はじめに
「実を結ぶこと」。これは、Église Nice Métropole の牧師 Pierre Fauchy が、シリーズ第3回のメッセージの冒頭で改めて語ったテーマです。今回もヨハネの福音書15章から語られました。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」
最初の2回のメッセージは、実そのものから目をそらすものでした。実を結ぶために最も大切なのは、イエスにつながっていることです。この日曜日、牧師はようやく問いかけます。「実について語るとき、私たちは何について語っているのでしょうか。」
牧師の答えは、ひとつの確信に集約されます。実は、私たちの内に少しずつ形づくられていくということです。牧師は3つの実を挙げており、あなた自身の神との歩みの中にも見つけることができます。1つ目はあなたの生き方に、2つ目は人との関係に、3つ目はあなたが差し出すものに現れます。
メッセージの流れ
1. ぶどうの木につながり続ける
- 牧師はこれまでのメッセージを振り返ります。何としても実を結びたいという思いに対して、神は「戦う相手を間違えてはいけない」と語ります。実は大切ですが、何より大切なのはイエスにつながっていることです(ヨハネによる福音書 15章5節)。
- とどまるとは、つながり続けることです。「つながっては離れる」という繰り返しは、自然界ではうまくいきません。接ぎ木した枝を切り離してしまえば、実を結ぶ見込みはほとんどありません。
- イエスはぶどうの木であり、私たちはその枝です。つながり続けるには忍耐が必要で、ときには戦いも必要です。「とどまること、つながり続けること、それは戦いです。」
- イエスにとどまるとは、その御言葉にとどまることでもあります。そしてこの関係は双方向です。「神は、私たちの人生で一方通行であることを望んでおられません。」実は、この交わり、私たちの問いかけや祈りの生活の中から生まれます。
2. 段階を踏んで成長する実
- ある実は、すぐに現れてほしいと思うことがあります。けれども、ある実を結ぶ前に、先に別の実が現れる必要があることに気づきます。
- ガラテヤ人への手紙5章22節にある御霊の実はよく知られていますが、それは「数ある実のうちのひとつ」です。そこには、一歩一歩進む確かな道のりがあります。
- Pierre Fauchy は、あなたの人生で「地図に描いてみる」ための3種類の実を示します。この順序を守らなければ「難しくなることがある」と牧師は注意を促します。
3. 第1の実:私がどのような者になるか
- 出発点となる聖書の箇所は、ヨハネによる福音書12章24節です。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、豊かな実を結ばないという言葉です。
- この第1の実は、人格に関わるものです。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ人への手紙 5章22-23節)。牧師は笑顔で言います。「やることは山ほどあります。」
- 「実は、私がどのような者になるかから始まります。」そうでなければ、ほかの実を結ぶのは難しくなります。
- この実は、聖さの中でなされる選択や決断にも関わります。「だから、悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイによる福音書 3章8節)。それは、人から求められたからではなく、心の中で当たり前になったからこそ下される決断に表れます。
- 教会の兄弟のひとりが、洗礼を受けた日に、結婚を申し込みたいという願いを牧師に打ち明けました。牧師は、その決断は彼自身のものであり、神が彼の心に置かれたものから生まれたのだと伝えました。「これは実です。」
4. 嵐の中の平安
- 教会のひとりの女性は、幼い娘を持つ母親でしたが、住む家をなくしてしまいました。教会は彼女の住宅申請のために祈りました。数日後、返事が届きます。却下でした。順番は2番目だったのです。
- 彼女はこう証しします。「打ちのめされました。祈り、断食し、『主よ、私には分かりません』と言いました。」電話で彼女にこう言ったのは、クリスチャンではない妹でした。そのアパートが手に入らなかったのなら、それは神があなたのために用意されたものではなかったからだ、と。
- 彼女は祈り続け、主をほめたたえ続けました。それからまもなく、電話で住まいが割り当てられたと知らされました。再審査があることは知らされていませんでした。娘の中学校のことも祈りに加えていましたが、その学校は徒歩10分もかからない場所にあります。
- 彼女は「神の恵みを数えよう」という賛美に支えられました。「いつかは分かりませんでしたが、神が動いてくださると分かっていました。そして神がすでに私にしてくださったことを確信していました。」
- 牧師の心に残ったのは、この期間、彼女の内にあった平安でした。彼女は、抱えていた不安を娘に少しも見せませんでした。「そこに、私は実を見ます。」あらゆる問いを抱えながら嵐を通り抜けること、それもまた、心の最も深いところでなされる神のみわざの実です。
5. 第2の実:人との関係
- 実が私たちの内に始まるなら、その歩みはさらに続きます。それは人との関係の中に見える実です。ぶどうの木についての同じ箇所で、イエスはこう言われます。「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書 15章12節)。
- これは選択肢ではありません。そして「他の人を愛するのは簡単ではありません」。多くの場合、それは聖霊が私たちの最も深いところでなさるわざを通して実現します。
- 聖書は、他の人を自分よりすぐれた者と思うように語っています(ピリピ人への手紙 2章3節)。謙遜は、そのとき具体的な実となります。
- 愛についての定義は人それぞれで、私たちはしばしば自分の必要を基準に愛を測ります。「愛されていると感じない」というように。愛するとは、むしろ相手の益を求めることです。赦し、忍耐し、励まし、相手を担うことです。
- イエスの模範は、犠牲という考え方を加えます。私たちは「自分を犠牲にしなくてよい範囲で」愛したいと思いがちです。この実は、ただの努力よりも深いみわざです。そこで祈りが必要になります。「主よ、あなたが私に結ぶようにと求めておられるこの実を、結べるように助けてください。」
6. 第3の実:差し出すもの
- 説明のために、牧師はスーパーで買った果物と野菜のかごを持ってきました。果樹園がないからです。これらの果物は、神が私たちの内に置かれた才能、時間、能力を表しています。
- 「これはまだ実ではありません。実になる可能性があるものです。」これらの才能は、差し出されて初めて、私たちの人生の中で霊的な実となります。
- ペテロの第一の手紙4章10節です。神のさまざまな恵みの良い管理人として、各自が受けた賜物を用いて互いに仕えなさい、という教えです。どの賜物においても、神は私たちに期待しておられます。それを実らせることです。
- タラントのたとえがそれを思い起こさせます(マタイによる福音書 25章14-30節)。ひとりは受け取ったものを実らせ、もうひとりはそれを土に埋めました。そして、多く与えられた者は、多くを求められます(ルカによる福音書 12章48節)。
- だからこそ、段階の順序が大切です。私はなぜ奉仕するのか。評価を求めているのではないか。みんなに「あなたの結ぶ実はすばらしい」と言ってほしいのではないか。
- 牧師は会衆にかぶを差し出します。誰も欲しがりません。それを育てた人は、気を悪くするかもしれません。土を耕し、心を込めて育てたのですから。第1の実、つまり心の中での神のみわざがなければ、「かぶはつまずきの石になりかねません」。
7. 収穫が見えなくても種をまく
- 自分の実を神にお任せしたとき、それがどんな道をたどるのかは分かりません。これは奉仕の中でしばしば不満のもとになります。自分のしていることがどこまで届くのかが、いつも見えるわけではないからです。
- 牧師は、以前の教会で迎え入れた若い女性から、7年後に最近手紙をもらったと話します。その手紙には、受けた歓迎と、心にまかれた説教のおかげで、彼女が歩んできた霊的な道のりが書かれていました。「あなたの奉仕を励ますためにお伝えします。」
- 一粒の麦が死ななければ、実を結ぶことはできません。主の手に委ねたものは、それによって養われ、神とともに何かを体験する誰かに受け取られるのです。
- 具体的には、教会は奉仕の紹介のために6つのブースを用意しました。ロジスティクス、会堂の管理、子ども、賛美、霊的ダイナミクス、トレーニングです。目的は「助けが必要です」と言うことではなく、教会の営みを知ってもらい、聖霊が心に触れてくださるようにすることでした。
- 目立たない奉仕も実を結びます。先週の日曜日、ある兄弟は駐車できずに家に帰ってしまいました。駐車場にチームメイトがいなければ、礼拝に来ることを妨げてしまうことがあるのです。牧師は駐車場チームを励まします。会堂の管理は、あなたの兄弟姉妹への祝福となるからです。
- 牧師は祈りで締めくくります。「十字架で、あなたは死なれ、その実はただ栄光に満ちています。イエスよ、私たちはあなたの死の実です。」
押さえておきたいポイント
- 実を結ぶために最も大切なのは、忍耐をもって、御言葉の中で、イエスにつながり続けることです。
- 実は段階を踏んで成長します。まず私の内に、次に人との関係に、最後に私が差し出すものに現れます。
- 第1の実は、私がどのような者になるかです。変えられた人格と、聖さの中でなされる決断です。
- イエスが私たちを愛されたように人を愛することは、選択肢ではなく戒めです。この実には、聖霊の深いみわざが必要です。
- 才能は、まだ実になる前の可能性にすぎません。たとえすぐに収穫が見えなくても、人に仕えるために差し出されたとき、実になります。
自分への問いかけ
- あなたの人生のどの面で、ぶどうの木から「離れて」は、またつながり直すことをしがちですか。
- 愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制のうち、神が今あなたの内に育てようとしておられる実はどれですか。
- あなたは今、嵐の中にいますか。今日、あなたは神のどんな恵みを数えることができますか。
- あなたが愛するのに苦労している人は誰ですか。その人を赦し、励まし、担うとは、あなたにとってどういうことでしょうか。
- どんな才能、どんな時間、どんな能力を、人に仕えるために差し出さず、かごの中にしまっていますか。そして、あなたはなぜ奉仕するのですか。人に見られるためですか。それとも御国が前進するためですか。
引用した聖書の箇所
- ヨハネによる福音書 15章
- ヨハネによる福音書 15章5節
- ヨハネによる福音書 15章12節
- ヨハネによる福音書 12章24節
- ガラテヤ人への手紙 5章22-23節
- マタイによる福音書 3章8節
- ピリピ人への手紙 2章3節
- ペテロの第一の手紙 4章10節
- マタイによる福音書 25章14-30節
- ルカによる福音書 12章48節
よくある質問
Pierre Fauchy が語る実の3つの段階とは何ですか。
実はまず、私の生き方、つまり人格と決断の中に現れます。次に、イエスが命じられる愛を通して、人との関係の中に見えてきます。そして最後に、神が私に託してくださったものを人に仕えるために差し出すとき、与えるための実になります。牧師にとって、この順序は大切です。段階を飛ばすことはできません。
なぜ実は「私がどのような者になるか」から始まるのですか。
Pierre Fauchy ヨハネによる福音書12章24節に基づいて語ります。一粒の麦が死ななければ、豊かな実を結びません。第1の実は、人格(愛、喜び、平和、寛容、ガラテヤ人への手紙5章22-23節にあるほかの特質)と、聖さの中でなされる決断に関わるものです。この実がなければ、ほかの実を結ぶのは難しくなります。
才能は、すでに実なのですか。
いいえ。牧師によれば、神が私たちの内に置かれた才能、時間、能力は、まだ実ではなく、実になる前の可能性です。ペテロの第一の手紙4章10節にあるように、それらは差し出されたときに初めて霊的な実となります。各自が受けた賜物を用いて互いに仕えなさい、という教えです。
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