はじめに
「聖霊とはどなたなのか、そして私たちはなぜ聖霊を必要としているのか」。これは、2026年10月9日にアッサンブレ・ド・デュー・ド・モンペリエ・リシテール(Assemblée de Dieu de Montpellier Richter)で行われた聖書の学びで問われたテーマです。悪天候の夜で、来ることのできなかった人もいました。
土台となる聖書箇所はヨハネ14章15〜26節です。イエスは弟子たちに、自分が去っていくことを告げますが、そこに一つの約束を加えます。「わたしはあなたがたを孤児にはしておかない。」父は彼らに「別の助け主」、すなわち真理の御霊を与え、その御霊はいつまでも彼らと共にいてくださいます。
説教者は、すでに聖霊のバプテスマを経験した人にも、まだ経験していない人にも語りかけます。その願いははっきりしています。「聖霊に完全に満たされた教会」を願うのは、すばらしい体験のためではなく、主のために働くためです。そして、ごく単純な問いも投げかけます。あなたが決断をするとき、それは「自分の心の声」でしょうか。それとも、神の真理へと導いてくださる聖霊でしょうか。
メッセージの流れ
1. イエスは弟子たちを孤児にはしない
- 弟子たちはイエスと共に暮らし、共に食事をし、数々の奇跡を見てきました。そのイエスが去ると告げたのですから、心が騒ぐのも無理はありません。
- その動揺の先で、イエスは約束を与えます。父のもとへ行くけれども、自分の民を見捨てることはない、というのです。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」(ヨハネ14:16)。
- 「別の助け主」とあるのは、イエスご自身がすでに彼らにとっての助け主だったからです。来られる方はそのあとを引き継ぎ、すべての真理へと導きます。
- 聖霊は新しい存在ではありません。初めから父なる神、子なる神、聖霊なる神がおられ、旧約聖書にもすでに聖霊の臨在が記されています。
- 私たちは、家族、学校、職場、指導者など、たくさんの声や方向づけに囲まれた社会に生きています。説教者は問いかけます。もし私たちが聖霊の声に従うと決めるなら、それは最善の導きではないでしょうか。
2. 聖霊は人格をもったお方である
- イエスは聖霊を、エネルギーや、受けたらそれで終わりの「非人格的な力」のようには語っていません。
- イエスは聖霊を、教え、思い起こさせ、私たちのうちにとどまり、導き、罪を認めさせ、語りかける方として示しています。これらは人格をもつ者の特徴です。
- 子どもに良いことを教え、思い出させることに飽きない親のように、聖霊は、説教や教え、聖書の学びで聞いたイエスの言葉を私たちに思い起こさせてくださいます。
- 「それはあなたがたと共におり、また、あなたがたのうちにいる」(ヨハネ14:17)。これは一時的に与えられる力ではありません。聖霊は、私たちのうちに入ってくるものを見分け、神が喜ばれないことをしないように助けるために、私たちのうちにおられます。
- 「助け主」という言葉は、ギリシア語の「パラクレートス」に由来し、「助けるために、その人のそばに呼ばれた者」という意味です。聖霊は、教会にいるときだけでなく、日々の選択の中でも、私たちを支え、弁護し、寄り添うためにおられます。
- 次のような祈りが勧められました。「聖霊よ、私の人生のすべての場所を占めてください。あなたが自由に私を導き、語りかけ、方向を示し、指し示してくださるように。」
3. 父から遣わされ、イエスを現す方
- 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ14:26)。聖霊の使命は、私たちを神の真理へと導き、イエスの言葉を思い起こさせることです。
- 聖霊が私たちを神やイエスの言葉から引き離すことは決してありません。もし誰かが、面接で嘘をついて仕事を得るようにと主が語られた、と言うなら、それは明らかに聖霊ではありません。たとえ聖霊からだと主張していても同じです。
- ある霊的な体験が私たちを神から遠ざけるなら、見分ける力を働かせる必要があります。教会の中で霊的な賜物が現れても、それが神から来たものでないとき、御霊に導かれている人にはそれが分かります。「神の御霊は一つだからです」。
- 聖霊は人格をもったお方なので、その関係は育てていくものです。身近な人との関係を大切にしなければ、やがて距離ができてしまいます。聖霊との関係も、努力して保つ必要があります。
- 「聖霊は決して御言葉に取って代わりません。」聖霊は、私たちが御言葉を理解し、それに従って生きるのを助けてくださいます。聖霊に満たされた人は聖書から離れるのではなく、むしろもっと読みたいと願い、イエスに従い、聖なる歩みをしたいと願うようになります。
- 「聖なる者とならなければ、だれも主を見ることができない」(ヘブル12:14)。禁止事項のリストを作って聖なる生活を送ろうとすると、複雑になってしまいます。御霊に導かれ、恵みに頼るなら、「それは可能です」。
4. 神のみわざを行うための力
- 「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)。説教者はここに筋道を見ています。聖霊、次に力、次に証し、そして宣教です。
- 聖霊は、すばらしい霊的体験のためだけに与えられるのではありません。聖霊の力を受けるのは、神のために働くためです。
- 洗礼の準備クラスで、二人の姉妹のうち一人が、奉仕とは何ですかと尋ねました。その答えは「奉仕とは、神のために働くこと、つまり務めのことです」。掃除をする人も、受付を手伝う人も神に仕えているのであり、聖霊に満たされる必要があります。
- 具体的な例があります。掃除をしていて、ひどい状態のまま残されたトイレを見つけた兄弟姉妹の場合です。聖霊がなければ、腹を立てて、神が喜ばれない言葉を口にしてしまいます。聖霊がおられれば、気持ちを立て直し、与えられた奉仕のゆえに神をほめたたえることができます。
- いま教会では工事が行われています。これは特定の人たちだけのものではありません。「教会のためであり、主のためであって、人のためではありません。」「もっと霊的になる」まで待つ必要はありません。体験したその時から、それは証し人となるためのものです。
- 聖霊の力は、私たちを有名にするためのものではありません。イエスは「人々があなたがたのことを語るようになる」とは言わず、「あなたがたはわたしの証人となる」と言われました。聖霊は高ぶる方ではなく、聖霊が現れるときには必ず秩序があり、混乱はありませんでした。
5. 私たちは聖霊に満たされる必要がある
- 「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ、御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。お酒で満たされようとする人とは違い、クリスチャンは絶えず御霊に満たされることを求めます。「それは、続いていくべき現実だ」という意味です。
- 弟子たちや使徒たちが経験したことは、今日の私たちのためでもあります。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることのない方だからです(ヘブル13:8)。
- 私たちは、日々信仰を生きるため、あらゆる形の罪や誘惑に抵抗するため、御言葉を理解し、祈り、仕え、証しするために、聖霊を必要としています。
- 主は、「牧師だけでなく、すべての人」に、あらゆる国の人々を弟子とするよう求めておられます(マタイ28:19)。伝道チームに入っているかどうかにかかわらず、あなたもイエスを証しするよう召されています。
- 正しい問いは、「私はこれまでに聖霊に触れられたことがあるか」ではなく、「私は今日、不平を言ったり聖霊の声に背いたりして時間を過ごすことなく、聖霊に私の人生を治めていただいているか」です。もし聖霊を脇に置いてしまっているなら、聖霊がふさわしい場所を取り戻してくださるように祈りましょう。
6. 聖霊に満たされた生活を育てるには
- 聖霊の臨在を慕い求める。「だれでも、かわく者はわたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ7:37)。聖霊の臨在を慕い、求め、願うことなしに、御霊に満たされた生活を育てることはできません。
- 祈る。祈りは、信仰歴の長い人にも新しく信じた人にも、決してクリスチャンの語彙から消えてはなりません。祈りの中で、私たちは神に語りかけ、神に願い、そして神に耳を傾けることもできます。
- 御言葉にとどまる。「一日24時間、週7日」読み続けるということではなく、聖書を読むことを愛し、そこに喜びを見いだすことです。もし抵抗があるなら、主がそれを取り除いてくださるように祈りましょう。
- 説教者は学生時代の思い出を語りました。キャンパスでの祈りの時間に、新しく信じた人が、聖書を開くたびに震えて口ごもりました。ところが、本を閉じれば何の問題もなく話せたのです。数人の兄弟たちと30分ほど祈ると、その人は初めて御言葉をすらすらと読むことができました。「クリスチャンが御言葉を愛し、慕い、読むことは、あたりまえのことです。」
- 従う。言葉は簡単ですが、実践はそう簡単ではありません。御霊は、私たちの肉が取りたい、触れたい、味わいたいと思うものに、ときには「いいえ」と言われます。親に全く従わない子どものように、不従順を繰り返すと、つらい空気が生まれます。
- 聖霊は人格をもったお方なので、私たちの不従順によって悲しまれることがあります(エペソ4:30)。「たとえ重くても、つらくても、苦くても」、神の声に従う者の一人にしてくださいと神に求めましょう。
7. 聖霊に満たされた教会
- 信仰歴の長い人も新しい人も、すべてのクリスチャンが聖霊に満たされている姿を想像してみてください。伝道や、さまざまな奉仕への影響、仕える平安と喜びが思い浮かびます。
- そのような教会は、人を追いかけなくても祈ります。御言葉を愛し、教えを愛し、集まりの時間を愛します。
- 教会は一致の中に生きます。「聖霊と分裂は、同じ道ではありません。」
- 人が背負っている重荷を見ることなく、仕え、迎え入れます。イエス・キリストを、SNS、伝道、各働きの支援など、さまざまな方法で伝えます。
- 人を感心させようとするのではなく、神をあがめ、栄光を帰そうとします。聖霊は謙遜へと導いてくださるからです。
- 結びとして、説教者はこう付け加えました。聖霊がなければ、今日クリスチャンとして生きることは「とても難しい」。人間が示す真理ではなく神の真理の中を歩むために、毎日保たれるこの力が必要なのです。
心に留めたいこと
- 聖霊はエネルギーではありません。教え、思い起こさせ、導き、悲しまれることもある、人格をもったお方です。
- 聖霊があなたを神や御言葉から引き離すことは決してありません。聖霊は聖書に取って代わるのではなく、聖書を理解し、それに従って生きる助けをしてくださいます。
- その力は、神のために働き、証し人となるために与えられるもので、有名になるためではありません。
- 御霊に満たされることは、毎日育てていくべき現実です。聖霊の臨在を慕い、祈り、御言葉にとどまり、従うことです。
- 聖霊に満たされた教会は、祈り、御言葉を愛し、一致の中に生き、人を迎え入れ、神に栄光を帰そうとします。
自分への問いかけ
- 決断をするとき、あなたは「自分の心の声」に耳を傾けていますか。それとも聖霊の声でしょうか。
- 今日、聖霊にあなたの人生のすべてを治めていただいていますか。それとも、ある時から脇に置いてしまったでしょうか。
- 主は、あなたの教会でどんな奉仕を任せておられますか。小さな務めであっても、どのような心でそれを行っていますか。
- 聖書を開くとき、あなたの中に抵抗はありますか。何があれば、読むことに喜びを見いだせるでしょうか。
- 御霊が「いいえ」と言っておられると分かっているのに、その声に抵抗し続けていることは、どんな分野ですか。
引用した聖書箇所
- ヨハネの福音書14章15〜26節
- ヨハネの福音書16章13節
- ヘブル人への手紙12章14節
- 使徒の働き1章8節
- エペソ人への手紙5章18節
- ヘブル人への手紙13章8節
- マタイの福音書28章19節
- ヨハネの福音書7章37節
- エペソ人への手紙4章30節
よくある質問
なぜ聖霊は人格をもったお方だと言えるのですか。
ヨハネ14章で、イエスは聖霊をエネルギーや非人格的な力としては語っていません。教え、思い起こさせ、私たちのうちにとどまり、導き、語りかける方として描いています。これらは人格をもつ者の特徴です。だからこそ、聖霊は私たちの不従順によって悲しまれることもあるのです。
ヨハネ14章の「助け主」とはどういう意味ですか。
ギリシア語の「パラクレートス」は、助けるためにその人のそばに呼ばれた者を指し、寄り添い、支え、弁護する方という意味です。聖霊は、私たちが教会に来たときだけでなく、日々の選択の中でも私たちに寄り添ってくださいます。
聖霊に満たされた生活はどのように育てればよいですか。
説教者は、これですべてではないと断りつつ、四つの道を挙げています。聖霊の臨在を慕い求めること、祈ること、読むことに喜びを見いだしながら神の御言葉にとどまること、そしてつらいときにも聖霊の声に従うことです。エペソ5章18節は、毎日続いていくべき現実について語っています。