、思いわずらいと落ち着きのなさが居座ります。
- 私たちは、自分よりお金のある人、よい仕事に就いている人、よい住宅地に立派な家を持つ人を見て、自分は遅れていると思い込みます。ねたみが育ち、嫉妬が育ちます。牧師は、カインがさまよう者になる前に、嫉妬から弟を殺したことを思い起こさせます。「聖書を自分流に書き換えようとしてはいけません。」
6. 過去と現在と永遠の神
- 神は、あなたが時に思い悩み、プレッシャーを受け、時間が足りないことをご存じです。神はあなたにこう語られます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11:28)。
- 神はあなたの過去と現在を守り、永遠の将来を備えておられます。それを知ることは、平安と希望と信頼と休みを与えます。安息日の休みを生きるとは、こういうことです。神が私たちのために備えておられるものを知りながら、今この時にとどまることです。
- 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。〔…〕わたしの父の家には、すまいがたくさんある。〔…〕あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」(ヨハネによる福音書14:1-3)。
- 牧師は、まじめに受け取らなくてよい例えを出します。もしイエスが、Ryde Baptist Churchのために50人分の場所しか用意していないと言われたなら、みんながそわそわして、自分は名簿に入っているだろうかと気をもむでしょう。しかし、すまいはたくさんあり、十分すぎるほどです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(コリント人への第二の手紙12:9)。
- 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11:25)。神は、この世の命にも、来たるべき命にも、完全な保証を与えてくださいます。「これ以上、何が必要でしょうか。」
7. 安息への招きは今も有効である
- 「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか」(ヘブル人への手紙4:1)。扉は、まだ開いています。
- 「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル人への手紙4:9-11)。
- 不従順は、人を神から遠ざけました。イエスによって、私たちは戻ることができ、イエスは私たちを御自身の安息へ招いておられます。イエスは主権者であり、世に勝たれました(ヨハネによる福音書16:33)。
- 「言葉にとらわれたままでいてはいけません。この聖句が印刷されたカップで飲んだり、Tシャツを着たり、ペンで書いたりするだけで満足してはいけません。」「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という言葉を、あなたの人生の一部にしてください。
- 選ぶのはあなたです。神の臨在にとどまってその招きを受け入れるか、休みのないさまよう者のままでいるか。今月だけでなく、これからの人生ずっと、と牧師は結びます。
心に留めたいこと
- 神の臨在と備えを認めない人は、外からは何も見えなくても、休みのないさまよう者になります。
- 神が休まれたのは、疲れたからではなく、みわざが成し遂げられたからです。人間の最初の丸一日は、休みの日でした。
- 創造のときも十字架においても、神はすべてをひとりで成し遂げられました。「すべてが終った」。私たちは信仰によってその恵みを受け取ります。
- マタイ6:33を逆にして、神の国より先にこれらのものを求めるとき、思いわずらいが生まれます。
- 神の安息への招きは今も有効です。「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
自分への適用
- あなたの人生のどの分野で、だれにも気づかれないまま、休みのないさまよう者になっていますか。
- 神の臨在が欠けている空白を、何で埋めようとしていますか。お金、成功、人間関係、それとも仕事でしょうか。
- マタイ6:33の順序を逆にしていませんか。毎日の中で、具体的に何を最初に求めていますか。
- 他の人との比較によって、あなたの心のどこでねたみが育っていますか。
- すべてが成し遂げられたことを思い起こしながら、今週、神の臨在の中で本当に休む時間をどのように取れますか。
引用した聖句
- 詩篇46:10
- 創世記4:12-14
- 創世記1:31から2:3
- 創世記2:7
- 創世記3:15
- ヨハネによる福音書19:30
- ヘブル人への手紙10:12
- コリント人への第二の手紙5:17
- マタイによる福音書6:27
- ローマ人への手紙8:32
- マタイによる福音書6:33-34
- マタイによる福音書11:28
- ヨハネによる福音書14:1-3
- コリント人への第二の手紙12:9
- ヨハネによる福音書11:25
- ヘブル人への手紙4:1-11
- ヨハネによる福音書16:33
よくある質問
詩篇46篇の「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とはどういう意味ですか。
Peter牧師にとって、この聖句は、カップやTシャツや壁の飾りに書かれた一文のままであってはなりません。神の臨在と備えを認め、神の臨在にとどまり、その招きを受け入れることです。「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
なぜ神は7日目に休まれたのですか。
神は疲れ果ててもくたびれてもおられませんでした。全能の神だからです。神が休まれたのは、創造が完成していたからです。6日目に造られた人間は、最初の丸一日を休みのうちに過ごしました。神が人間のために、人間の助けを借りずにすべてを造り、人間が造られたものを楽しめるようにされたのです。
今日の「休みのないさまよう者」とはどんな人ですか。
カインは、嫉妬から弟を殺したあと、地上の放浪者となりました。説教者は、現代にも多くのさまよう者がいると見ています。神の臨在を認めず、その空白をお金や権力、人間関係、成功で埋めようとしながら、平安も満足も見いだせない人たちです。