「主よ、あなたは代々にわたって私たちの住まいでした。山々が生まれる前、あなたが地と世界を造られる前から、とこしえからとこしえまで、あなたは神です。」(詩篇90篇1〜2節、口語訳)
今朝は、あなたに小さな、けれどとても特別な作業を提案したいと思います。ほかのすべての優先順位を変えてしまうような作業です。想像してみてください。今日があなたの人生最後の日だとしたら。あるいはもっと言えば、あなたが生きているうちに、今日イエス様が再び来られるとしたら。あなたはどう反応するでしょうか。もしかしたら怖くなったり、悲しくなったりするかもしれません。それとも反対に、喜んで、主の御前に行く備えができていて、ただその日が早く来てほしいと願うかもしれません。
そして本当の問いは、すべてをふるいにかけるこの問いです。その最後の日、あなたの優先順位は何でしょうか。あなたの時間の使い方は。おそらく数時間の中で、できるだけ多くの大切な人たちに「愛している」と伝えようとするでしょう。まだ神様を知らない人たちに、もう一度福音を分かち合おうとするでしょう。けれど実際には、いつもそうした機会が与えられるわけではありません。死は不意にあなたを訪れることがあります。前日まで電話でたわいもない話をしていた父親が、翌日心臓発作で急に亡くなることもあります。歌手のダニエル・バラボワンは、1986年をすべて計画していましたが、まさにその年の1月にヘリコプター事故で亡くなりました。彼は亡くなる数か月前、こう語っていました。「やりたいと思っているうちに物事をやるべきだ、なぜなら後になったら遅すぎるかもしれないから」と。彼は思っていた以上に真実を語っていたのです。
あなたの死を見つめることは、あなたを落ち込ませるためではありません。むしろ本当に大切なことの光の中で、優先順位を見直させてくれるのです。だとすれば問いはこうなります。あなたを永遠へと運び去る死を前にして、あなたはどんな慰めを見出しているでしょうか。詩篇90篇はこの問いに答えてくれます。これは詩篇の中でモーセが書いた唯一の詩篇であり、今なお少しも色あせていません。
1. 移りゆく世界の中にある揺るがない住まい
この詩篇は祈りです。モーセはここで、自分のためだけでなく、イスラエルの民全体のために神に語りかけています。多くの注解者は、これがある厳しい宣告の後に書かれたと考えています。主はちょうど、荒野で反逆した二十歳以上のイスラエル人たちに、約束の地には入れず、荒野で死ぬことになると告げられたばかりでした。モーセはとりなします。嘆願します。そしてこの詩篇全体を包み込む、希望に満ちたことばから始めます。
「主よ、あなたは代々にわたって私たちの住まいでした。」(詩篇90篇1節、口語訳)
彼は神を「主」と呼びます。最初のことばから、全能の神があなたの小さくはかない人生をはるかに超えた方であることを強調しているのです。あなたが望むと望まざるとにかかわらず、あなたは完全に神に従う存在です。あなたは自分自身を造ったのではありません。生まれる日も、国も、家族も、肌の色も、あなたが選んだわけではありません。使徒の働きにはこうあります。時代の区分や住まいの境界を定められたのは主ご自身です(使徒17章26節)。エレミヤはこう付け加えます。「主よ、私は知っています。人の道はその人自身のものではなく、歩む人が自分の歩みを確かなものにすることもできないことを。」(エレミヤ10章23節、口語訳)
けれどもこの全能の神は、あなたにとって住まいとなることを望んでおられます。ヘブライ語では文字通り「住みか」を意味します。定住する場所を持たない遊牧の民にとって、これは大きな意味を持っていました。そしてそれはあなたにとっても同じです。神はあなたの「帰る場所」でありたいと願っておられます。イエス様はこう約束されました。もしだれかがイエス様を愛し、そのことばを守るなら、御父とイエス様がその人のところに来て、共に住むと(ヨハネ14章23節)。もし今あなたが苦しみの中にいるなら、この節を心に留めておいてください。「神は私たちの避け所、私たちの力、苦難のときにすぐ近くにいまして助けてくださる方です。」(詩篇46篇2節、口語訳)
だから自分に問いかけてみてください。あなたは何を自分の住まい、自分の避け所にしていますか。配偶者でしょうか、家族でしょうか、友人でしょうか、お金でしょうか、家でしょうか。いつかは、あなたはこの地上のすべてを手放さなければなりません。裸でこの世に来て、裸でこの世を去っていくのです。あなたはただ通り過ぎていく存在にすぎません。神だけが、揺るぐことのない確かな支えです。代々にわたってあなたと共にいてくださる唯一の方なのです。
2. 永遠の神と、はかない命
モーセは続けて神にこう語りかけます。
「山々が生まれる前、あなたが地と世界を造られる前から、とこしえからとこしえまで、あなたは神です。」(詩篇90篇2節、口語訳)
モーセの時代の人々にとって、動くことのない山々は永遠に存在するように思えました。モーセはこう言うのです。山々よりも永遠なる方がいる、それは主ご自身だと。ビッグバンが発見される以前、無神論の科学者たちは、聖書の最初の節を馬鹿げたものだと考えていました。始まりがあるだって、まさか、宇宙は永遠に存在してきたのだと。1925年になって、実際に始まりがあったことが発見されました。宇宙の年齢は138億年、地球の年齢は45.4億年と推定されています。そして神は、そのすべてより前から存在しておられたのです。
神の時間は、あなたの時間とは違います。詩篇の記者はこう思い出させてくれます。
「まことに、あなたの目には、千年も過ぎ去ればきのうのようで、夜回りのひとときのようです。」(詩篇90篇4節、口語訳)
ペテロは第二の手紙の中でこのことばを取り上げ、イエス様の再臨を忍耐して待つようにあなたを励まします(ペテロの手紙第二3章8節)。キリストの初臨から2000年、あなたにとってそれは長く感じられるでしょう。しかし神の目には、それはわずか二日にすぎません。2節の別の訳では、「昔から、とこしえまで、あなたは神です」とあります。つまり神は、ある日突然神であることをやめることなどできない方なのです。イエス様が人としての性質を取られたときでさえ、一瞬たりとも神であることをやめたことはありませんでした。イザヤはこう思い出させます。「わたしより前に神は形造られず、わたしより後にも、神はいない。わたし、わたしが主であり、わたしのほかに救い主はいない。」(イザヤ43章10〜11節、口語訳)
だれも神から王座を奪うことはできません。それに挑んで滅んだサタンでさえもです。トランスヒューマニズムも、人工知能も、どんな人間も、どんな御使いも、神の王座を奪うことはできません。神の前では、すべての国々を合わせても、水がめから垂れる一滴にすぎません(イザヤ40章15節)。神は幾十億もの星々、幾兆もの銀河を造られた方です。全世界を、そしてあなたのいのちの息を、御手の中に握っておられます。あなたのひと呼吸ひと呼吸は、神のものです。あなたにできることは、ただ神の前にひざまずくことだけではないでしょうか。
3. 夢のように、花のように過ぎ去るあなたの人生
ここでモーセは、神の永遠性を、あなたの人生のはかなさと鋭く対比させます。
「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子よ、帰れ』と。」(詩篇90篇3節、口語訳)
ヘブライ語では文字通り、神が人々をちりへと打ち砕くという表現です。死は、あなたに対する神の最初の計画の一部だったのでしょうか。もちろん違います。「死は人生の一部だ」とよく耳にします。中には死を美化し、それを一つの解決のように見なす社会さえあります。けれども聖書的な見方からすれば、死は本来あるべきでないもの、つまずきです。死はあなたの味方ではありません。聖書は死を「恐怖の王」、あなたの「敵」と呼んでいます。あなた自身、無意識のうちにそれを認めまいとしています。あなたの脳は本能的に、自分自身の死すべき運命を否認するようにできているのです。2019年10月22日付のある科学記事はこう題していました。「私たちの脳は自分自身の死は否定するが、他人の死は難なく受け入れる」と。
モーセが詩篇の冒頭でアダムに触れているのには理由があります。あなたが死ぬのは、あなたがアダムの子だからです。アダムはすべての人類を代表する存在でした。ちょうど、ある国家元首の悪い決断が国全体に影響を及ぼすように。アダムは神に背き、その結果、あなたをもこの破滅の中に巻き込んだのです。それ以来あなたは、死が支配する世界に生きています。人類の歴史が始まって以来、およそ1080億人が亡くなったと推定されています。世界では一秒に一人か二人が亡くなっています。一日に15万人。一年に5900万人です。モーセ自身、それを身をもって知っていました。彼は荒野で、一日のうちに2万4000人のイスラエル人が、その不従順のゆえに死ぬのを目にしたのです(民数記25章9節)。
新約聖書は、死の力を持っているのは悪魔だと語ります(ヘブル人への手紙2章14節)。けれども神は今なお主権者であられます。その時を決めるのは神です。ひとりの赤ちゃんが宿るためには、神のひとことで十分です。ひとりの人間がちりに帰るためにも、神のひとことで十分なのです。伝道者の書にはこうあります。「人が自分の息を支配して、それを引き止めておく権力を持つ者はいない。また、死の日を支配する権力を持つ者もいない。」(伝道者の書8章8節、口語訳)
モーセはここで、あなたの人生を表す二つのイメージを差し出します。
「あなたは人を大水のように押し流されます。彼らはひと眠りするほどのものです。朝には、彼らは草のように移ろいます。朝には花を咲かせても移ろい、夕べには枯れてしまいます。」(詩篇90篇5〜6節、口語訳)
夢は一晩しか続きません。別の詩篇の記者はこう言うでしょう。人は過ぎ去り、夜の中に消えていく影にすぎないと。そして花について、ひなげしを思い浮かべてみてください。最も美しい花の一つでありながら、その寿命はわずか一日と言われています。花を見つめるたびに、あなたは自分自身を振り返るべきなのです。けれども先進国に生き、医学の進歩の恩恵を受けているあなたは、自分の人生がいかにはかないものかという事実に、いともたやすく目をつぶってしまいます。多くの人にとって、死は考えることさえされない、タブーのままです。
4. 聖なる神の正しい怒りと、あなたの本当の姿
ここで、あまり聞きたくない神の一面が語られます。
「まことに、私たちはあなたの怒りによって滅び、あなたの憤りによって恐れおののきます。あなたは私たちの咎をご自分の前に置き、私たちの隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」(詩篇90篇7〜8節、口語訳)
それは「優しい神様」「幼子イエス様」といった、よくある牧歌的なイメージからはほど遠いものです。主は決して軽い方ではありません。真剣に受け止める必要があります。神は罪のゆえに怒られることがあります。ただし注意してください。この怒りは、あなたの怒りのように気まぐれで理不尽なものではありません。それは悪に対する、正しく聖い怒りです。神の目は悪を見るには清すぎるのです(ハバクク書1章13節)。モーセはそれを知っていました。荒野で反逆者たちに送られた蛇を目にし、シナイ山では、神の怒りの激しさに自らも震え上がったのです。
あなたはクリスチャンとして、こう思うかもしれません。神の怒りが私を恐れさせる理由はもうない、と。それは正しいことです。なぜなら、その怒りを十字架の上でご自身に引き受けてくださったのがイエス様だからです。イエス様はあなたの避雷針です。恵みによって、あなたは救われています。けれども、神を軽んじてよい相手だと思わないでください。新しい契約の時代にあってさえ、主はさばきを行われました。アナニヤとサッピラのことを思い出してください(使徒5章)。神は怒るのに遅く、まず何よりも情け深く、あわれみに満ちた方です。けれども、罪に対する怒りは確かに存在するのです。
そして詩篇の記者はこう警告します。主の光は、あなたの隠れた罪をも照らし出す、と。あなたは神に対して何一つ隠すことはできません。他の人たちには嘘をつけるかもしれません。自分自身にさえ嘘をつくことができるかもしれません。ルターはかつて、神の怒りと同じように、罪もまた底知れぬ深淵だと語りました。だからこそダビデは詩篇19篇で、自分でも気づいていない過ちを赦してくださるよう主に願うのです。そして詩篇139篇では、自分の心の奥底の動機を調べてくださるよう願います。神はあなた自身よりも、あなたのことをよく知っておられます。まるでスキャナーのように、あなたの心の奥底を調べ尽くされるのです。エプスタイン事件は、その最近の分かりやすい例と言えるでしょう。何年も隠されていた秘密が、ある日すべて明るみに出たのです。イエス様が言われたとおりです。「隠れているもので、あらわにならないものはなく」(マルコの福音書4章22節、口語訳)
良い知らせは、ヘブル人への手紙が、悔い改めてイエス様を信じる者たちの罪を、神はもはや思い出されないと語っていることです(ヘブル人への手紙8章12節、10章17節)。ダビデのように、こう主に願うのがよいでしょう。「今、私の罪を示してください。今、私を赦してください」と。なぜなら、後になってからでは遅すぎるからです。イエス様ご自身がこう言われました。「わたしが世に来たのは、世をさばくためではなく、世を救うためです。」(ヨハネの福音書12章47節、口語訳)もしあなたがこの地上で、イエス様を救い主として受け入れないなら、あの世で、あなたは主を「さばき主」として再び目にすることになります。
5. 七十年、あるいは八十年、そしてその先の飛び去り
モーセは続けます。
「私たちの日々はすべてあなたの激しい怒りの中で過ぎ去り、私たちは自分の齢を、ため息のように費やします。私たちの齢は七十年、あるいは健やかであっても八十年。それも誇りとするものは労苦とわざわいにすぎず、すみやかに過ぎ去って、私たちは飛び去るのです。」(詩篇90篇9〜10節、口語訳)
ソロモンはその分かりやすい例です。彼は最も知恵ある人でした。それでも、その罪のゆえに命は短くされました。従順であればもっと長く生きられたはずなのに、60歳で世を去ったのです。あるクリスチャンではない歌手は、死についてこう歌いました。「時間とは時計の恐ろしい針の音。死とはその永遠の中に潜む無限。しかし死に出会う者たちはどうなるのか。人生を稼ぐように、死もまた勝ち取らねばならないのか」と。詩篇90篇はこう答えます。そうです、罪のゆえに、あなたは死に値する者となったのです。ある女優が最近のインタビューでこう語っていました。自分は毎日死のことを考える、これほど恐ろしいものはない、そして「死は私たちすべてに下される罰だ」と。この点において、彼女は間違っていませんでした。
モーセ自身は、70歳ではなく120歳で亡くなりました。そして神から召命を受けたのは80歳のとき。それは、あなたが自分の召しを果たすのは自分自身の力によってではなく、あなたの内におられる主の力によってであることを思い出させてくれます。この詩篇に出てくる70という数字と80という数字は、おそらく荒野で早くに命を失ったイスラエル人たちを指しているのでしょう。けれども興味深いことに、2024年時点での世界の平均寿命は、男性で71歳、女性で75歳です。まさにその範囲にぴったり収まっているのです。
多くの人にとって、老年はただの労苦とわざわいにすぎません。130歳のヤコブは自分の人生を振り返り、それは「わずかで、わざわいの多い」ものだったと語りました(創世記47章9節)。79歳で亡くなったド・ゴールは、「老いとは難破のようなものだ」と語りました。確かに、神なき老いは難破です。けれども神とともにある老いには、一つの約束があります。この節をどうか心に刻んでください。「あなたがたが年老いるまで、わたしは変わらない。あなたがたが白髪になるまで、わたしがあなたがたを背負おう。わたしはあなたがたを造った。わたしが担い、背負い、救い出そう。」(イザヤ書46章4節、口語訳)
6. あなたの慰め、死に打ち勝たれた方
詩篇の記者はこの前半をこう締めくくります。「すみやかに過ぎ去って、私たちは飛び去るのです。」私たちは何に向かって飛び去るのでしょうか。それはすべて、あなたの人生に対する神の招きに、あなたがどう応えるかにかかっています。
ここに、あなたの慰めがあります。イエス・キリストを信じるすべての者への、この約束です。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きます。また、生きていてわたしを信じる者はみな、決して死ぬことがありません。」(ヨハネの福音書11章25〜26節、口語訳)
クリスチャンにとって、死は、そのものとしては経験されません。それは神とともにある永遠へと渡っていく通り道になるのです。あなたの人生は短いものです。あなたの体は、いずれちりに帰ります。けれどもイエス様があなたの住まいであるなら、枯れていく草とは違い、とこしえに変わることのない神のことばが、あなたにこう約束してくれます。死はあなたを引き留めておくことはできない、と。死は通り過ぎるべきものであり、乗り越えられるべきものです。あなたの神に会う備えをしなさい(アモス書4章12節)。それは遅かれ早かれ、必ずやって来ます。今日、あなたは救い主にこう言うことができます。「私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。そうすれば、私たちは知恵の心を得ることができます。」(詩篇90篇12節、口語訳)
覚えておきたいポイント
- 詩篇90篇は、モーセが書いた唯一の詩篇です。あなたに、自分の死を正面から見つめさせ、本当に大切なものを再発見させてくれます。
- 神はとこしえの方です。「とこしえからとこしえまで、あなたは神です。」一方であなたの人生は短く、夢のように、過ぎ去る花のようです。
- 死はあなたの味方ではありません。アダムを通してこの世に入った罪の結果です。
- 神は罪に対して正しい怒りを持っておられますが、イエス様は信じるすべての人のために、その怒りを十字架の上で引き受けてくださいました。
- 死を前にしたあなたの慰めは、イエス様ご自身です。「わたしを信じる者は、死んでも生きます。」
実践のための問いかけ
- もし今日があなたの人生最後の日だとしたら、誰に「愛している」と伝えるべきでしょうか。誰にもう一度福音を分かち合うべきでしょうか。何を待っているのでしょうか。
- 今あなたは、本当は何を自分の住まい、自分の避け所にしていますか。神でしょうか、それとも、あなたと一緒にいずれ過ぎ去ってしまう何かでしょうか。
- 永遠の光の中で自分の日を数えるとしたら、あなたは人生の優先順位をどう変えるでしょうか。
- 名前を口にしたくない、隠れた罪はありませんか。ダビデのように、今それを示してくださいと主に願い、今それを赦してくださいと求めることができますか。
- あなたはすでに、死に打ち勝たれたイエス様の御手に、自分の死をゆだねましたか。
引用聖句
- 詩篇90篇
- 詩篇46篇2節
- ヨハネ 14:23
- 使徒 17:26
- エレミヤ 10:23
- ペテロの手紙第二 3:8
- イザヤ 43:10-11
- イザヤ 46:4
- ヘブル人への手紙 2:14
- 伝道者の書 8:8
- 使徒 5章(アナニヤとサッピラ)
- マルコの福音書 4:22
- ヘブル人への手紙 10:17
- ヨハネの福音書 12:47
- 創世記 47:9
- ヨハネの福音書 11:25-26
- アモス書 4:12
よくある質問
聖書が永遠のいのちを語っているのに、なぜ死について考える必要があるのですか。
それは、あなたの死を見つめることが、すべてを、あなたの優先順位も、人間関係も、福音を分かち合う姿勢も、根底から見直させてくれるからです。モーセ自身、こう語っています。「私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。そうすれば、私たちは知恵の心を得ることができます」(詩篇90篇12節)。キリストの光の中で自分の死を正面から見つめることは、あなたを押しつぶすのではなく、かえってあなたを自由にしてくれます。
「神の怒り」を、恐れることなく理解するにはどうすればよいですか。
神の怒りは気まぐれなものではありません。それは悪に対する正しく聖い怒りです。信じる者にとって、この怒りはイエス様が十字架の上ですべて引き受けてくださいました。イエス様はあなたの避雷針です。ですから、恐れと敬意をもってこの怒りについて語ることはできますが、恐怖に支配される必要はありません。イエス様を信じるなら、神はもはやあなたの罪を思い出されないからです(ヘブル人への手紙10章17節)。
死が「通り道」だと知ることは、具体的に何を変えるのですか。
それは、あなたが今日をどう生きるかを変えます。神に仕え、大切な人たちを愛し、福音を分かち合い、病や死別に直面するときにも、この世が与えることのできない平安をもって向き合うことができます。イエス様はこう言われます。「生きていてわたしを信じる者はみな、決して死ぬことがありません」(ヨハネの福音書11章26節)。肉体の死は訪れますが、それがあなたを止めることはないのです。
Église Réformée Évangélique de Marseille Sudの説教を見逃さない
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