はじめに
マルシネル福音プロテスタント教会(Église Protestante Évangélique de Marcinelle)で、イヴ牧師はヨナ書の連続講解を続けています。この日曜日は3章に入り、メッセージ全体を要約する題が付けられています。「人間の境界線を越える神の恵み」。
ヨナは逃げ出し、神は嵐の中で彼に追いつき、おぼれる彼を救われました。そしてついに、誰もが恐れ、憎んでいた民の都ニネベの門にたどり着きます。彼はそこで、しぶしぶ五つの言葉だけを語ります。ところが思いがけず、町全体が神の前にへりくだるのです。
牧師は物語を語るだけで終わりません。心にひっかかる問いを投げかけます。「私たち自身のニネベ人とは誰でしょうか。」そして神の恵みは、私たちが彼らを見る目と接し方をどのように変えるのでしょうか。
メッセージの流れ
1. 自分の民の敵に向き合う預言者
- ヨナは紀元前8世紀の北王国のユダヤ人です。不安定な時代で、人々は「止めようがなく、容赦ない」アッシリア人の進軍に震えていました。
- 彼らの政策は恐怖政治でした。町は焼かれ、略奪され、民間人が虐殺されました。誰もが彼らを恐れ、誰もが彼らを憎んでいました。「恐れと軽蔑」です。
- 神はこの帝国の首都ニネベへヨナを遣わし、住民に警告させます。罪を捨てなければ滅ぼされる、と。しかしヨナはすぐに悟ります。神は敵を滅ぼしたいのではなく、救いたいのだと。
- ヨナは「神が敵をも愛しておられると知って、うんざり」しました。彼の「外交的解決」は、警告せず、皆が死んでしまえば平和になる、というものでした。
- 牧師は、そこに私たち自身の姿を見ます。自分を傷つけた人に不幸を願うとき、私たちは自分も罪人であることを忘れています。「もし神が、私たちが敵に望むとおりに私たちを扱われたなら、私たちはおそらくここでこうして話してはいないでしょう。」
- 神は、ニネベの人々に対しても、ヨナに対しても忍耐深い方です。私たちの内にご自身の姿を建て直し、「私たちを恵みへと教育」したいと願っておられます。イエスは言われます。敵を祝福し、迫害する者のために祈りなさい。「こうしてあなたがたは、天におられるあなたがたの父の子どもになるのです」(マタイ5章44-45節)。
- 1章と2章の振り返りです。神は「東へ行け」と言われ、ヨナは西へ向かいます。神は嵐と大きな魚でヨナに追いつかれます。神の賜物と召しは取り消されることがないからです。海の底で、ヨナはこの書全体の教えを学びます。「救いは主のものです」(ヨナ書2章9節)。
2. 振り出しに戻る
- 3章は、1章とほとんど同じ言葉で始まります。「立って、大きな町ニネベに行きなさい。」牧師はこれをボードゲームにたとえます。「振り出しに戻る。」神は要するにこう言われるのです。「あなたが失敗する直前の、あの場所からやり直そう。」
- 「神は、私たちが神を脇に置いたまさにその場所から、いつも私たちと一緒に再び歩み始めてくださいます。」これはすばらしいことです。息をしている限り、私たちは神とともに再出発できます。神が赦せないことは何もありません。「神は立ち上がらせ、回復させ、いやし、解き放ってくださいます。」
- けれども、これは悲劇的でもあります。戻るまでに数か月、数年、ときには一生を費やす人もいます。人生の終わりに神を思うのは「思わないよりはよい」ことですが、なんと多くの時間と機会が失われたことでしょう。
- 残る結果もあります。失ったお金は取り戻せても、時間は戻りません。「もし私が人を殺してしまったなら、その人は生き返りません。」神は赦し、立ち上がらせてくださいますが、この地上では取り返せない過ちもあります。
- 「穴から出たとき、奇跡的に10キロ先へ瞬間移動するわけではありません。穴のふちから道を歩き直すのです。」だからこそ、キリストはエペソの教会にこう呼びかけられました。「それで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示録2章5節)。
- 多くの人が証しできるでしょう。長く離れていた教会の席に戻ること。贈り物としてもらった古くてほこりをかぶった聖書をようやく開くこと。祈っていた信仰者の祖父母を思い出すこと。「神のもとに来ること、神のもとに帰ることは、いつでも最善の選択です。」
3. 神にとって大きな町ニネベ
- 神はニネベについて語るたびに、「大きな町」と呼ばれます(ヨナ書1章2節、3章2節、4章11節)。3節はそれを強調します。非常に大きな町だったのです。
- 今日残っているのは廃墟と発掘現場だけです。しかし考古学者たちは、壮大な都市を証言しています。長さ18キロ、高さ30メートル、幅15メートルの城壁があり、公園、水上庭園、噴水、滝がありました。「ナミュールの城塞より、少しだけ立派です。」
- 牧師はシャルルロワと比べます。小さな環状道路なら一日で歩いて一周できますが、周辺の町を含めた大シャルルロワを一周するには数日かかります。
- それでもニネベの偉大さは、その大きさでも、富でも、12万人の住民でも測られませんでした。それは「神がニネベに注いでおられた眼差し」によって測られたのです。
- 3節のヘブライ語本文は、ニネベが「神にとって」大きな町であったと述べています。牧師は、この点はヌーヴェル・ビブル・スゴン(Nouvelle Bible Segond)のほうがよく訳していると指摘します。この大きな町の大きな罪人たちも、同じように大きな赦しを受けることができたのです。
- ヨナにとって、神の恵みは大きいけれど、イスラエルだけのものでした。ヨナ書は、最初の読者たちの恵みについての理解を揺さぶりました。異教の、罪深く、残酷な町が、神の目に大きかったのです。
4. 私たちが築く境界線
- 私たちもときどきヨナのようにふるまいます。主を知らない人々の生き方に衝撃を受けて、彼らを退けてしまうのです。すると教会の営みは「開かれたものというより、排除」に傾き、聖書よりも伝統、謙遜よりも高ぶりに傾いていきます。
- イエスはパリサイ人たちを、自分が入らず、入ろうとする人も妨げていると責められました(マタイ23章13節)。「今日、私たちの教会にも現代のパリサイ人がいます。」彼らはこう言います。神は私たちのもの、私たちだけのもの、しかも私たちのやり方で、と。
- 使徒パウロは、ヨナと同じユダヤ人ですが、異邦人への使徒となります。「ヨナがそれを知っていたら、魚の中で寝返りを打ったでしょう。」ヨナは本人の意に反して、旧約聖書における異邦人への預言者となったのです。
- 風紀の乱れで知られたコリントで、パウロは多くの反対に遭います。主は彼に言われます。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけません。わたしがあなたとともにいるから」。そしてこう続けられます。「語りなさい。この町には、わたしの民が大勢いるのだから」(使徒18章9-10節)。
- 神は罪に目をつぶられるのではありません。しかし神がとりわけ見ておられるのは、イエス・キリストにあってあるべき姿よりはるかに低いところで生きている人々の「霊的な苦しみ、魂の状態」です。神は私たちを、彼らのいる場所へ遣わされます。「守るべき清さの名のもとに」壁を築くことなく。
- 「かつては、ピアスはだめ、タトゥーはだめと言われた時代がありました。」この音楽はだめ、罪人はだめ、とも。「もし教会がそうだったなら、席は空っぽでしょう。私から始まって。」初日から完全だった人はおらず、ここにも完全な人はいません。
- 神の御子は栄光の座を離れ、罪人の中の一人の人となり、飼い葉桶に生まれるほどになられました。パウロは言います。「すべての人にすべてのものとなりました」(1コリント9章22節)。教会は壁の場所ではなく、迎え入れと奉仕の場所です。
5. 五つの言葉の説教
- ヨナは町中を歩き回るのではなく、一日分の道のりを歩くだけです。聖書はしばしば大演説を記録しています。モーセによる律法の厳粛な朗読、神殿奉献でのソロモンの祈り、預言者ハガイ、ゼカリヤ、マラキ、山上の説教、使徒の働きにおける使徒たちの説教などです。
- そしてヨナの説教です。「あと40日で、ニネベは滅ぼされる。」フランス語では6語、ヘブライ語では5語です。「日曜の朝に、私があなたがたに五つの言葉だけを語って、祈りましょうと言ったらどうでしょう。」二回目か三回目の日曜日には、牧師を替えようという話になるでしょう。
- ブリュッセルの聖書学院なら、ヨナは説教学の授業で「10点満点中0点」だったでしょう。導入も、説明も、例話もありません。ビリー・グラハムのチームなら、解雇されていたでしょう。
- ヨナは無能ではありませんでした。御霊に満たされた本物の預言者でした。けれども気が進まなかったのです。群衆を見て「飼い主のいない羊のように」弱り果てているのを深くあわれまれたイエスとは正反対です(マタイ9章36節)。ヨナのほうは、こう思っていました。「いい気味だ。」
- 彼は最低限のことしかしません。遊びに行きたくて宿題をいいかげんに済ませる子どものようです。彼を責めるのはやめましょう。私たちも、兄弟姉妹や隣人に助けが必要だと知りながら、それをしなかったり、「中途半端に、あわただしく」しかしなかったりします。
- 神は不義な方ではなく、私たちの愛のわざを忘れられません(ヘブル6章10節)。けれども、私たちが申し開きをするときには、私たちの怠りも忘れられません。「神は侮られるような方ではありません。」
- それでも、おざなりな説教でさえ、神が働かれるのを妨げません。「神がヨナの不誠実さにもかかわらず、おざなりな説教を用いることができたのなら、誠実な心で私たちがささげるわずかなものを、神は増やすことができます。」五つのパンと二匹の魚のように。
6. 町全体がへりくだる
- 小さい者も大きい者も、富む者も貧しい者も、王とその宮廷も、みなが主の前にへりくだります。牧師はヨナの姿を想像します。「さあ、終わった。」人々は沈黙し、やがて少しずつ、ひざまずいて泣き出す人が出てきます。そしてヨナは思います。「しまった。彼らは回心しようとしている。」
- 牧師は、兵士たちが自分の罪と、被害者のおびえた顔を思って胸を打つ姿を思い描きます。彼らは、自分では決して償えないと知っています。残されたのは、罪責感と恥、「そして神の恵み」だけです。
- 王は人にも家畜にも断食を命じます。しかし彼はためらいます。「もしかすると、神は思い直されるかもしれない」(ヨナ書3章9節)。1章の船乗りたちと同じように、気まぐれな神々をもつ異教徒の考え方です。「あるときはよし、あるときはだめ」。
- 聖書の神は、そのような偽りの神々とは違います。「その『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』です。」神は恵みの神です。「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10章13節)。罪の数や重さがどれほどであっても。
- 「罪の増し加わるところには、恵みも増し加わりました」(ローマ5章20節)。「神は私たちの過ちより大きい方です。その赦しはもっと大きいのです。」
- 同じ時代、南王国では預言者イザヤがこう書いています。「それゆえ、主はあなたがたに恵みを与えようと待っておられる」(イザヤ30章18節)。「神は恵みを与える瞬間を待っておられるだけです。これが私たちの神です。」
7. 神の恵みは私たちの境界線に縛られない
- ヨナの大きな不満をよそに、神は町を赦されます(ヨナ書3章10節)。ヨナ書で、神はアイロニーを通して教えておられます。船乗りたちを嵐から、預言者をおぼれることから救われた方が、今度はニネベをその罪から救われるのです。地域最悪の罪人たちが、「最悪の預言者」を通して救われます。
- 「神の恵みは、私たちの偏見の境界線、憎しみの境界線、争いと無関心の境界線を越えていきます。」そうでなければ、私たちは主イエス・キリストを知ることもなかったでしょう。
- 恵みは、ただ受け取る贈り物ではありません。私たちを内側から変え、他の人々を神が見ておられるように見るよう促す力です。「敵をのろうことは、誰でもします。敵を愛することは、超自然的です。それが神の恵みです。」
- 恵みは私たちの能力に限定されません。乏しい手段しかなくても、神に仕えることができるようにしてくださいます。
- それは警告でもあります。イエスは、700年後にこう言われます。「ニネベの人々が、さばきのときこの時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。ニネベの人々はヨナの宣教で悔い改めたからです。ここに、ヨナよりもまさった者がいるのです」(マタイ12章41節)。
- 「私たちが、神に対しても隣人に対しても、恵みに欠けると見られることが決してありませんように。」
心に留めたいポイント
- 神は、私たちが神を置き去りにしたその場所から、私たちとともに再び歩み始めてくださいます。神のもとに帰ることはいつでも最善の選択であり、早いほうがよいのです。
- ニネベが神の目に大きかったのは、城壁のためではなく、神がその住民に注いでおられた愛のゆえでした。
- 教会は恵みを妨げる壁の場所ではなく、迎え入れと奉仕の場所です。完全な状態で入ってきた人は誰もいません。
- おざなりな奉仕でも神が働かれるのを妨げませんが、神は私たちの心を尽くすことにふさわしい方です。神は、誠実にささげられたわずかなものを増やしてくださいます。
- 神の恵みは、私たちの偏見、憎しみ、無関心を越えていき、私たちが敵を愛することができるようにしてくださいます。
個人への適用
- あなたにとってのニネベ人とは誰ですか。神の恵みを受けることを、なかなか受け入れがたい人はいますか。
- 神と「振り出しに戻る」必要がある分野はありますか。今それをすることをためらわせているものは何ですか。
- あなたの態度や教会の中に、誰かがイエスに近づくのをためらわせてしまうような壁はありませんか。
- あなたの奉仕や、他の人への助けの中で、「中途半端に、あわただしく」しているものはありますか。
- あなたを傷つけた人のうち、今週、誰のために祈り、神の祝福を求め始めることができますか。
引用された聖書箇所
- ヨナ書3章
- ヨナ書1章2節
- ヨナ書2章9節
- ヨナ書4章11節
- マタイ5章44-45節
- ローマ11章29節
- 黙示録2章5節
- マタイ23章13節
- 使徒18章9-10節
- 1コリント9章22節
- マタイ9章36節
- ヘブル6章10節
- ガラテヤ6章7節
- ローマ10章13節
- ローマ5章20節
- イザヤ30章18節
- マタイ12章41節
よくある質問
神はなぜヨナを二度目にニネベへ遣わされるのですか。
ヨナ書3章の冒頭で、神は1章の召しをほとんど同じ言葉で繰り返されます。「立って、大きな町ニネベに行きなさい。」ヨナは振り出しに戻ります。イヴ牧師によれば、神は私たちが神を脇に置いたまさにその場所から、いつも私たちと一緒に再び歩み始めてくださいます。これは良い知らせですが、失った時間は戻りません。早く神のもとに帰るほど良いのです。
「ニネベは神にとって大きな町であった」とはどういう意味ですか。
3節のヘブライ語本文は、ニネベが神にとって、あるいは神の前に、大きな町であったと述べています。その偉大さは城壁や富ではなく、神がその住民に注いでおられた眼差しによって測られました。この大きな町の大きな罪人たちも、同じように大きな赦しを受けることができたのです。
ヨナの説教はなぜこれほど短いのですか。
「あと40日で、ニネベは滅ぼされる」。フランス語では6語、ヘブライ語では5語です。ヨナは無能だったのではなく、気が進まず、ニネベの人々を憎んでいました。それでも町全体が神の前にへりくだりました。イヴ牧師はここに励ましを見ています。神がおざなりな説教さえ用いることができたのなら、誠実な心で私たちがささげるわずかなものも、神は増やしてくださるのです。