はじめに
その夜、オネクス自由福音教会(Église Évangélique Libre d'Onex)は、ローラン牧師の長年の友人であるステファンを迎えました。牧師は彼を「福音の奉仕者」と紹介します。ステファンはジュラ地方、続いてジュネーヴで、いくつもの教区の牧師を務めてきました。今は自分の町の行政評議会に席を置き、それを「鐘楼のない教会」と呼んでいます。そして最近、ジュネーヴの病院のチャプレン(病院付き牧師)チームに加わったところです。本人もそれを笑いながらこう言います。「信者の方々にどう話せばいいのか、もう分からなくなりました。」
彼はまた、二年あまりかけてジュネーヴ州の45の自治体をすべて回り、行政、学校、地域の団体のために祈りました。そしてそれぞれの町で、二、三人が集まるところに「イエスの臨在の場所」が生まれるよう求めてきました。
メッセージは二つの聖句から始まります。詩篇87篇7節の「歌う者も踊る者も言う、『わたしの泉はみなあなたのうちにある』」。そして、ヨハネ4章14節でイエスがサマリヤの女に語られたことば、「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう」です。彼の確信は一言で言えます。イエスがかつてあなたの人生に触れてくださったなら、あなたのうちには泉があり、その泉は今もそこにある、ということです。
メッセージの流れ
1. イエスがあなたの人生に置かれたものは動いている
- ステファンは、ヨハネ4章14節に一つの動きがあることを指摘します。イエスが与える水は泉となり、その泉は永遠のいのちに至るまでわき上がります。
- この動きは、ほかのたとえ話にも見られます。たとえば、最も小さなたとえ話の一つ、土にまかれた種がひとりでに、まず芽、次に穂、そして穂の中に実を結ぶ話です(マルコ4章26-28節)。
- 「イエスが私たちの人生に置かれるものはすべて、広がっていくためのものです。」
- イエスがあなたの人生に触れてくださったなら、その動きはあなたの内側で始まっています。その後に何を経験してきたとしても、今夜どこにいるとしても、泉は開かれたのです。
2. 泉はふさぎにくい
- ジュネーヴに来たばかりのころ、ステファンは子どもたちをアロンドン川のほとりに連れて行き、ダムを作りました。石を一つ、また一つ、砂、泥。うまくいったと思うと、水は右から、左から、あるいは上を越えて流れていきます。
- 「水の流れをふさぐのはとても難しいことです。」不可能ではない、と彼は言い添えます。けれども、人の人生における神の流れをふさぐのは、何よりもとても難しいことなのです。
- イエスが一杯の水を与えてくださったとき、その水はイエスのいのちでした。あなたのうちに置かれたその一杯の水は、広がっていくための泉となりました。
3. 二種類の井戸:泉と貯水槽
- イエスはヤコブの井戸のそばに座っておられます。本文には「井戸」ということばが何度も出てきますが、ギリシャ語では二つの異なることばが使われています。日本語ではそれが見えません。
- 6節で使われていることばは、泉から水が供給される井戸を指します。掘れば、水がわき出てくる井戸です。
- もう一種類の井戸は貯水槽です。ステファンは、泉のない城塞都市レ・ボー=ド=プロヴァンスを例に挙げます。そこでは、少しでも雨が降って満たされることを願って、貯水槽が掘られました。貯水槽には、水があるときもあれば、足りなくなるときもあります。
- サマリヤの女がイエスに、あなたは「この井戸を私たちに与えてくれた父ヤコブ」よりも偉大なのかと尋ねるとき、彼女は貯水槽を指すことばを使っています。彼女にとってそれは「水の入った穴、それ以上でもそれ以下でもないもの」です。
- 黙示録では、同じことばが底なしの所の穴、いのちのない場所を指しています(黙示録9章1-2節)。
- イエスが語られるのは、もう一方の井戸、生ける水の泉です。それは、小羊が御自分の民をいのちの水の泉へ導かれるとき(黙示録7章17節)、そして神が「わたしは、かわいている者に、いのちの水の泉から、価なしに飲ませよう」と約束されるとき(黙示録21章6節)に出てくることばです。
4. 神があなたのうちに置かれた井戸に目を開いてくださるように
- すべてはイエスから来ます。この泉を与えてくださるのも、この水を与えてくださるのもイエスであり、この水はイエスご自身のいのちです。もう、「水があるときもあれば、ないときもあり、冷たいときもあれば、はっきり言って泥水のときもある」あの貯水槽に戻る必要はありません。
- ハガルは、息子イシマエルとともに荒野に追い出され、死ぬと思っていました。神が彼女の目を開かれると、彼女は水の井戸を見ました(創世記21章19節)。ステファンは、七十人訳聖書では「生ける水の井戸」とされていると述べています。
- ステファンは、神が私たちの心にいのちの井戸を据えてくださったことに気づけるよう、目を開いてくださいと祈ります。それがイエスの救いのみわざです。
- 神の願いは、すべての人生が成長することです。神は私たちに成長への望みを抱いておられます。そこで、半ば冗談としてこんなことを言います。十年か十五年ぶりに会う信仰者に「変わっていないね」と言うのは、必ずしもほめ言葉ではない、と。
5. いつも同じところに戻ることに疲れた
- サマリヤの女は理解しました。「女はイエスに言った、『主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をわたしに下さい』」(ヨハネ4章15節)。
- 行間を読むなら、彼女はいつも同じところに戻ってきていました。五人の夫がいて、今いる男の人は夫ではありません(ヨハネ4章18節)。
- ステファンは、ある女性に「私の額を読んでください」と頼まれたことを話します。「『私を殴って』と書いてありますか?」彼女は、自分を殴る男性にばかり出会ってしまうのでした。これは極端な例だと彼は言いますが、だれでも時には、同じ場所に戻っているように感じるものです。
- 突破口を得るには、私たちをさらに先へ連れて行ってくれるこの泉が必要です。「口が大きくても小さくても関係ありません。大切なのは一口の量ではなく、水です。」
6. 泉は今もそこにある
- 状況や選択、人生の困難によって、泉の勢いが弱まることがあります。外から見ると、気づかれなくなっていることさえあります。
- 何年も前に聞いたチューリッヒの講師が、霊的な父から受けた助言を伝えていました。「霊的なことを理解したいなら、その前に自然のことを理解しなければならない。」ところで、泉は動きません。「足の生えた泉なんて見たことがありません。」
- 泉は何トンもの岩の下に埋もれているかもしれません。「サレーヴ山がその上に崩れ落ちたのかもしれません。」それでも泉は今もそこにあります。神があなたの人生に置かれたものは、「逃げ出して」はいません。
- かつての熱意や情熱が、もう感じられないかもしれません。自分を果樹にたとえるなら、実はあまり残っていないと思うでしょう。けれども、あなたのうちにこの泉を置かれた方はそれをご覧になっていて、泉は今もそこにあると言ってくださいます。
- 枯れ葉や枯れ枝、あるいは山から流れ落ちた岩や泥が、泉をふさいでしまったのかもしれません。その中には、あなた自身のせいではなく、上から降りかかってきたものさえあります。
7. イエスのもとに来なさい。イエスは責めない
- この泉につながったことがなく、かわきを覚えていて、「主よ、堂々めぐりも、いつもこの貯水槽に戻ることも、もううんざりです」と言うなら、ステファンはあなたに、イエスにいのちをゆだねるよう招いています。あなたのかわきをいやし、人生を本当に変えることができるのは、イエスだけです。
- すでに新しく生まれる経験をした人にとって、泉はそこにあります。けれども、ふさがりを取り除いてもらい、いのちを取り戻す必要があるかもしれません。
- 「主は何も責められません。訴えることもなさいません。ただ『わたしのところに来なさい』とおっしゃるだけです。それだけです。」
- メッセージは、祈りと感謝の時間で結ばれます。御霊がこの泉の上にもう一度吹き、「あなたの内側で燃える何か」を再び燃え立たせてくださるようにと。
心に留めたいポイント
- イエスが与える水は、イエスご自身のいのちです。それは一杯の水のままではありません。あなたのうちで、永遠のいのちに至るまでわき上がる泉となります。
- 貯水槽は、ときどき水を与えます。泉は、わき出します。イエスがあなたに差し出すのは貯水槽ではなく、生ける水の泉です。
- 泉は動きません。ふさがれたり弱まったりすることはあっても、神があなたのうちに置かれたものは今もそこにあります。
- 大切なのは一口の大きさではなく、水です。
- 主は訴えず、何も責められません。ただこう言われます。「わたしのところに来なさい。」
個人への適用
- ときどきしか水を与えてくれないのに、かわきをいやそうとして、今もどの「貯水槽」に戻っていますか。
- あなたの人生に、いつも同じところに戻っているように感じる状況はありますか。
- イエスがあなたのうちに開かれた泉を、どんな枯れ葉、どんな枝、どんな岩がふさいでいますか。
- イエスに「かわいています」と言った日を覚えていますか。今日もう一度そう言うことを、何が妨げていますか。
- 泉は、もう見えなくても感じられなくても、今もそこにあると信じる勇気がありますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
ヤコブの井戸と、イエスが語られる泉は何が違うのですか。
説教者は、ヨハネ4章のギリシャ語本文には二つのことばが使われていると説明します。6節のヤコブの井戸は、わき出る泉です。サマリヤの女が井戸について語るときは、貯水槽、つまり水があるときもあれば、ないときもある水ためを指すことばを使っています。イエスはそれに対して、永遠のいのちに至るまでわき上がる泉を約束されます。
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり」とはどういう意味ですか。
ステファンによれば、ヨハネ4章14節には一つの動きがあります。一杯の水が泉となり、その泉が永遠のいのちに至るまでわき上がるのです。この水はイエスご自身のいのちです。あなたがイエスに出会った日に、イエスはあなたのうちに泉を開かれました。その泉は、ひとりでに芽、穂、実を結ぶ種のように、成長していくためのものです。
神が私のうちに置かれた泉は、なくなってしまうことがありますか。
説教者は、泉は動かないと語ります。勢いが弱まったり、枯れ葉や枝や岩の下に隠れたりすることはあっても、泉は今もそこにあります。主は何も責めず、訴えることもなさいません。ただ「わたしのところに来なさい」と言われます。御霊がもう一度この泉の上に吹いてくださるためです。